Itinerary: 3日目 その2
今野が出て行った後、時宗はしばらくそのままキッチンの椅子に座っていた。下の方で車庫の扉が開く音がかすかに聞こえる。四輪移動車で出かけるのなら、帰りは何時になるんだろう。
時宗に帰る気はなかった。事情をちゃんと聞かないと、この案件は終わらない。今野の訳ありな様子がひどく気になった。立ち上がると奥の部屋へ行き、下を覗き込む。
真下の車庫の前で、今野が雪かきをしていた。スコップで雪をすくっては、共同住宅の横に積んでいく。黙々と作業をする今野を、時宗はずっと見ていた。
雪や寒さの中で暮らすのはどんな感じなんだろう。時宗が耐えられなくなる寸前のタイミングに、今野は手を差し伸べてくれた。本当は時宗を追い払いたくはないのかもしれない。そう思うのは、読み違いだろうか。
なぜ今野は、人生を諦めた目で、自分はいないのと同じだなんて言うんだ。
考え込む時宗の眼下で、今野は雪かきを終え、小さな四輪移動車でどこかへ出かけていった。
じっと見送った時宗は、キッチンで自分の鞄を探った。白い薄手の手袋をはめると、奥の部屋に戻る。
決心したように、時宗は端末の電源を入れた。この際だ。何か今野の事情を理解するヒントを見つけてやる。探偵稼業やってる人間を、自分のねぐらに置いていくなんて不用心もいいとこだ。
なんでもいい、今野を理解したい。あの目が柔らかく笑うところが見たい。
自分でも変なんじゃないかと思うぐらい、時宗はそう思った。ストーカーだと思われたってかまわない。俺はただ、今野を説得する材料が見つかればそれでいい。
結論から言うと、今野のねぐらには何もなかった。
端末の中には個人情報のデータどころか、写真一枚入っていない。ゲームがいくつか入っているだけで、今野の身元や現在の状況を示すものは一切見当たらなかった。
ありえないことだ。家族や友人との写真、買い物、誰かとのメッセージのやり取り、やりかけの仕事、その他。この世界の人間は、生きている限り端末に何らかの人間関係や生活の痕跡を残す。しかし今野の端末には、本とゲーム以外、見事に何もない。情報ネットの履歴を見たが、恐ろしいことにエロ動画の履歴さえなかった。しかも本やゲームの購入はすべて無人売店での現金決済など足がつかない方法で、信用情報の記録はない。
どういうことだ?
いないのと同じ人間。
今野はいつでもここから消えられる。二度と帰ってこなくても、何も本人は困らないのだ。無防備に時宗を置いていくわけだ。隣の空き部屋だけじゃない。この部屋もまた、空疎だった。
時宗はむきになり、収納の中や本棚などを、探したとバレないように慎重に漁った。でもやっぱり無駄だった。書類などの類は一切ない。病院の領収証も、年金などの通知も、銀行の通帳もない。ごみ箱には無人売店のレシートが数枚捨てられているだけだった。
今野は戻ってくるだろうか。
そう思いながら、時宗は隣の三〇二にもピッキングで入ってみた。がらんとしたキッチンには小さなテーブルが置いてある。その上に手紙らしきものが置かれているのを見た時、時宗はやっと今野を見つけた気がした。何もない部屋の真ん中に手紙が置かれている光景は、誰かを待っているような感じだ。
だがそれも期待外れだった。どれも手紙ではなく、広告チラシだけ。
時宗は途方に暮れた。
何ひとつ、今野が生きている証拠がない。今野が何者で、何を仕事にしているのか、わからない。
ぼんやりと三〇二の中をうろつき、奥の部屋に足を踏み入れ収納を開ける。そこにぽつんと置かれていたのは、白い台紙だけの写真立てだった。
時宗は思わず口を押さえた。
きっとこの中には、写真が入っていたのだ。誰かの。誰か大切な人の。失われた人は誰なんだろう。母親? 父親? あるいは幼い自分自身? ……ひとつの、家族?
そっと写真立てを持ち上げてみる。なんとなく重いような気がして開けてみると、驚いたことに、何かが入っている。
それは、表から見えないよう白い台紙の裏に隠された、空の封筒だった。顧問弁護士から送られた正式な封書の外側だ。印刷された通話ⅠDには、指でこすったような汚れがついている。
たったひとつ。もし今野がここから消えた時に残される予定の、微かな繋がり。ここを探しに来た誰かが、このⅠDに通話して「今野が消えた」ことを告げるなら、祖父はそれを知ることになる。今野がここに「いた」ことを、祖父だけに明かす小さな欠片。
あいつは、本当はトウキョウに行きたいんじゃないか?
明らかに訳ありの生活。いないも同然の人間として雪の中を漂いながら、今野はきっと、自分の拠り所を見つけることに憧れている。
寒い部屋の中で鼻をすすると、時宗は封筒を端末で撮影し、そっと元に戻した。写真立ても撮る。
何日かかってもいい。今野から本当の事情を聞きだして、トウキョウに連れて行かないと。
音を立てずに、時宗はキッチンを抜け、三〇一へ戻っていった。




