Itinerary: 3日目 その1
かくんと首が動いた拍子に、時宗は目を覚ました。
ここどこだっけ? あぁ……そうだった。胡坐をかいて壁に寄りかかっていたのが、いつの間にか、毛布に埋まるように時宗は寝ていた。寝違えたらしくて、首が少し痛い。慌てて壁に耳を当てたが、隣は静まり返ったままだった。
しまった。いつ寝落ちしたんだろう。隣の住人は帰ってきて寝ているのか、それとも部屋は無人のままなのか。
顔を洗って……などと考えているうちに、奥の部屋で軽やかな着信音がして、男が通話に出た。引き戸は開いたままで、布団にくるまった男の頭が見える。
朝になったようで、ブラインドカーテンの隙間から男の髪に白い光が射しこんでいた。
「はい。はい……え?! いやオレ、一昨日戻ったばっかってあんた知ってんしょ? いや……そりゃそうだけど……。うん。……しかたないんか。……わかった十時前……場所は? うん。わかった」
今何時だろう? 傍らの携帯端末を見ると、八時を回った辺りだ。これから二時間後に、男は誰かに会わなければならなくなったらしい。
通話を切ると、男はしばらく無言だったが、ピッピッという音からして、どこかに通話をかけ始めたらしい。かすかだが、呼び出し音が聞こえた。
数十秒ほど男は辛抱強く待ち、それは報われたらしく、誰かのくぐもった声が応じた。
「あ生田さん? オレ海斗だけど」
は??
「いやだから弐陸改造型参の。いい加減、人間の名前の方で覚えてよ」
ちょっと待て。今お前、自分の本名を名乗ったよな?
「今日の昼前、出せる? うん。仕事入ったからそっち行く。うん。もう聞いてんのか……。多分。うん。よろしく」
通話が切れると布団がぱさりとめくれ、裸足の爪先が床に下りる。だぶだぶのスエット姿で髪がぼさぼさの男が起き上がり、端末片手に寝起きの顔でぺたぺた出てきた。
キッチンに足を踏み込んだ瞬間、唖然としている時宗の目と、男の眠そうな目が合う。それがハッと物事を思い出した目になり……。男の口が動いた。
「やべ」
時宗の肩から毛布がずり落ちる。
「お前……」
「いや、あの」
「お前が! 今野か!!」
敷布団を蹴って時宗が立ち上がると、今野はダッシュで奥の部屋に逃げ戻り、引き戸をぴしゃんと閉めた。中から言い訳が聞こえてくる。
「その、すまんってこれには事情が」
時宗は力まかせに引き戸を開けた。ベッドの横の壁に背中をくっつけ、今野は引きつった顔で時宗を見ている。時宗は怒りにまかせて部屋に踏み込んだ。
「おまえぇぇぇ昨日のアレ何だったんだよ! 隣には誰も帰ってこないって知ってたんじゃねぇか!!」
「いや知ってたけども」
「何なんだよ俺は顔面ブン殴られるわ、クッソ寒い外に何時間も立たされるわ。最初っからお前いたんじゃねぇか!!」
「すまんって」
「なんっっで嘘とかつくんだよ。行かないなら行かないで事情聞くし」
「あ~その、めんどくさくて」
「こっちは仕事で真面目にやってんだぞ!!」
「……悪かった」
息が切れた時宗が黙ると、今野は手を伸ばして机の椅子を引きだし、そろそろと座った。時宗は入り口の枠によりかかり、黙りこくった今野を眺める。逃げ出す気配はなさそうだ。時宗はキッチンに戻って椅子を引き、ぐったり座った。
とりあえず、凍死する前に目的の人物に接触することはできたわけだ。それは良しとすべきなんだろうが、昨日の一連のくだりは納得いかない。こいつ、他人のふりして時宗を追っ払おうと思っていたわけだ。一日を無駄にしたことより、好感を持った男に嘘をつかれたことが、時宗にはこたえた。
時宗が不機嫌に座り込んだのを見ると、今野は黙って奥の部屋から出てきて向かいに座った。
「マジで、なんで嘘ついて俺を追っ払おうとしたんだ」
むすっとした声で訊くと、今野は横を向き、もそもそ答えた。
「だって……仕事あるし、上に言わないでサッポロ出るわけいかねぇし。今更じいさんに会ったって意味ねぇし」
「だったらそう言ってくれればいいだろ。嘘つくって何なんだよ」
「……」
そもそも、どうして隣の部屋番号が今野なのに、こいつはこっちに住んでる?
「隣もお前の名義なのか?」
「……隣にオレが住んでることになってる。郵便も全部そっち」
「二部屋借りてるってことか?」
今野は黙って頷いた。
「なんでだ?」
「お前みたいなのとか来た時に、他人のふりで追っ払えるから」
「最初っから、追っ払うの前提か」
今野は立ち上がり、機械的な仕草で棚から食パンを出した。それを二枚トースターに放り込んで戻ってくる。
「追っ払うっていうか、オレっていう人間はいないのと同じだから、いないっていうのは本当だ」
どういう意味だ? 考えこむ時宗に向かって、今野は言った。
「パン食ったら帰ってくれ。オレはトウキョウには行かねぇし、じいさんにも会わねぇ……オレいなかったって言っていいから」
「そうはいかないだろ。仕事、休みもらえないのか?」
「もらえない。オレは、仕事やめるのも、休むのもダメなんだ」
「休むのもダメって……しがらみとか、あるのか?」
「……そんなようなもん。仕事やめたくても、金足りねぇだろうし」
今野は不意に窓の方を見た。遠くに行きたいと思っているような、寂しい目だった。人生を諦めてしまった切なさがあって、時宗は一瞬、その目に見とれた。凍てつく平原は、雪だけが地平線へ続いている。誰の足跡もない。哀しいほど遠くまで、今野の目は白い雪以外に何もなかった。
「いくらあれば、仕事やめられるんだ?」
「知らね」
時宗は端末を出して弥二郎に通話をかけた。
『おう、どうした』
のんびりした声にかぶせるように、時宗は聞いた。
「依頼人の財産って、今野はどのぐらい受け取れるんだ?」
『おい、もう見つけたのか?』
「たぶん」
『たぶんってどういうことだ』
「後で詳しく説明するから、とりあえずどのぐらいなんだ」
通話の向こうでしばらく沈黙があった。なぜ、その基本情報を言うのにためらう? 資料にも書いてなかったし。
『税金で減るとしても……おそらく億単位になる』
一瞬、時宗の思考が止まった。どれだけの資産家だよ。どうりで、他の親族の妨害を心配するわけだ。深呼吸をすると、時宗は口を開いた。
「わかった。後でまた報告する」
通話を切って今野を見る。無表情なまま、今野は座っていた。
「お前、おじいさんから億単位の金を受け取れるらしい」
今野の目が見開かれる。
「マジか?」
立ち上がり、今野はトースターへふらふら向かった。扉を開け、棚から出した皿にトーストを載せてテーブルに置く。さらに棚からポーションバターを出し、心ここにあらずという様子で封を開けてトーストに載せる。
「大丈夫か?」
「ん」
時宗の問いに、青白い顔で、今野は頷いた。手が小さく震えている。その手が今度は牛乳の真空パックを取り出し、封を切ってマグに注ぐ。
「おい、こぼすぞ」
「ん」
あふれる寸前で声をかけてやると、今度は動きを止め、自分のマグをじっと見ている。
しばらく待つと、時宗は牛乳パックを今野の手から取り、適当な別のマグに自分の分を注いでから、空のパックを流しに置いた。今野はふらふらと椅子に戻り、どさっと座ってトーストを見つめる。
「金足りるんなら、仕事やめられるんじゃないか?」
「ん……いや……」
しばらく無言で座っていた今野は、数分もしてからぽつんと言った。
「たぶんダメだ。金あったらあったで、タカられて終わる。金ない時よりひどいことになる」
沈んだ声だった。
「そんなにどうにもならないのか?」
「なんねぇ。……帰って、じいさんに言ってくれ。オレいなかったって」
「諦めてもいいのか?」
気づくと、時宗はそう言っていた。人生、何かに全額ツッこんで賭けなきゃならない時ってあるんじゃないか? 今野を見ていると、なんとなくそう思ったのだ。金額なんか問題じゃない。持ってる全部を賭けて獲りに行かなきゃならないものは、多分存在する。
今野が顔を上げた。青白い顔のまま、呟くように言う。
「もう……手遅れなんだ。オレはこっから出られね。……仕事行かないといけないから、それ食ったら……帰ってくれ。頼むから……鍵かんなくていいから。とにかく帰れ」
トーストにも牛乳にも手をつけず、か細い声でそう言うと、今野は洗面所に入っていった。身支度を終えると、無表情なまま奥の部屋で着替え、時宗の方を見ず鞄片手にキッチンを横切っていく。
玄関で靴を履きドアを開けると、今野は時宗の方へ振り向き、ほんのわずか微笑んだ。
「オレ帰ってくるまでに、ちゃんとトウキョウ帰れ。……したらな」
ガチャンと鉄のドアが閉まる。今野が話しているのは方言だったのだと、時宗は寂しく冴えた頭で考えていた。




