3日後
目を開けると、白い天井が広がっていた。
弥次郎の顔が、遮るように覗き込んでくる。
「目ぇ覚めたか」
「どこだ……ここ……」
ぼんやり聞くと、弥次郎がサイドテーブルに頬杖をついたまま答える。
「付属病院の個室だ。あんまり寝坊してるから、もう起きる気がないのかと思ったぞ」
「どのくらい寝てたんだ?」
「三日。寝るのに飽きないのかって呆れてた」
言いながら、弥次郎は柔らかい目で時宗の髪を撫でた。目を閉じ、手の温度を味わう。
「俺は仕事したんだ。休暇ぐらいもらってもいいだろ?」
「まぁそうだな。お前は……頑張ったよ」
泣いているような掠れた声で、弥次郎は答えた。
「よくやった」
「俺ひとりで出来た仕事じゃない」
「そうだな」
穏やかな沈黙が病室に降りる。点滴のパックに、様々な計器。体に色々なものが取り付けられているのに気づいて、時宗は改めて自分が生き残ったことを実感する。
「歩行箱は?」
「修理に出しておいた。石は無傷だったから、筐体を取り替えれば、お前の愛しのミニアちゃんは帰ってくるよ」
「名前呼ぶな」
「そうか? 子供の頃はお前もよく名前を呼んでたくせに」
名前を呼ぶのが恥ずかしくなったのは、いつ頃からだったろう。
「関係者は?」
「怪我人は全員、警察の監視ができる病院に収監してある。こっちからも警備を出してるから、安全だと思う。警察の担当者が激怒してたぞ。何も情報を寄越さないまま解決したってな。親父が全部対応した」
「おじい様が? 後で引き継ぐ」
くすりと笑って、弥次郎は息を大きく吐いた。
「……今回のことは、何も言わずに放り込んで悪かったな」
「ほんとだよ。言ってもらえれば、もう少し巧く立ち回ったのに。あんたも……さらわれないようにできたのに」
「俺のことはいい。最初から覚悟の上だった。お前を当主にする計画は何年も前からあったんだがな。結局、土壇場で荒れた盤面になっちまった。親父も落ち込んでたぞ。お前の救出のために屋敷を出たんだが、間に合わなくて。後で慰めてやってくれ。あれでも……心配してたんだ」
「知ってる。でも当主は俺だ。おじい様が出てくる場面じゃない」
「それでもな。可愛い孫のピンチを座って見てられなかったんだ。まぁ……目の前でかっさらわれて、俺もだいぶ、怒られた。連中、こっちに足止めをかけておいて大量の車で散ったもんでな。敬樹が山全体のカメラを十分で解析してくれた。それに……海斗の腕は本物だな。あいつプロになった方がいい。あいつらがいなかったら……間に合わなかったと思うと」
沈んだ目を見て、時宗は微笑んだ。
「向こうが食い下がってくるとは俺も思ってなかった。あれは向こうが一枚上手だっただけだ。今後の警備に生かせばいい」
「……すまなかった」
ぼんやりと弥次郎はサイドテーブルの上を見つめた。誰が持ってきたものやら、あらゆる種類のチョコレートが積み上がっている。
「みんな心配してる。……みんな。一段落したら美莉亜さんに、当主になれたことを報告してやれ。ずっと気にかけてる」
「お母様が?」
久しぶりに聞く母の名前に、時宗は目を見開いた。
「弥次郎あんた、お母様と連絡取り合ってたのか」
「ああ。離婚してからずっと、お前は気を張って、絶対に母親のことを口に出さなかっただろう? 一度だけでも、会いに行ってもいい頃合いだと思う」
「今どこに?」
「鉱山から西に抜けたところだ。ワイン農家と再婚して、葡萄育ててる」
「ワイン」
意外なほど近い場所に母がいたことに、時宗は驚いていた。鉱山から西に抜け……あの道をそのまま走れば、母の元へ行けたっていうのか。もっとも、鉱山を出る前に時宗は殺されるはずだったのだが。
「もしかして……俺が二十歳になった時にあんたが持ってきて一緒に飲んだワインって」
「お前が生まれた年のを一本買い取って、美莉亜さんが大事に保管してたんだ。あれはお前の母親からの祝いだった」
涙が枕に染みて、時宗は目をつぶった。
ずっと、会いたいと思っていた人は、近くにいたのだ。
すぐ、近くに。
一番辛い時……誰にも「助けて」と言えない時、あなたはひとりぼっちに思うでしょう。忘れないで。そんな時、お母様は絶対にあなたの近くにいるの。距離は関係ない。たとえ地の果てにいても、たとえ……あの世とこの世に分かれていても、それでも……。
弥次郎が時宗の頭を撫でた。
「長かった。よく……頑張ったな」
「うん」
この先も、辛いことなんてあるだろう。それでも生きていける。俺は、生きていける。
カチャリとドアが開く音がして、時宗はそちらを見た。海斗が部屋に入ってくるところだった。敬樹と時政が後ろにいる。
「お! 目ぇ覚めたか」
「弥次郎、目が覚めたらすぐ知らせろと言ったではないか!」
祖父の声に、弥次郎が首をすくめる。やれやれ。時宗は助け船を出すことにした。
「今、目が覚めたところです。弥次郎叔父様に無理をおっしゃらないでください。……ご心配をおかけしました」
「体は? 頭はまだ痛いか?」
「いいえ。もう大丈夫だと思います。聞きました。警察対応もしていただいて。あの時、鉱山に向かってお屋敷を出られたと」
「間に合わなかったが……」
「そのお心遣いに感謝いたします。今日もいらしてくださって。おじい様はもう、お屋敷に根を張ってしまったのかと思っていましたが」
「動きたいと思えば動く。まったく……余計なことを言えるなら、もう心配は無用だな」
「ええ。ありがとうございます」
祖父の目が潤んでいた。横から海斗が言う。
「おじいさん、病院の横のホテルに泊まりこんで面会時間ずっとここにいたんだ。だから、お前が目ぇ覚めたときに限っていなかったの、悔しいんだべ」
「なっ……海斗、お前も余計なことを」
「でもオレと敬樹にジュース買ってくれた」
ボトルを振って見せ、海斗はにんまり笑う。敬樹が苦笑いしながら口をはさむ。
「ぼくたちも、病室を出ていてすみません。休憩室で話し込んでて」
「へぇ……何話してたんだ?」
よくぞ聞いてくれたという顔で、目を輝かせて海斗が言う。
「車! 弐陸が警察に押収されちゃったし、もう使えねって言ったら新しいの買ってくれるって! あと、鉱山の道を好きなだけ走れるようにしてくれるって!」
弥次郎が呆れた顔をした。時宗もだ。
「親父……甘やかしすぎだ。なんだそれ。欲しい物何でも買ってやるって……」
「本当ですよ。鉱山の道はレース場じゃない。安全管理に詳しい人を見つけなければいけないんですから、そこまでおじい様がお金を出してくださるんですよね?」
「安全管理はしてあげるんだ……」
敬樹の呟きを聞きながら、よっこいしょと起き上がる。
頭が少しぐらつくが、悪い気分ではない。
サイドテーブルに手を伸ばし、適当にチョコレートを取って口に放り込む。
「んまいなこれ」
「売店で売ってました」
「敬樹が見つけたのか?」
「はい。時宗さんが気に入るといいなぁと思って」
「ありがとう。後でまた買う」
もぐもぐと口を動かし甘さを楽しむと、もう一個手を伸ばす。
「おい、マトモな飯を食ってない状態でチョコばっかり食うな」
弥次郎に睨まれ、時宗は素直に手を引っ込めた。弥次郎にだけは逆らえない。
時政は目を細めて、他愛ない会話をする時宗を眺めていた。敬樹が隅から椅子を持ってきて時政に勧める。
「ありがとう」
祖父が自然に座るのを、時宗は目を丸くして見ていた。
「おじい様もずいぶん素直になられましたね」
「黙れ」
敬樹がニコニコしながら時政を見る。
「ぼくも専門院に入りたいって言ったら、時政様がお金を援助してくださるって。海斗さんの分も。一緒に専門院に行けますねって話してました。」
「おい親父、だから孫を甘やかすのはやめろって。敬樹を育てるのは俺の楽しみなんだぞ。横から手ぇ出すな」
不満そうな弥次郎に、敬樹が楽しそうに笑う。
「ぼく、時宗さんみたいに頑張ります。専門院の頃も、時宗さんすごく頑張ってましたよね」
「いっぱい勉強してたんか?」
海斗の問いに、敬樹がなぜか自慢げに答える。
「講義に出て、アルバイトして、部活して、トレーニングして、帰ってきたらずっと勉強して。寝てる時以外はずっと何かしてたんです。首席卒業で答辞も読んだんですよ」
「へぇ~」
尊敬のまなざしがくすぐったい。
専門院時代、時宗はずっと何かしていた。あらゆる分野の本を読み、銃と護身術の練習をし、遊ぶ時間など一切なかった。空手部に入ったのは、練習相手が欲しかったからだ。そして暇さえあればアルバイトという名目で義時と時頼、そしてグループの動向を探っていた。本社の清掃をし、バーテンをやり……ギンザで黒服をやっていた時期もある。
「別に……普通だろ」
「普通じゃない」
弥次郎が不意に言った。
「俺と親父がお前を当主にすることを決めたのは、千尋からタレコミがあったからだ」
「千尋って誰だ」
あぁ、と弥次郎が声を出した。
「千尋だよ。唯 千尋」
「え。唯さんって弥次郎の知り合いだったのか?」
「……俺と千尋は本社に入った時の同期だ。俺は二年で警備に異動したが」
海斗と敬樹がそれぞれ椅子に座り、時政に買ってもらったらしい煎餅を食べながら、話を聞く体勢になる。
「同期……唯さんは何も言ってなかった」
「俺が言わないように頼んだんだ。驚いたぞ。ある日突然千尋から呼び出されて、あいつの馴染みのバーに行った時のことは、よく覚えてる」
「あ~……唯さんから弥次郎にバレてたのか……」
時政は眉を上げたが、何も言わなかった。
「バレるも何も、俺は昔からずっとお前の警備を指揮してんだぞ。ったく、お前が専門院二年生の秋頃、週に五回、それも朝イチに! 決まってシンジュクでその日の担当班がお前を見失うのが一ヶ月続いて、俺は頭を抱えてたんだ。で、千尋に呼び出されて言われた。『お前の甥っ子が、本社の上層階のトイレをずっと掃除してるんだが、お前は把握してるのか?』って」
「ちょうど募集してたから、潜り込んだんだ。まぁ……本社の連中も、まさか俺が自分たちのトイレを掃除してるなんて思わないだろうと思って」
「ホントだよ。千尋のおかげでわかったんだ。本社のセキュリティ用エネルギー・シールドのせいでお前の端末位置情報が切れてたんだって。俺が仰天したのがわかるか? まったく……」
懐かしい。時宗はいつもシンジュク本社の第一層、あの空き部屋で服を替え、帽子をかぶり、歩行箱を置いて清掃会社に行っていた。若いのに真面目だったので先輩のおばさんたちにも可愛がられ、仕事を始めてすぐ、時宗は上層階のセキュリティが厳しいエリアの掃除を任されるまでになった。
社長室と専務室の豪華な内装も、意味不明なスイートも、すべて時宗は掃除したことがある。本社の設備がどれだけ無駄遣いをしているか、無駄な人材が何人巣食っているか、時宗はずっと観察していたのだ。
「ひとつ聞きたいんだが」
弥次郎の質問に顔を上げる。
「なんだ」
「どうして千尋に声をかけた? ある日突然、お前の方から千尋に声をかけて南条のIDカードを見せてきたと聞いてるが」
「ああ……簡単な話だ。俺がトイレを磨いてる時に、ちゃんと挨拶をして、俺の仕事の邪魔にならないかを丁寧に聞いてから使ってきたのは……コネ入社しかいない、あの腐った偉そうな人間の集まりの中で、唯さんだけだった」
海斗が「さすがだぁ」と嬉しそうな声を出した。
「唯さんだけが、本社で一人、誠実な考えを持ったまま生き残っている。だから周囲とは桁違いに有能で用心深いと見た。で、本社の財務情報を抜くのに協力してほしいと話を持ち掛けた」
満足そうな声で、時政が会話に入る。
「その唯からの報告を受けた時、弥次郎と私は分かったのだ。時宗。お前は当主になることを諦めていない。二人で話し合い、唯に伝えた。できる限りお前に協力してほしいと。そして、お前を当主にするために何ができるかを、我々は考え始めた。……それからほどなくして海斗の父が亡くなり、政子の石と例の機械が組織の手に渡ったという情報が来た。問題は、いつ仕掛けるかだった。時宗が専門院を卒業し、機械が一応完成したところで、機は熟したと我々は判断した」
考えながら、時宗は無意識にチョコレートを取った。包み紙をはがし口に放り込む。
「なるほど。唯さんと、なかなか会う予定を擦り合わせられなかったのは、二人の差し金でしたか」
「ああ……あれには、鉱山関係の重要な資料が入っていた。マネーロンダリングの流れも、お前に時間があれば簡単に分析できただろう。義時がたとえ第五層案件を発動させたとしても、警察と検察がそれを拒否して動けるところまでの証拠を、お前は掴むことになる。
あの情報は、海斗と機械が動く時に同時にお前の手に渡るようにしたかったのだ」
祖父の告白に頷く。おかげさまで、時宗はためらいなく義時と時頼を南条から叩き出せた。
「剣が黒幕だと思ってましたが、こうしてみると、おじい様と弥次郎が黒幕だったわけですね。おかしいと思ったんだ」
「何が?」
弥次郎の問いに、時宗は次のチョコレートに手を伸ばしながら答える。弥次郎の眉が上がったが、叱ってはこなかった。
「考えてみれば、俺が初等に入る前から護身術を教えてくれたのも、初等時代に初めて銃の手ほどきをしてくれたのも弥次郎だ。それが、やけに簡単に拉致された。俺が高等二年の時も、誘拐事件で弥次郎は銃を使っていたのにだ。
おまけに、藤宮さんだ」
祖父の家の執事の、人の良さそうな笑顔を思い浮かべる。
「あれでも、俺がよちよち歩きの時には、既におじい様の家を取り仕切っていた筋金入りの執事だぞ。それが、左右のカフスボタンが違うお手伝いさんにおじい様の給仕をさせるなんて、あり得ない。
俺が別なことを考えていたからどっちも違和感を放っておいたが、今思えばおじい様も弥次郎も、義時と時頼を駒として操っていたんだ。おじい様に至っては、義時に実権を奪われた時から、いつか俺を使って奪い返す日を待ち続けていたんでしょう? 警備の指揮権を絶対に義時に与えなかった。それが、義時が組織に喰われる遠因になっている」
時政が微笑んだ。
「誠実で思慮深い者でなければ、私の後継者とは認めん。義時は……あれは幼い頃から自分を中心としたグループを作り、家名を笠に着て周囲を顎で使う者だった。自分の付き人や同級生に自分の宿題も、掃除当番もやらせて……。政子は石を広く人々のために使うべきだと言っていなくなるし、弥次郎は……」
「俺は器じゃないし、当主なんて面倒すぎる」
盛大な溜息をつき、時政は海斗に渡された煎餅を振って嘆いた。
「これだ。一向に言うことを聞かず、挙句、時宗を育てると言ってさっさと市井に下りおった」
「時宗には経験が必要だってのは、親父も賛成だったろ? 時宗が五歳で爆弾発言をぶちかました、あの時から美莉亜さんと話してたくせに」
「それは……」
「義時が美莉亜さんを追い出した時なんて、泣いて騒いだだろうが。俺が今の生活を始めたのは、時宗のためだけじゃない。親父のためでもあったんだから今更文句言うな」
「文句を言っているわけでは」
へぇ、と時宗はおもしろがって見ていた。
ずっと、祖父は物事の主導権を握らなければ気が済まない性格だと思っていたのだが、存外、弥次郎には弱いらしい。そういえば……義時と政子の間は聞けば二歳しか離れていないが、義時と弥次郎の間は十二歳も離れている。年の離れた末っ子として、弥次郎も時政に可愛がられていたということか。
何のために弥次郎が探偵稼業をしていたのか、ようやく答を得られる時が来たことに、時宗はどこか安堵していた。
「弥次郎は……俺のために探偵やってたのか」
弥次郎は肩をすくめた。
「義時が父親として機能していなかったし、このままじゃお前が潰されるのは目に見えてたからな。どうせ警備の仕事内容は変わらないんだし、適当な理由をつけて一緒に暮らした方が、楽だし面白いと思っただけだ」
どうして探偵なんて仕事をしてるんだ。
弥次郎に長年訊きたかったことを、本人はいとも簡単に口にした。だが、楽で面白いというだけで終わるようなものではなかったことは、時宗が一番よく知っている。義時との間で盾になり、時宗の日々の安全を常に確認し……。
無性に泣けてくる気分をごまかすように、時宗は弥二郎をからかった。
「探偵をやってみたかっただけで、遊んでるのかと思ってた」
「はあ?!」
弥二郎は時宗の手をぺちんと叩き、握りかけたチョコレートをひったくってテーブルに戻した。
「お前なぁ。俺が休めるのは、お前がうちでおとなしくしてる時だけなんだっつーの! 高等時代の事件だって、シフト交代で俺が行く直前を狙われて、俺がどんだけ焦ったと思ってんだ。
ったく、それにな、昔っからお前はあっという間に周りの人間を言いくるめてチョロチョロ隠れるのが上手すぎんだよ。おかげで俺がどれだけ一族に怒られたか。『南条の至宝』に何かあったらどうするって」
「『南条の至宝』? 鉱山か?」
初めて聞いた言葉に、時宗は思わず聞き返した。
「お前だよ! 鉱山がどうこうじゃない。晶石との共鳴能力のレベルが、じいさ……お前のひいじいさんは数千万人に一人のレベルだったが、お前はその上。同じ力を持ってるのは、世界中、お前を含めて現在三人しか確認されていない。それを守るのが俺の本来の仕事だ」
ふん、と鼻から息を吐いて、弥二郎はチョコレートの包み紙をむき、自分の口に放り込んで続けた。
「だからこそ、今回の件は一族全体に納得させる必要があった。こっちの動きを向こうにもお前にも悟られるわけにはいかなかったからな。お前に警備をつけずに一人で放り出すっていう決断に、親父まで反対しやがって苦労した」
お母様の泣きそうな顔を思い出す。弥二郎もまた、覚悟の上で時宗を送り出したのだ。それはどれほどの信頼と心配だったのだろう。
「弥次郎。あんたは最高の父親だよ」
ベッドの背もたれに寄り掛かって小さく言うと、そういうのやめろ、という呟きが聞こえた。
黙って話を聞いていた海斗が、思い出したように訊いてくる。
「時宗の爆弾発言ってなんだ?」
全員の目が海斗に集中する。注目に焦って煎餅を振る仕草が時政に似ていて、時宗は可笑しくなる。
「覚えてないんだよな~。俺は」
「「えっ?」」
時政と弥次郎が、同時に時宗を見る。
「おいマジか。義時があんなふうになったのも、親父と俺がお前のためにあれこれ動いてきたのも、全部あれがきっかけなんだぞ!」
「悪いんだが……覚えてない」
「お前が?! 本気か?」
時政にも詰められ、今度は時宗がたじたじとなった。
「時宗! すべてはお前が始めたことだからこそ、お前は最後まで立ち続けたものと私は思っていたが?」
「え」
三人がわぁわぁ言い合いだしたのを見ていた海斗が、手を振り回す。
「いいから! 何があったのか教えてくれてもいいだろ? そんで時宗が思い出すかもしれねぇし」
はぁぁぁぁと深く息を吐き、弥次郎がサイドテーブルから自分の端末を持ち上げた。ベッドの上の付属テーブルを引き寄せ、斜めに立てる。
「お前が五歳の時の花見だ。俺が撮った動画が……」
途端に、海斗と敬樹がベッドに駆け寄ってくる。
「見たい! 時宗の子供の頃! 弥二郎さん見せてくれ!」
「ぼくも! ぼくも見たいです!!」
「テンション上がりすぎだ」
鬱陶しく言う時宗に構わず、弥二郎はデータを探す。
「あ~、これだな。南条家の公式記録に残ってる」
テーブルに置かれた携帯端末の画面を、全員が覗き込んだ。
それは時政の屋敷で行われた、花見の光景だった。見たことのある政治家などが思い思いに歓談する様子を、カメラがずっと映していく。
途中で、カメラはひとりの少年を映し始めた。きょとんと目を見開いた幼い時宗は、何かをじっと見ている。
「うわ、かわいい……」
「かわいい言うな」
「でもかわいい……」
「だからかわいいって言うな」
少年はやがて、とことこ歩き始めた。右手に小さな道具箱を持ったまま、少年は祖父時政の足元へ行く。ガーデンテーブルにはミルクティーが置かれ、椅子には時政の他に、見知らぬ中年男性が座っていた。
『こんにちは。おじいさま』
幼い時宗がにっこり挨拶する。祖父が顔を向けると、時宗はなにやら口上を述べ始める。
『おじいさま、このたびは、お花見におまねきいただいて、ありがとうございます。おひざをおかりしてもいいですか?』
祖父の返事を待たず、時宗はその膝によじ登った。周囲の数人が気づき、あら、とか、おや、とか声を出している。
祖父の膝にちょこんと座った少年は、右手に持っていた箱をテーブルに置いた。中には折り紙が——折ったものも折られていないものも——雑多に入っている。その中から、時宗は折りたたんだ箱を取り出した。広げて、テーブルに置く。ちっちゃな指が、それを指差す。
『おじいさま、これは箱です!』
『……そうだな』
『ぼく、箱がすきなんです。おわかりになりますか?』
『ふむ。どうしてだね?』
『おかあさまがおっしゃったんです。箱にはいろいろなものがいれられるのよって。ぼくは、おもちゃをいれようとしたんです。おかあさまは、見えないものもいれていいのよって、おっしゃいました』
『あぁ』
『ゆめとかをいれてもいいんですって。おじいさまは、なにをおいれになりますか?』
静かに、祖父は答える。
『会社かな。鉱山と……列車と……』
幼い時宗は、目を輝かせた。
『やっぱり! おかあさまが、おっしゃったんです。おじいさまは、かいしゃっていうのをいっぱい作ったんですって。それは、ぼくのだいすきな、お山の石を守ってくれたり、列車をうごかしたり、たくさんの人のおうちを作ったり、たべものをはこんだりするための、エネルギー・シールドでできた箱みたいなものだって。ぼくは、まだ小さいですけど、もっと大きくなったら、すごく大きい箱を作ります』
祖父の目が、不意に真剣な光を帯びた。
『何を入れるのかね?』
『あのですね。おじいさまは、たくさんの人がしあわせになるために、たくさんかいしゃを作りました。それは、とてもうつくしいとおもいます。うつくしいって、このあいだべんきょうしました。ぼくは大きい箱をつくって、おじいさまが作ったうつくしいかいしゃをいれて、おじいさまのあとに、守るんです。この箱、おじいさまにあげます! ここには、ぼくが大きくなったら、おじいさまのかいしゃをまもれる箱を作るぞっていうゆめが、はいっています。ね?』
時政は、じっとその箱を見つめていた。やがてゆっくりと手を伸ばす。愛おしそうに箱を撫で、祖父は言う。
『そうか……。そうか。時宗。お前は、私の作ったものを守りたいのかね?』
『はい、そうです。たくさんべんきょうしますから、おじいさま、おまちくださいね』
にっこり笑った幼い時宗を、祖父はじっと見つめていた。その目が潤む。隠すように、祖父は幼い時宗を抱き締めた。
すぐ隣で一緒に聞いていた中年男性が手を伸ばし、祖父の肩をぽんと叩いた。
『よい後継者をお持ちのようですね。君、名前は?』
『ぼくは、南条時宗です。よろしくおねがいします』
『いい返事だ。君の成長を待っているよ』
『はい!』
幼い時宗のあどけない笑顔を見ると、中年男性は気を遣ったように立ち上がり画面を出て行った。
代わりに、カメラを持っている人間が座ったのがわかる。画面が揺れ、画角が下がる。
カメラマンは、近づいてくる人影を映した。若い藤宮だ。お盆からオレンジジュースとコーヒー、そして新しいミルクティーを置くと、彼は一礼して去っていく。
画面は、祖父の膝に乗った時宗に戻る。嬉しそうにジュースに両手を伸ばす時宗を、祖父は目を細めて見ていた。やがて自分もミルクティーを皿ごと持ち上げ、時宗の上を避けて斜めに飲み始める。
ずっと映されているのが気まずくなったのか、時政がカップから口を離して不満をこぼす。
「写真も動画も撮りすぎだ。いい加減にしろ」
画面のこちら側で弥次郎の声がする。
「後継者が見つかってうれしいくせに。親父、顔がニヤけてるぞ」
「ふん。顔になぞ出しておらん」
「そうか? まぁこれで一族も安泰だな。跡継ぎになりたくないってゴネてた姉貴に連絡したらどうだ? せっかくだ。姉貴がいたら」
「政子はおらん。最初からいなかったものと思え。名前も出すな」
「名前を出したのは親父の方だろ。可愛がってたくせに、なんでそんなこと言えるんだよ」
動画はそこで終わっていた。
弥二郎が端末を持ち上げながら言う。
「このやり取りは、近くで義時も含め、関係者全員が聞いていた。『南条の至宝』、かの天才児がわずか五歳にして堂々と後継者宣言をし、祖父時政が後継者として早くも時宗を認めたというので、当時はけっこうな騒動になった。親父は……時宗を連れてこい、時宗は来ないのか、時宗は何してる、そればかりになった。政財界のすべての者がお前の機嫌を取り始め、美莉亜さんはストレスで激ヤセした」
「お母様は……大変だったろうな」
「ああ。この瞬間こそ、今につながる決定的な場面だったと親父も俺もずっと思ってたのに、当の本人が忘れてるなんてな」
黙って記憶をたどる。
「そうだ……この場面。政子叔母様の名前をどこで聞いたのかを思い出した時、懐かしい気がしたんだ。確かに途中までは覚えてたんだが……初等三年で、義時がおじい様から南条の実権を奪った時に、俺は……この記憶を忘れようと決めたんだった」
義時が勝ち誇ったように時宗を罵った夜のことは忘れていない。
お前ごときが南条の当主になれると思うな。生意気で親の言うことも聞かぬ子供が。物事には順番がある。今日からは私が当主だ。八十まで生きてみせる。時頼がその次の当主だ。算数もできないお前のような者に当主の地位が巡ってくるのがいつなのか、ベッドで計算するがいい。
泣きじゃくる時宗を抱いて、お母様は義時に食ってかかっていた。
どうしてあなたは、息子を敵だとしか思えないのですか。あなたこそ、人を育てる者として、あまりにも未熟であると自戒すべきです。はしたない!
返事として戻ってきたのは例によって力まかせのビンタで、お母様は俺をかばって頬を真っ赤に腫らした。
俺はあの時、記憶を自分で箱に入れて「糸」を切った。泣き言を言いたくなかったから。あの夜に、義時は父ではなく敵になった。当主になれないのは父のせいだと思うことを時宗は拒み、祖父の威光に甘えることは絶対にしないと誓ったのだ。
何があってもお母様を守り、自分で父を倒せるまで強くなる。足りないのは自分の努力だけだと思うために、時宗は夢を口に出すことを封じ、感情は心の深い場所に潜伏させてしまった。
自分が当主になるためには、用心深くあらねばならない。殺されないために、闇の奥で時宗は虎視眈々と敵の喉笛を狙う者となった。祖父に可愛がられる孫ではなく、父を信頼する息子でもなく。
ただ孤独に牙を研ぐために、時宗は己が当主になるまで、言葉に甘えることを封じたのだった。それでもなお子どもらしい甘さが残っていたのを思い知らされたのが、高等時代の誘拐だった。
「初等卒業の折に私がお前に石を渡そうとした時も、義時はすぐに察して激怒したのだ。高等時代の誘拐事件はあやつにとって、お前を亡き者とする良い機会でもあった。弥次郎がいなければ、お前は生きておらん」
祖父の淡々とした言葉の中には、安堵が滲んでいた。数々の危険を潜り抜けて、時宗は生き残ったのだ。
弥次郎がチョコレートの箱についたリボンをいじりながら言う。
「専門院を時宗が卒業したのは、義時には脅威だったんだろうな。あれを境に、お前を目の届くところに置きたいという思惑が露骨になってきて。経営がうまくいっていない鉱山の責任を押し付けて、お前の社会的な評価を地に落とす計画も見え見えだったし。遅かれ早かれ全面対決は避けられないなら、少しでもこっちが有利になるように盤面を整えるのが俺の仕事だった」
チョコレートの奥から、弥次郎は小さな箱を持ち上げた。
細工のない小さな箱だが、暗証番号を入力する小窓がある。弥次郎は暗証番号を入れてから時宗に渡してきた。
「番号覚えておけ」
小窓を見てから箱を開ける。中には時宗の晶石が入っていた。
そっと持ち上げ、黙って見つめる。
「……きれいですね」
敬樹の呟きに、みんなで頷く。海斗もポケットから自分の石を出した。
二つの石は共鳴するように輝きを増す。
「オレさ……専門院に行って、あの機械とか、いろんな晶石機械の仕組みを勉強したい」
「うん」
海斗の言葉に、石が応じるように星をこぼした。
「時宗がオレを迎えに来た時は、真面目くさった奴が来たなと思ったんだけど」
「うん」
「ありがとな」
その言葉に、顔を上げて穏やかな目を見る。海斗はその目のまま楽しそうに言う。
「退院したら、一緒にラーメン食いに行くべ」
「そうだな」
「あと、もしかしたら仕事手伝ってやる」
「期待してる」
しばらく黙って石を見て、時宗は呟く。
「海斗だって、ひとりだったのは俺と同じだ」
「うん」
「弥次郎は海斗に会いに行ったことはなかったのか?」
「直接見に行ったことはある。三〇二のドアを叩いてる時に、隣から政子姉にそっくりな奴がひょこひょこ出てきたから、面白くてな」
「で? 俺が海斗に気づくかどうか試した、と」
「時宗はくそ真面目にあの共同住宅を見張るだろうから、どこかの時点で気づくだろうとは思ってた」
「どうだか」
そう言うと、時宗は石を撫でる。
「ミニアが帰ってきたら、石をしまう」
そうして、お母様に一緒に会いに行こう。海斗の車で、一緒に鉱山に行こう。そして。
「春になったら、お花見に伺ってもよろしいでしょうか。おじい様」
「桜と言わず、いつ来ても好きなものを飲めるようにしておく。時宗も、海斗も、敬樹もな。己の人生をしっかり生きよ」
「ええ」
時政は立ち上がり、看護師と入れ替わるように、後ろを見ずにきびきびと病室を出ていった。
次の春、美しい桜の下で、きっと俺たちは笑ってミルクティーを飲むだろう。人生は続いていく。大事な家族と一緒に。
石を灯りにかざして、時宗はその中心の輝きを目に焼き付ける。
どんな記憶も、これからは、この煌めきと共に思い出すのだろう。大切な人に助けられて手に入れたこの優しい光は、きっと桜の下で空と共鳴し、自由に唄うのだ。




