半年後
自宅の玄関に入ると、時宗は大きく息を吐いた。
外は暑い盛りで、昼下がりの蒸すような空気は埃と交じって肌に絡みついてくる。ネクタイを緩め、スーツのジャケットを脱ぎながら廊下を歩き、リビングに直行する。後ろからは、前より足音が軽くなった歩行箱が、相変わらずカタカタくっついてくる。
結局、時宗たちは引っ越さなかった。探偵事務所は、弥二郎が警備部隊の部下に副業として手伝わせる形で継続している。住んでいるのは第二層から第三層にかけての共同住居の一部であり、海斗の部屋が加わっただけで、生活はごく一般的なままだ。警備の必要で、時宗の移動だけは矢代の運転になったが。
義時と時頼が住んでいた屋敷は、主たちが勾留されている今、ほぼ空き家となっていた。時頼の妻子は離婚が成立して実家に戻り、時宗が経済的援助をしている状態だ。あそこは時宗が育った場所でもあるのだが、戻る気にはなれず、時宗は何か第一層の人々のための福祉施設に使い回せないかを検討している最中だった。
広いリビングの一角には、キッチンカウンターにくっついたダイニングがある。食事用のテーブルには本やらノートやら端末やらが一杯に広げられ、海斗と敬樹が黙々と勉強していた。
声をかけず、ジャケットをソファに放り出すとキッチンに向かう。冷蔵庫からアイスコーヒーを出し、シロップとミルクをたっぷり入れると、それを持ってダイニングテーブルに向かう。
時宗は自分の椅子にどっかり座り、二人が積み上げたノートをぱらぱら見ながらアイスコーヒーを飲み始めた。歩行箱は掃除機と何やらコミュニケーションを取っていたが、隅っこのエネルギー・ステーションへ向かっていった。
十五分程度、そうして静かな時間が過ぎると、カウンターの上でタイマーが鳴った。
途端、海斗と敬樹が鉛筆を放り出し、一緒に伸びをする。
「つっかれた~」
「時宗! 帰ってきてたんか」
「ただいま。ちゃんと集中してて偉いな二人とも」
曾祖父の作った専門院は、この国でトップクラスに難しい。二人はコネを使わずに合格すべく、猛勉強の最中だった。タイマーをかけ競うように勉強する姿に、弥二郎も時宗も口を挟まない。ただ学費について、弥二郎と時宗、それに祖父の三人で、自分が出すと言い張る不毛な言い合いに決着がついていないだけだ。
さっきパラパラ見たノートを再び広げ、時宗は指差す。
「海斗、お前この公式がこの形になるのはなぜかっていう理解が足りてないから、同じ形式の問題が苦手になってる。参考書で最初の説明を検討しなおしたほうがいい。それで一気に苦手意識がなくなるはずだ。
それと敬樹。読解のここ、仮定文を正確に読めてなくて、本当にあったこととして文脈をとらえてる。仮定法を復習しなおせ」
二人が参考書と問題集を開くのを眺めながら、アイスコーヒーの甘さを味わう。誰がなんと言おうと、シロップはたくさん入れるに限る。
「時宗の脳みそ、どうなってんだ?」
「ほんとですよ。いくら勉強しても追いつかないから、怠けたくならなくて、助かります」
お前らの方が、よっぽど俺はかなわない。
敬樹が時計を見た。
「お昼ご飯、焼きそばにしようと思ってたんですけど、どうします?」
「それなんだが」
時宗はグラスを置き、頬杖をついた。
「午後からのミーティングが、先方の都合でなくなったんだ。終わったら本社で他の仕事をしようと思ってたんだが……人に時間を合わせる仕事が一切ない午後になったんでな。唯さんと話して、これから鉱山の様子を見に行こうかと」
秘書室長の唯に許可はもらったと聞くなり、海斗と敬樹の顔がぱあっと輝いた。
「ホントか? オレ行きたい! 行きたい!」
「ぼくも!!」
「だろうと思った。俺は先週も行ったが、お前らは」
「一ヶ月ぶりだぁ! 時宗! 山の中走ってきていいか? おじいさんが買ってくれた新しい弐陸、セッティング変えて石を入れてからちゃんと動かしてねんだ」
「わかったわかった。敬樹と二人で走ってこい」
「え~。時宗も」
「俺は坑道の中を見て、事務室で仕事だ」
「お前も息抜き!」
「……わかったって。俺はシャワー浴びて着替える。お前らも支度しろ。弥二郎は……」
「なんか浮気調査行ってます」
「結局、探偵やりたかったんだな……」
「やりたかったんでしょうね」
敬樹と見合って笑う。
「時宗! 行く途中でラーメン食べるべ! こないだの店、んまかった!」
「そう言うと思った。ほれ、早く行こう」
言いながら自分も立ち上がり、自室に向かう。慌ててくっついてくる歩行箱のために、ドアを開けて先に入れてやる。
クローゼットを開け、Tシャツを選び、履き慣れたジーンズを出す。長袖のアウターを入れるついでに、歩行箱の装備も確認する。
着替えを用意しながら、鉱山の仕事について考える。
鉱脈については大丈夫。各部署の細かい見直しは進んでおり、新しい人材の起用も順調だ。
あれから、事件処理の最中に時宗は警察と取引をし、マキを不起訴にしてもらった。マキは剣を始め、反社会組織にかかわる金の流れについて、持っているすべての情報を警察と南条家に渡すことで、自由の身となった。
今、マキは鉱山の管理部で働いている。別に恩義を感じる必要はないと時宗は言ったが、マキは時宗の忠実な部下として、全力で仕事に打ち込んでいた。
それが生きがいになるんだったら。
時宗はマキに過去のことは言わず、一緒に食堂で食事をし、意見をやりとりし、時々、飲みに行く。
新しく入ってきた者に丁寧に仕事を教えているマキの姿は、頼もしいものだった。
あとはゲストハウスだが。
どうにか手を入れ、福利厚生施設のひとつにしたい。どうするか。鉱山に限らずすべてにおいて、貧富の差を埋める努力は続ける必要がある。
やることは多いけれど、時宗はそれを楽しんでいた。
シャワーを浴びて着替えると、時宗は玄関に向かった。今か今かと待ちながら、海斗と敬樹は新しい車のセッティングについて、暗号のような会話をしている。
「行くか」
ごく自然に、歩行箱が膝の横をカタカタ抜けていく。垂直昇降機を降り、敬樹の手で弐陸の後部に載せてもらったミニアは、三人の気持ちを理解しているように晶石を光らせた。
お母様とはメッセージのやり取りを続けている。来週には弥二郎と一緒にミニアを連れて訪問する予定だ。
お土産は何がいいかな。
考える時宗を助手席に乗せ、海斗は車のエンジンをかけ、車庫の自動扉を開けた。
来月はまたホッカイドウへの出張が控えている。海斗と共に生田氏に会い、開発の進み具合や周辺機材、あるいは利用形態について詰める必要がある。鉱脈を探す候補地も選別しなければならない。
青く鮮やかな弧を描き、弐陸は滑らかに上昇していく。第四層空中道路に乗ると、海斗は心から楽しそうに愛車を駆った。
西へ。懐かしい土地へ。
夏の濃い青空は、世界を祝福するように、あっけらかんと笑っていた。




