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サスティナブル・バディ  作者: 夜野 綾


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Itinerary: 5日目 その20

 今なら、時宗はあの時のことを明確に意味付けられる。

 時宗にとって、あれは人生を賭けた命懸けの試験であり、原初の恐怖に打ち克つ壮絶な闘いだった。

 警備部隊は時宗の歩調に合わせてくれた。防水ブーツの上まで水に浸かり、靴の中から水があふれていても、時宗は自分の足で歩いた。道が雨水にえぐられて細くなった場所はすぐ見つかった。彼らは強力なライトで下を照らし、あっという間にロープで降りていった。

 ものの数分で戻ってきた部隊員の背中には、少年がいた。号泣し続ける少年を、時宗は励まし続けた。あと少しで帰れますから。もう大丈夫。この方たちはすごいんです。

 自分自身にも言い聞かせながら、時宗は最後まで自分の足で歩き切った。

 あれは、お母様にとっても闘いだったのだ。

 連絡を受け、坑道入口近くの救護室で待っていたお母様は、時宗を見るなり駆け寄ってきて、抱き締めてくれた。

「よかった。無事に帰ってきてくれて、本当によかった」

 堰を切ったように泣きながら、お母様は時宗の頭を抱え込んでいた。寒さと安堵でガタガタ震えている時宗と、同じぐらいお母様も震えていた。

 おそらく、お母様は覚悟の上で時宗を送り出した。当主として生きるべく宿命づけられた我が子を、身を切る想いで千尋《せんじん》の谷へ行かせたのだ。

 家へ帰ってから熱を出した時宗を、お母様はずっと看病してくださった。時宗がどんな気持ちだったか、どんなふうに警備の人と話したかを話す間、お母様は熱心に聞いてくださった。

 結局、あの時の少年には再会できなかった。足首の骨を折ったという診断は聞いたが、それきりだ。名前を聞いておけば、探して改めて謝ることもできたのにと思った時宗は、以来、初対面の人にはとりあえず名前を聞くようになった。

 そして、少年が森へ入った理由。

 今の時宗には、彼に危険な行動をさせた言葉が何だったのか、わかる。

『僕は、皆さんとは違う』

 時宗は単純に、ただ「違う」という事実を言ったつもりだった。自分は帰り道を教えてもらえるけれど、他の人は教えてもらえない。ただの「違い」。

 しかし、少年はあの言葉を挑発と受け取ったのだ。

「俺はお前とは違う」

 そう、確かにそれは挑発だった。時宗が意識しなくても、あの言葉は「僕ができることを、あなた方はできないでしょう?」というタチの悪い挑発だ。結果、少年は自分の能力を証明しようという野心に駆られ、嵐が始まる森へ足を踏み入れた。

 愚かだったのは少年か、時宗か。あれから時宗は一層用心深くなった。

 同時に、石の本質も学んだ。

 人間は、誰かの言動に価値判断や自分の解釈を乗せて考える。自然は、そうではない。その絶対的な違いを思い知った出来事として、時宗の内には、ずっとあの体験が根付いている。

 あの時の少年がマキだったのか。

「南条。君は覚えてないかもしれない。だが俺は、週に何度も君を見ていた。俺たちがボールを蹴っているのに目もくれず、君はグラウンドの隅をとことこ駆けて姿を消す。しばらくして、突然森の中から現れる。

 君はいつも特別で、鉱山の人間は誰もが君を大切にしていた。専門院時代も……君は、完璧で、特別だった」

 マキに対して、この瞬間に時宗が感じたものを、言葉にするのは難しかった。

 怒りというのが、最も近いかもしれない。

 自分に対する怒り。

 相手を見抜けなかった、愚かな自分への怒り。

「一体、あなたは俺の何を見ていたんだ。俺は完璧じゃない。普通の人間として……あなたは見てくれていると」

「そうじゃない」

 間髪入れず、マキが遮った。

「完璧、というのは、君が思っている完璧じゃない」

「じゃあ、何だって言うんです?」

 硬い声の問い返しに、マキは力なく笑った。

「君は、このグラウンドで俺に言った言葉を覚えているか?」

「僕は……皆さんとは違う」

「そうだ。俺はそれを言われた時は、バカにされたと思った。自分より遥かに小さい子に、偉そうなことを言われたと。それで俺は……自分だって、森の散歩ぐらいできると思って、あの道に入った」

 時宗が想像した通りだった。あの言葉が、少年だったマキを駆ったのだ。

「そして、思い知った。君は圧倒的に、『正しかった』んだ」

 居心地の悪い言葉に、時宗はひるんだ。

「俺は足を滑らせて小さな沢に落ちた。足が折れて……激痛で動けない上に嵐が来て、俺は泣きわめいていた。そこに君たちが助けに来た」

「ええ……」

「惨めだったんだ。君は、俺より遥かに小さい上にびしょ濡れで、雷が鳴るたびに飛び上がって、ガタガタ震えていた。なのに、弱音を吐かずに俺を励ましながら、必死で歩いていた。あんなに……弱くて小さいくせに、ちゃんとリーダーだった。

 専門院時代もそうだ。君は常に、人間の在り方として『正しい』んだ。謙虚で、真面目で。誰かの言うことをしっかり聞き、意味なく出しゃばらない。でも人が困っていれば自然に助ける。ひたむきに自分の目標に向かって努力し、他人に寛容で。誰かと衝突すれば、相手の感情をまず理解して、それから相手に合わせた対応を考え……」

「誰だって、そうあろうと努力するのは普通じゃないですか?」

 マキは肩をすくめた。

「そうだ。普通のことだ。誰だってやろうと思えばできる。南条だからとか、そういうのは関係ない。君は一人の人間として、あまりにも……努力し続けることを含めてすべてに……手を抜くことがない。誰も見ていない時も、君は最善を尽くす。失敗すれば必ず改善して次までに直しておこうとする。何もかもが……高潔なリーダーとして『正しい』在り方で、努力し続けることが当然だと思っている」

 そんなこと言われたって。

 時宗の感想は、その一言だった。無言で突っ立っていると、マキは勝手に続けた。

「誰だって、君のようになりたいと思うだろう。でも普通は途中でサボる。他の誰かがやるだろうとか、結果が出なくて疲れたとか、相手が自分の言葉を聞き入れないとか、理由をつけて、百%で居続けることから下りてしまう。君にはそれがない……あの日、君が俺を助けに来た時に思い知らされた。君と俺とは違う。それは圧倒的な事実だ。人間としての格が違う。俺は……俺には、無理だった。だから、君には相談したくなかった。相談すれば、君は苦も無く人々を説得し、すべての人に愛される高潔なリーダーとして君臨するだろう。君自身、自分がリーダーになることが最善の解決策であることを知っていて、周囲もまた、君をリーダーに頂くことで安心する。

 真の王とはそういうものだ。俺は……絶対に敵わない」

 当主になるために教育されてきた。当主として生きるとはどういうことか、時宗は命懸けで叩き込まれてきた。

 お母様は言葉遣い、振る舞い、あらゆることについて注意深く時宗を育ててくれた。自分の努力を卑下することは、お母様、おじい様、弥二郎、そして自分を育ててくれたすべての存在を貶めることだ。

 俺はお前とは違う。

 今こそ、時宗はその言葉をもう一度噛みしめていた。俺は南条時宗だ。南条家当主にして晶石鉱山を統べる者。その在り方が、一見、自分にもできそうだったからという理由で嫉妬される云われはない。

「俺は……当主になるために育てられました。当主の仕事は、普通の人間で在り続けることだと思っています。俺があなた方と違うのは、努力を続けるための集中力と持続力を周りの方に育てて頂いたことだ」

 恵まれていた。それは確かだ。

 それでも本音を言わせてもらえるとしたら、俺の努力の量は、あんたと同じ土俵で比較できる程度だと思われていたのか? 普通に見えることが一番難しく、人によっては不可能なことであるのは事実だし、生まれた時から環境が違うのもどうにもならない。それを取り払ってなお、俺はあんたに「正しい」と言われるほど安っぽい努力しか、してこなかったのか?

 大きな溜息。

「そうなんだよ。君は、自分の地位を鼻にかけず、周囲への感謝を口にする。その上で、絶対に手を抜かず。俺より努力し続ける。その……人間としての、圧倒的な出来の良さが、俺を追い詰める」

 俺は、あんたより努力した、んじゃない。

 俺は、あんたより遥かに多く努力した。その差こそが、決定的なのに。

 何を言っても無駄なのだと、時宗は悟った。自分が真面目に相手と向き合おうとする姿勢まで、マキの癇に障るのだ。

 時宗は口を開かなかった。生理的な拒絶に近いマキの告白に、時宗は黙るしかない。距離を取ることでしか、互いに生きる方法はないのだ。

 諦めろ。

 時にそれが必要になることを、時宗は知っていた。

 マキにとっては、時宗が呼吸していることさえ苦痛なのだ。自分のこの、憎しみとも怒りとも違う感情に、何と名前をつけるべきなのだろう。


 不意に肩が叩かれ、時宗は飛び上がった。

 横を見ると、海斗が立っている。時宗の肩に左肘を乗せ体重をかけると、海斗は目元を赤く腫らしたまま、不敵に笑って言い放った。

「さっきから聞いてりゃ、お前エラそうになんなんだ? 時宗なんか、別にできた人間じゃねぇべ。チョコばっか食ってそのうち糖尿になるだろし、玄関でひっくり返って寝てるし、変な食いモン見ては野次馬で買い漁ってるし。

 こいつは誰かの前で必死こいて、いいふりこきしてるだけだぁ。ほんとは口悪いし、無茶なことやるアホタレだし。

 でもな、いいふりこきだって、疲れんだよ。なぁ~にが、時宗の『正しさ』だって? そんなこと言ってたら人間キリねぇべ。人一倍頑張ってる時宗見て、自分はそこまで頑張れないからってグチグチ言うのは違うんじゃねぇの? それこそ、時宗は頑張ってんだ。お前なんかとは違うんだよ。適当なこと言う前に、お前も、マイナス二十度の場所に三時間立っててみろや。時宗はそれをやった。下手すりゃ三十分で死ぬ場所でな。誰にも見られないように、隠れて。

 できないんなら、それこそお前と時宗は格が違う。格が違う奴相手に、な~にが『追い詰める』だよ。お前なんか、時宗の相手にもならね。F1チャンピオン相手に、免許取りたてが『あの人には勝てない』とか思うか? お前が言ってんのはそういうことだ」

 海斗の横顔をしげしげ見る。口元は笑っていたが、その目は一切笑っていなかった。冷酷に敵を切り捨てる時の目だ。

「お前……見てたのか……」

 それに答えず、海斗はマキを睨み据えていた。さっきまで泣いていたくせに、時宗に何かあれば即座に戦線復帰する——その綺麗な横顔には、紛れもなく一族の家訓が刻みこまれていた。

「頑張るのに疲れたから、手っ取り早く裏の連中に助けてもらって、仲間に一服盛って洗脳して、か? やってること、さっきの誰だっけ、義時さんとかと変わんねぇ。あっちは金で誰かに言うこと聞かせてたけど、クスリなんて、お前の方がタチ悪いべ。言っとくがな、石はオレの母さんの形見だ。その機械は父さんの形見だ。南条なんか関係ねぇ」

 海斗は息を吸うと、機械をびしっと指差す。

「それは、オレんだ」

 何を言えばいいか時宗が考えている間に、海斗はすべて言い切ってしまった。

「お前……」

「時宗も時宗だ。なんでこんな奴の言うこと黙って聞いてんだ。ここが大事な場所なんなら、物事さっさと片付けろ。オレ腹減ったんだから」

 撃たれた古い傷に淀んでいた痛みが、すっと引いた気がした。

 マキもまた、俺のことを見てはいなかった。自分の『正しさ』を主張するために、もっともらしい理由を探しただけだ。それは、時宗を傷つける理由にはなり得ない。するべきではない。

 重心を落とし、時宗は群集に聞こえる声で、はっきり言った。

「人の努力の『量』に嫉妬するなんて、あなたもずいぶん……薄っぺらい。俺はあなたを尊敬していた。それはあなたが、自分の持っているすべてを使って努力していると思っていたからだ。そうじゃなかったんですか?」

「……だが」

「だがもへったくれもねぇよ」

 乱暴な口調に、マキの視線が上がった。

「あんたは、何がやりたかったんだ。本当の目的だ」

 マキの唇が震える。

「自主……採掘権を南条から取れば……」

「南条に代わって自分が富と権力を独占できる?」

「違う! 最初は、最初は、違ったんだ。当主が代替わりした時、両親は労働条件の悪化で体を壊して、仕事を辞めなければならなくなった。周りも皆、そうだった。だから、俺が南条を倒して、労働条件を……」

「そのまま、純粋に自分の信念に生きることが、どうしてできなかった」

 沈黙。マキのこめかみを、汗が流れていく。冬の夜なのに、その筋がやけにライトに光った。

 ボールを小脇に抱えて時宗を咎めた、あの時と同じように。

「子供の時と同じってことか。あんたは。自分の能力を誰かに認められたい。自分の努力を誰かに認められたい。尊敬されるリーダーであることを証明したい」

「違う! 俺はいつだって人々のために」

 言ってから、マキは言葉を切った。取り繕ったところで、時宗には通用しないことを悟ったのだ。

 時宗は歩行箱に手を伸ばすと、晶石に触れた。ジャキンと脚が伸びる。心の中で、自分の意志を伝える。開けてくれ。

 箱の上部がカチャカチャと鳴り始めた。内部で複雑な動きが始まる。瓶の蓋のように、上半分がぐるりと回転したかと思うと、箱は形を変えた。底部に隠されていた小部屋がせり上がり、中に入れておいたものが衆目にさらされる。

 それを手に取ると、時宗は無造作にマキに向かって投げた。

「なっ、これは……!」

「昼間、おじい様から受け取った結晶体だ。ここの鉱脈を最初に見つけた時に、ひいおじい様が持ち帰った巨大な結晶体から削り出された。さっき海斗が外した石とは双子になる」

 時宗は口を歪めて笑って見せた。あんたは俺の努力を辱めた。ならばこの先の互いの人生がどうなるか、衆目の前で占ってやろうじゃないか。

「やってみろよ。舞台は整った。あんたが正しいなら、石は応えるだろう」

 群集に向かって煽る。

「お前たちのリーダーが、これから装置を起動する! 何が起こるか、その目で見届けろ!」

 呆然としていたマキの目に、微かな野心の火が灯る。

 やれるもんなら、やってみろ。自分の正しさを証明できれば、お前は納得するんだろう? とことんやろうじゃないか。この俺に正しさを押し付けるなら、俺は最後までお前の主張をしゃべらせてやる。

 その結果、惨めな罠にかかるのは俺じゃない。



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