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サスティナブル・バディ  作者: 夜野 綾


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Itinerary: 5日目 その19

 その道は、幼い時宗の冒険ルートだった。

 道を辿って森を登っていくと、その先にはちょっとした尾根がある。尾根の山頂に近い辺りには、木々の中にぽっかりと、平らな岩がむき出しになっている場所があった。

 それは『弁当岩』と呼ばれていた。お弁当箱の形だから、と時宗は思ったが、実際は、曾祖父がこの辺りを歩き回っていた時に、座って弁当を食べた岩だからだという。曾祖父は、疲れて寝転がり空を眺めている時に、鉱脈を感じ取ったのだそうだ。

 いきさつを知る前から、岩は鉱脈に直接つながっていることを、時宗はなぜか理解していた。石が太陽の光を浴びてまどろむ特別な場所。時宗はその岩に座って足をぷらぷらさせ、虫の物憂げな羽音を聞く。陽射しに眠気を誘われ、岩の上に寝転がるのは気持ちがよかった。

 暖かい岩肌に頬をくっつけ、触覚を揺らしながら歩き回るアリを見つめる。風が吹き抜け、木の枝が揺れる。生い茂った葉がさわさわと音を立てる。

 時宗が感じたものを、岩肌が一緒に感じている。五感が溶け合うのが楽しくて、時宗はくすくす笑う。そのまま、うつらうつらする。

 そうやってしばらくいると、石が囁きかけてくる。

 もうすぐ、さむくなるよ。

 きみの、おじいさまと、おかあさまが、よんでるよ。

 時宗は起き上がり、来た道を戻る。

 小道からグラウンドに出ると、決まって夕暮れの日差しの中で、子どもたちが駆け回っていた。彼らは鉱山で働く人たちの家族だ。麓には家族向けの寮や住宅街があり、保育園や学校もある。麓と鉱山施設の間には無料の中型旅客車両が絶えず行き来していて、小学生は学校が終わるとグラウンドに遊びに来る。

 時宗は、その子たちと遊ぶことはなかった。彼らは石とは関係なく、自分たちの遊びに夢中だったからだ。危ないからという理由で、彼らは森に入ることを禁じられていた。迷っても石に帰り道を教えてもらえないのだ。一方で、時宗は常に森を歩き回るのが好きだった。だから一緒に遊ぶことはできなかった。


 あれは、初等に入る直前だった。

 昼下がり、いつものように弁当岩でのんびりしていると、岩が囁きかけてきた。

 もうすぐ、あめが ふるよ。たくさん あめが ふるよ。

 空気の匂いを嗅ぐ。水の匂いがしていた。さっきまで木々を大きく揺らしていた風が、妙に静かになっている。気温が急激に下がってきていて、森には薄い靄がかかり始めていた。冷たく重い空気が、肌にまとわりつく。

 嵐が来るのだと時宗は悟り、弁当岩から滑り降りて歩き始めた。いくら道がわかっていようと、子どもの足で転んだり、沢に滑り落ちたりすれば、危険であることに変わりはない。素直に帰るのが最善だった。

 小道からグラウンドへ出たところで、時宗は立ち止まった。少年たちが七、八人、待ち構えるように立っていたのだ。時宗より二、三歳は年上だろう。彼らがボールを追いながら、いつもチラチラこちらを見ていたのは知っていたが、なぜ今日に限って?と時宗は思った。

 とはいえ、時宗の方は用なんてなかった。ぺこりと頭を下げると、グラウンドの縁に沿って歩き始める。

「おい」

 声をかけられ、立ち止まって振り向く。リーダー格らしき、背の高い少年がボールを小脇に抱えて時宗を見つめていた。初等三年生ぐらいか。まだ初等にも入っていない時宗には、相手がひどく大きく見えた。

 この少年は、どうして自分に声をかけたのだろう。嵐が近づく冬の午後、山はどんどん寒くなってきていたのに、汗ばんだ額には髪が一筋張り付いている。きびきびした仕草で、少年は時宗に近づいてきた。

「あの道、危ないから入っちゃだめだって言われてないのか?」

「ああ……僕は、あの道に行きたいんです」

「でもだめだろ。今日だってすごく言われたんだ。天気が悪くなるみたいだし、絶対に入るなって」

「そうですね。皆さんは入ってはいけないんでしょう。でも僕は、皆さんと違うので」

 少年の顔が歪み、赤くなった。何かを言おうとして、口が開きかける。

 その時、誰かが時宗を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、時宗専属の警備の人が手招きしている。

「時宗様。お母様が呼んでおられましたよ。食堂でおやつを食べましょうって」

「ありがとうございます。今、まいります」

 返事をすると、時宗は少年に向き直る。ぺこりとお辞儀をしてにっこり笑う。

「注意してくださって、ありがとうございます。でも僕は大丈夫なんです」

 言うなり、軽やかに道を駆ける。頭の中では、もう、今日のおやつのことを考えていた。


 おやつのプリンを食べ終える頃、空は夕暮れを待たずに真っ黒くなり、叩きつけるような雨が降り始めていた。

 お母様と一緒に食堂を出る。警備の人に傘を差してもらって、時宗は車に向かって歩いた。食堂を出てすぐの路肩にはすでに帰りの車が待機していて、矢代が運転席から降りてきて、傘を広げて立っていた。

 ふと、時宗は立ち止まった。

 何かが聞こえた気がしたのだ。切羽詰まった叫びのように、時宗には聞こえた。

「時宗さん?」

 お母様の呼びかけに答えず、じっと山頂の上の方を見る。

 ヒトが。ちいさいヒトがね、いたいって。かえりたいのに、いたいって。

 こめかみに、ピリッと痛みが走った。

「お母様」

 考えるより前に、時宗は見えた情景を話していた。

「誰かが森の中で、怪我をして泣いています」

 お母様は少し黙って、それから横の警備の人の耳元で何か指示し、食堂へ取って返した。

 玄関ホールのドアを閉め雨音を遠ざけると、お母様は警備の人たちを呼び寄せ、真剣な調子で言う。

「何を見たのか、何をしたいのか、この方たちにお話ししてごらんなさい」

 つたないながらも、時宗は説明した。

「グラウンドから、お弁当岩に行く道があるんです。今日、そこを帰ってきた時に、初等三年生ぐらいの方たちに注意されました。危ないから、森に入ってはいけないと。僕は……僕は大丈夫なんですと言ったんですけど、あの方たちは、僕がよくないと思ったみたいでした。

 多分、その方の誰かが、森に入ってみた気がします。お弁当岩の近くに、きっといます。怪我をして動けなくなって、泣いています」

 警備の人は、どうしてそんなことがわかるんだ、という目をしていた。

 カッと山全体が明るくなり、同時に耳をつんざくような雷鳴が轟いた。時宗の肩がびくっと震える。

 雷は怖かった。家にいる時はいつだってお母様に駆け寄り、震えながらしがみついたものだ。

 警備の一人が言った。

「天気予報でも、嵐が来ると言っていました……調査部も午前中で仕事を切り上げたと聞いています。このタイミングで森に入るとは考えられませんが……」

「ええ。僕も、石に教えてもらいました。もうすぐ雨が降るから帰りなさいって」

 その言葉を聞いて、警備が全員、そういえばという顔をした。この子は特別な子。ヤマの声を聞き、指先で鉱脈を操る力を持っている。

「でも僕、あの方と話した時に、たぶん、よくないことを言ってしまったように思います」

 何かはわからない。でも、自分の言葉の何かが少年の帰り道を狂わせた。その事実が、時宗を責めていた。何かを失敗した。自分は失敗してはいけないのに。

 一人が言った。

「転んだか、滑ったか……ただ、この天気で救助に向かうのは危険では?」

「ですが、遭難したのは子供でしょう? 今夜は気温が相当下がるはず。どの程度の怪我なのかわかりませんが、一晩待つことで手遅れになる可能性も……」

 大人たちが協議している間、時宗は自分が言った言葉を思い返し、相手の表情が変わった瞬間を見つけようと足掻いていた。おやつのことなんか、考えなければよかった。

 黙って聞いていたお母様が不意に口を開く。

「時宗さん。その方がどの辺りにいらっしゃるか、わかりますか?」

 ぱっと顔を上げて答える。

「はい。グラウンドから小道をずうっと上がっていって、大きな木をぐるっと回るところがあるんです。その向こう側で、ちょっと道が細くなっていて……足を滑らせたら、下に落ちてしまいそうなところがあります。雨だと、とても危ないと思います」

 警備の人が考え込む。

「時宗様のおっしゃる場所は、我々も、警備の事前調査で把握しております。我々であれば、晴れていればグラウンドから十分程度で到達可能です。あそこは確かに、足を滑らせて沢に落ちることはありえますね」

 お母様は何事かを決断したように、しゃがみこんで時宗と視線を合わせた。

「時宗さん。あなたは、その方についてどう思っていますか?」

「えっと、僕は多分、何かその方が怒るようなことを言ってしまったと思います。僕のせいで、森に入ったとしたら……僕は……」

「失敗してしまうことは誰だってあるわ。大事なのは、その後、どうするかです。時宗さんは、どうなさりたいの?」

「僕、あの方が心配です。怪我して泣いているなら、迎えに行きたいです。痛いなら、一緒にお医者さんに行ってあげたいし。それから、謝りたいです」

「そう」

 カッと外が光り、地響きと共に飛行艇でも落ちたような、凄まじい音がした。山のどこかに落ちたらしい。

 あの少年は、この中で、一人うずくまって泣いている。自らの行いを後悔しているのは、時宗だけじゃない。ならば、寄り添って声をかけたい。嵐に怯えながらも、時宗は、今ここで帰ってしまうのは、絶対にしてはならないと思っていた。

 お母様は警備の人たちの顔を見上げて頷くと、時宗の両肩を抱いて言った。

「わかりました。時宗さん。警備の方々をあなたが指揮なさい。おじい様は……今日はトウキョウに行ってらっしゃいますから、お母様が連絡を差し上げます。鉱山の管理部や、他の方々にも。みなさん、急いで来てくださるはず。その方々が合流するまでは、あなたが指揮を執るのです。行って、怪我している方を助けて帰ってくるまで、お母様は待っています。ひとつだけ、約束してくださる?」

「はい」

「絶対に、あなたも、警備の方々も、誰も怪我せずに無事に帰ってくること。いいですか?」

「はい。お約束します」

 ほんの一瞬、お母様の顔が泣きそうに歪んだ。だがそれを隠すように、お母様は時宗をぎゅっと抱き締め、すぐに離した。

「いっていらっしゃい。お約束は守ってね」

「いってまいります」

 時宗は唇を引き結び、警備の人たちと共に食堂を出た。


 警備車両で移動し小道の入口に着くと、時宗は強力なライトで照らされた小道を見つめた。

 そこは、いつもと全く違う場所になっていた。葉が銃撃戦のような音を立てて揺れ、森全体がゴウゴウと唸っている。道は沼地のようにぬかるんでいて、勢いのある水が何本も横切り、沢へ流れ込んでいた。

 相変わらず雷は近く、全員、傘を差さずに防水コートを着て身を寄せ合っている。

 緊張したまま、時宗は先を歩く警備の背中を追って、一歩踏み出す。途端に、視界が真っ白になり、地が裂けるような雷鳴が襲ってくる。

 原初的な恐怖に圧倒され、時宗は立ちすくんだ。怖い。ただひたすら、怖い。稲光が気まぐれを起こし、ちょっと指先で弾いただけで時宗は吹っ飛んでいくのだ。防水ブーツの中にも水はすでに入りこみ、歩くたびにグジュグジュと不快な音をたてていた。足元がおぼつかないことで緊張はどんどん増していく。体が震え、雨水だけではない冷たいものが背中をたどっている。

 何よりも恐ろしいのは、石がこの自然の猛威を楽しんでいることだった。ずっと、時宗は石と共有する感覚は同じだと信じていた。でも今、時宗自身が感じている恐怖を石は理解できていないのだ。晶石は盛大な光と音を、ちょっとしたショーぐらいにしか感じていない。土を穿つ雨粒も、自分の欠片を見たことのない世界へ運んでくれる、楽しい乗り物でしかない。

 時宗は、はっきり悟っていた。ヒトがただここで寿命を終えて朽ちても、それは……その程度の恐怖は晶石にとってはどうでもいいのだ。ヒトも動物と同じであり、ただ生きて死ぬ命の循環の中にある限り、晶石は自然の一部としてヒトを受け入れ愛でるだろう。それは人間の愛し方とは全く違う。心配も、気遣いもない。ただ、動き回り、生きて、死ぬ存在を、「ああ、動いて、生きて、死ぬ」と認識するだけ。

 だからだ、と時宗は思った。

 だから、石は人間の強い感情を嫌う。動いて、生きて、死ぬ。ただそれだけの場に「それはいいこと」「それは悪いこと」「正しいこと」「許せないこと」という「考え方」が入るのが、石は受け入れられないのだ。

 ヤマで感じたことのない孤独に、時宗の震えは止まらなかった。今や鉱脈は喜びに溢れ、雷のエネルギーを取り込み、地を震わせる音に身を委ねて楽しんでいる。

「……時宗様、戻りましょう。車両内でお待ちください。管理部も現在、人を集めていますから、到着を待った方がいい」

 時宗は唇を引き結んで考えた。誰も怪我をしてはいけない。その可能性を第一に考えなければならないのだ。

 慎重に口を開く。

「聞いてもよろしいでしょうか」

「はい。なんなりと」

「人が集まるまで、あとどのぐらいかかりますか?」

「三十分……一時間程度でしょうか」

「僕はとても小さいです。皆さんは……大きい皆さんがこの道を行くのは、どのぐらい大変でしょうか」

「そう……ですね。我々、警備の者は特殊訓練を行っておりますから、この程度の事態であれば、慣れております」

「あなた方は、強いんですね……教えてください。もし、他の方たちが集まる前に、あなた方だけで、行って、戻ってくることはできますか?」

「正直なところ、この事態に慣れていない人々が来ても足手まといなので、我々だけで行って帰ってくれば逆に早いかと」

 時宗は、そう答えた警備の人の顔を見上げた。男っぽい四角い顔が、にこりと笑う。時宗の意図を汲んだように、こっそり目くばせしてくれる。

「背負って差し上げましょうか?」

「いいえ……いいえ、僕は自分で歩かなければ」

「ではロープで私と時宗様をつなぎましょう。何かあれば、引っ張ってください」

「はい!」

 腰にロープを結んでもらっただけで、時宗の緊張は少し緩んだ。足元の感覚を確認する。

「では行きましょう」

 ライトで照らされた森の入口で、太い雨筋がカーテンを作っている。こくんと唾を飲み込み、時宗は決然と、カーテンの向こうへ足を踏み出した。

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