Itinerary: 2日目 その3
男の部屋は、整頓されすぎていた。
ちょっと広めのキッチンと寝室一部屋という作りで、物はほとんどない。キッチンのテーブルに袋を置くと、男は風呂の方を見た。
「お前、風呂入ったほうがいんじゃねぇか?」
時宗は立ったまま、うなずくのが精いっぱいだった。暖かい空間に入った途端、気が緩んだのか体の震えが本格的に止まらない。手も足も指が冷え切ってこわばり、歯がガチガチ音を立てていた。
男は風呂場に入り、湯船の栓をしたり給湯器をいじったりすると、今度はキッチンにあった晶石ストーブの勢いを強めた。青白い火が燃え上がり、それが時宗を少し落ち着かせてくれる。
こいつほんとはいい奴なんじゃないか。
普段なら多分そんなに感激しないんだろうが、今の時宗は男の一挙手一投足がありがたかった。
やかんに水を入れている男の背中に、時宗はとりあえず声をかけた。
「あ……ありがと、ございます」
歯の根が合わないせいで声が間抜けだが、呼び鈴連打は申し訳なかったという気持ちを込める。男は黙ってやかんを火にかけると、戸棚を開けながらもそりと言った。
「いや……オレもいきなりドアぶっけて悪かったし」
男は小さなパックを棚から取り出し、マグに何かの粉末をさらさら入れる。
「お前、生姜湯大丈夫か?」
「飲ん、飲んだこと、ないけども」
「あっそ。座れや」
時宗は言われたとおり、震える手でがたがた椅子を引き、座り込んだ。温熱ジャケットを脱ぐ気にはまだならない。鞄まで背負ったままだった。
男はやかんのお湯が沸くと生姜湯を淹れ、時宗の前にことりと置いた。
「それ飲んだら風呂入れ。いきなり飛び込むなよ。足の先からちょっとずつお湯かけて、慣れてから入らないと心臓がびっくりして死ぬから」
「は、はい」
生姜湯の湯気が痛い。顔の筋肉をむにゃむにゃ動かし、しばらく両手でマグを持ってから、時宗はおそるおそる生姜湯に口をつけた。スパイシーで温かみのある香りが鼻の奥に届く。あったけぇ。
泣きそうになりながら、時宗は少しずつ飲んだ。喉から体の中を抜けて胃に落ちていく熱のおかげで、人間に戻る感じがする。
給湯器が軽やかな音を立てると、男は奥の部屋からバスタオルを持ってきた。
「風呂にあるもの好きに使っていい。終わったら栓抜かないで、フタしといてくれ」
それだけ言うと、男は奥の部屋へ引っ込んでしまった。
素っ気ないけど、気を遣ったつもりなんだろうか。まぁ、ここまでやってくれた親切で十分すぎるぐらいだ。時宗は生姜湯を飲み干すと、やっと温熱ジャケットを脱ぎ、風呂へ向かった。
ちゃぷんという水音は、ひどく落ち着く。最後に風呂に入ったのっていつだっけ。いつもシャワーで済ませていたから、こうしてお湯につかるのは、ずいぶん久しぶりだ。
風呂から上がったら、弥二郎にまた通話しなきゃな。
考え事をしながら、時宗は鼻の下までお湯につかった。忠告どおり少しずつ体を温めてから入ったおかげか、お湯は心地いい。
弥二郎としては、何日ぐらいを見越して時宗を寄こしたのだろう。事務所として他の案件も引き受けるつもりなら、明日か明後日には帰らないといけないかもしれない。それまでに今野に接触できなければ、仕切り直してもう一度来ることになる。依頼人の病状ってどうなんだろうな。余命が短いようなら、危篤になる前に決着をつけないと困るだろう。
最悪、報酬もらう前に死んだりしてな。
そんなことを考えながら、時宗は湯船の中で手足を動かした。大丈夫そうだ。
部屋に入れてくれたあいつには謝礼を渡さないと。自分の金を置いて帰ってもいい。
改めて、助けてくれた男は何者なんだろうと思う。普通の労働者という雰囲気ではない。自由業という感じがした。ちらりと見えた奥の部屋には、大きめのベッドと机があった。机に鎮座していたのは高機能の大型情報端末で、仕事をしているとすればそっち関係だろう。書類を広げるスペースはほとんどなかった。
風呂に入っている間も、周囲は静かだ。寒さを遮断するためか壁は分厚く、外の音が聞こえない。まったくの無音という環境は、トウキョウでは考えられない。壁に埋め込まれた配管からは何かが流れる音が常にしているし、あらゆる種類の機械が、そこかしこでカタカタしている。おまけに移動車の音もひっきりなし。
こんな静かな場所で、あいつは何をして暮らしているのか。端末に向かって仕事やゲームをしている男の姿を想像してみる。それはなぜか、楽しそうに見えなかった。なんだろう。あいつにとって、それは本当の趣味や仕事であるようには思えないのだ。もっと……もっと何か、体を使って遠くまで行く姿の方が、男にはふさわしいように思えた。情報の海の中にいる別人格に旅をさせるのではなく、実際に体を使って進んでいく旅。少し危険で、冷静な知恵が必要とされる旅。
晩飯を食べながら、もう少し話ができるだろうか。
いつの間にか、顔だけではなくその性格にも時宗は興味を持っていた。人を追い払っておきながら引き入れる矛盾。素っ気ない口ぶりで小さなアドバイスを怠らない細やかさ。ドアで人の顔面をブン殴る乱暴さと生姜湯を淹れる気遣い。
あんまり入れ込まない方がいいに決まってんだけどな。
仕事にひと段落をつけるか、あるいは切り上げてトウキョウに帰るか、いずれにしても、今回の案件が終われば、ここの住人と再び会う機会なんかゼロに近いのに。
時宗は、自分があの男に興味を持っていることに、面倒くささを感じていた。




