Itinerary: 5日目 その9
時宗は、座る前にまず敬樹をぎゅっと抱き締めた。怒鳴られる怯えと恐怖に、敬樹は逃げ出さず、パニックも起こさずに耐え抜いたのだ。海斗も敬樹の頭を撫でた。
敬樹は時宗の腕の中で深呼吸をすると、体を離した。
「呼吸できるか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
にっこり笑って見せると、時宗は祖父を見た。一番奥の上座にどっかりと腰を下ろした時政は、労わりあう三人に厳しいことは言わず、窓の外を見ていた。
やれやれ。手がかかるじいさんだ。
時政の横に時宗が座ると、ごく自然に海斗が祖父の正面に座ったので、時宗は内心驚いた。もう少し引くかと思ったのだが。
しかし海斗はソファーに深く腰掛けると、敬樹に笑いかけて座らせてから、時政と同じように窓の外を見た。二人の仕草はそっくりだった。祖父の目も、海斗のものと同じだ。誰の足跡もない雪原を見つめる、孤独な眼差し。どこか遠くへ。自分の想いのままに行きたいと願い、愛情を探しに行くことを渇望しながら、それを諦めようと思っている目。
しばらく外を見ていた海斗は、穏やかに祖父へ視線を向けた。
「……庭、すごく綺麗だなぁって思いました。今は誰も見る人がいないって、本当ですか?」
祖父は庭を見たまま答える。
「そうだな……以前は招待していたのだが……客は誰も……庭など見ない。それに気づいて、私はすべてが嫌になってしまった」
「客はみんな、南条家の権力と財産を見に来る」
「そういうことだ。だから、私は引退してからは誰にも見せたくなくなった。この庭を美しいと思っている者以外に見せる必要はない」
「……わかる気がします」
海斗は再び窓の外を見た。少し向こうに池があり、その手前で水仙が揺れている。年古りた松が、緑の枝を池に向かって差し伸べていた。それは老いたもの特有の無邪気さを湛え、孫に池を自慢するように揺れている。手前の芝生の中を、散歩用の小道がのんびりとしたカーブで横切っている。庭師が道具を持って歩いて行くところだった。
冬の日差しの中で、庭は春の準備をしながら静かに眠っている。
「あの、今度お散歩してもいいですか? 池とか見たいです」
海斗はゆっくり言った。時政が、穏やかな声で答える。
「そうか。案内しよう。梅が咲いたら、また来るといい。桜が咲いたら……そうだな、ここ数年は花見も……しておらんが……」
時宗は黙ったまま、座っていた。今、言葉を出すのは無理だ。喉に想いが詰まってしまって、何か言ったらみっともないことになる。ずっと孤独だった祖父と孫が静かに話す光景は、懐かしくて、優しくて、そして……。
ドアが開き、紅茶の香りが部屋に満ちた。
藤宮ではなく、さっきとは別の中年女性のお手伝いさんがトレイを持って入ってくる。それを見ながら、時政は会話を続けた。
「あの箱を開けるのに、どのぐらいかかったのだ?」
「三十分程度だったようです。この石……十年以上も箱の中にあったのですね」
「そうだな。私は時期尚早だったかもしれないと思いながら、あそこに置いたまま心を決めかねていた。だがお前は……自分で結論に至ったのだな」
「まだ結論を出したわけではありませんよ。ただ……おじい様の築いてきたものが危機に瀕していることは、憂いております」
ティーポットから紅茶が静かに注がれ、時政の前に音を立てずに置かれる。
「政子の夫が作った機械。政子の息子。これらの件にどう対処するかにあたって、同時に、私と弥二郎は時宗、お前のことも話し合った。義時と時頼の横暴は目に余るものになっている。義時は、あれは……私が政子に結晶体を与え後継者として指名したことを、ずっと……ずっと恨んでおる。政子の手に結晶体が渡された時の、あれの目を私は忘れられない。結局あれは……強引な手で本社の株を買い占め、私から実権を奪い取った。
弥二郎は私に言った。限界だ、と。晶石鉱山は枯渇しかかっている。グループ内のあらゆる企業の歯車が狂い、連携が取れていない。無能がのさばり、有能な者がやめていく。
もし時宗、お前に力があるなら……いつか必ず、誰の命令も受けずにお前は動き始めると弥二郎は言い張った。我々ができるのは、きっかけと方向を与えるところまでだと。お前が動き始めるかどうか、それは賭けだ。お前がこれから何をするか、私は口を出すことができない。それが弥二郎との約束だ。海斗と機械の回収にお前を行かせる。その後に事態がどう転がっても、お前がどのような進路を選んでも、決してお前に指示をしないこと。それが、私がお前たちの訪問を受け入れる条件だった」
祖父の紅茶にミルクが入れられる。お手伝いさんが立ち上がると、時宗は指先を振り、海斗と敬樹に先に飲ませるように無言で指示をする。
「訪問を……受け入れる……?」
「弥二郎は、お前が海斗を連れてここへ来ることを信じていた。布石はすべて打った、と。あやつめ、この父に言い放ちよった。『選択する権利は親父にはない。そのことを肝に銘じろ。時宗にああしろこうしろと言う気なら、絶対に時宗からの訪問の申し出を断ること。それができなければ、俺は二度と一族の動向も情報も持ってこない。時宗を行きたいところに行かせ、俺も時宗から離れる』と」
あの適当ぶった仕事の押しつけの裏に、二度と会えないかもしれない覚悟があったってのか。土産まで要求しておいて。
土産を、買ってきたんだ。あんたが言ったものを。あんたがなぜ酔狂な仕事をしていたのか、教えてくれ。それは俺のためだったのか。俺が歩き始めるまで待つためだったのか。
なあ。あんたは今どこにいる。
「いつもよりおじい様がおとなしかったのは、そういう理由だったのですね。僕が箱を開けるまで、待っていらした?」
「……そうだ。待っていた。お前が箱に対してどのような反応をするのか、私は見ていた。箱を守るよう、私は使用人たちに厳しく言いつけてあったのに、お前はいとも簡単に突破した。箱を開けて石を見た後も、自分が次期当主としてすでに指名されていたことに、拒絶も疑問も示さなかった」
そういえばそうだった、という目で海斗と敬樹がこちらを見る。時宗は肩をすくめた。
石が伝えた、祖父と自分との間の愛情深い繋がりについて、言う必要はない。
「最初に箱に触ったあの時、箱の大きさの割に石の波動が大きいことには気づいていました。だから実物を見た時には納得した。そして腑に落ちた。それだけです」
「何に?」
「父と兄が、あれほどに僕を押さえつけようと躍起になっていたことに、です。つい先月も、父は僕を取り戻して言うことを聞かせようと、弥二郎叔父に怒鳴っていた」
「まだそんなことをしておるのか」
「ええ。おそらく、様々な失敗の責任をとらせる駒にしたいのだろうと思ってはいますが……。弥二郎叔父様とおじい様の心配は尽きませんね。まだまだお元気でいてくださらなければ」
圧し潰されそうな感覚は、忘れられるものではない。自分にはまだ弱さが残っている。
海斗と敬樹に紅茶を出し、砂糖とミルクを入れ終えた女性は、四人が座っている応接セットを周り込み、時宗の横に膝をついた。
「弥二郎叔父様は……今どこにいらっしゃるのか。それに、例の機械と政子叔母様の石も取り返す必要がある。
おじい様に心当たりはありますか?」
「わからない。最後に弥次郎と話したのは、四日ほど前だ。明日、お前がサッポロへ向かうと」
あの会話。しぶしぶ引き受けた出張仕事。時宗がシンジュクをうろついていた頃、弥二郎は本当の案件が始まることを宣言していた。
「その後は?」
「連絡はない。最後に話した折、弥二郎は話していた。例の機械の買い手が誰かが、わかりそうだ。晶石鉱山に行って調べてくると」
「晶石鉱山?」
「ああ。政子の石は、あの山から掘り出された物だ。ここにある石とは双子の関係にある。もしかしたら、あの機械は何かの動力源であるだけでなく、あれ自体に何か役割があるのではないかと弥二郎は言っていた」
「ひとつお聞きしたいのですが、『買い手』は義時か時頼と、おじい様は考えておいでですか?」
「もしそうなら、弥二郎を拉致するまでもなく機械は受け取れる」
「ええ。そうですね。経営者側が買い手でないのなら、労働者側……」
弥二郎は独自に取引について調べていた。時宗に「ゆっくり帰ってこい」と言ったのは、買い手を時宗より先に突き止めたかったからか?
時宗の前にカップが置かれ、ティーポットから紅茶が流れ落ちる。その液体が震え、カップの外にこぼれた。ポットを持つ手が微かに震えているのだ。その手がぎくしゃくとトレイに戻ると、砂糖に手が伸ばされる。
時宗は、気づく前にその右手首を掴んでいた。ガチャンという音と共に、突然掴まれた女性が、短い悲鳴をあげる。
覗き込むように、時宗は女性の目を見据えた。
「あなたのお名前は?」
「申し訳ございません。申し訳ございません」
「謝罪は要求していません。あなたのお名前は?」
女性の息が浅い。体がガタガタ震え、今にも卒倒しそうなほど顔は青白い。名前を言う余裕がないと見てとると、時宗はさらに女性の手首を強く握った。
「あなたのブラウスのカフスボタン、左右で違いますね。僕たちの会話を盗み聞きしているのは誰です?」
「申し訳ございません! 申し訳、申し訳ございません」
藤宮が音と時宗の声を聞きつけ、部屋に入ってきた。
「何か粗相がございましたか」
「この方のお名前は?」
時宗は藤宮に聞いた。祖父も厳しい目で女性を見ている。海斗と敬樹は、驚いた様子で椅子から体を浮かせていた。
「有間と申します。何をしでかしましたでしょうか」
「ここで働いて何年になります?」
「九年目です」
「なるほど」
相手が震えあがるような目で、時宗は女性を睨み据えた。
「おじい様に長年お仕えしてきて、なぜ今、このような裏切りを?」
有間という女性の唇がわなわな震えている。姿勢を保つことができず、時宗が掴んでいる手首だけ残して床に崩れ落ちると、彼女は泣き出した。
「申し訳ございません。申し訳ございません」
「謝罪など要求していません。なぜなのかを聞いているのです」
時宗は手首を強く握った。
「カフスボタンは僕が押さえている。盗み聞きしている者にこの会話は聞かれていない。あなたはなぜ、おじい様を裏切ったのです?」
「む、息子が、息子が。どうか御赦しください。息子が」
藤宮が横から補足する。
「入院していると、かなり以前に聞きましたが」
「肺晶? それとも」
女性が嗚咽を漏らしながら、吐き出すように言う。
「白血病で……。病院の中に入るツテがあると。いつでも、いつでも殺せると」
「なんと卑劣な」
時政が呟いた。拳が震えている。
「私の家の者に、そのようなことを働く者がおったとは」
「おじい様も藤宮さんも、しっかりなさってください。まったく。蛇の巣を作ったのは、あなた方でしょうが」
時宗は一喝すると女性の手を離した。
「敬樹。確認できるか」
「はい」
女性に近づいた敬樹が、女性の手首を持ち上げカフスボタンを外した。時宗は尋問を続ける。
「あなたにこのようなことを命じたのは誰です?」
「あの、あの」
「今ここで言えば、あなたとあなたの息子さんは保護される。隠せば……」
「よ、義時様です」
あんの野郎!!
時宗は祖父の前にもかかわらず、毒づきそうになった。
「いつから?」
「さ、三ヶ月ほど前からですが……あの、時政様と弥二郎様がお庭や書斎でお話しなさっている際は、あの、近づくことができず」
つまり情報のすべてが漏れたわけではない。
敬樹がカフスボタンを手に取り、カバーを外して中を見ながら言う。
「音声を常に飛ばしているわけではありませんね。録音するタイプです」
「シールド・ドームがあるからだ」
時宗は藤宮に手を突き出した。
「おじい様の携帯端末を」
「はい」
差し出された端末から義時に通話を入れる。今度こそ、こっちから喧嘩を売ってやる。
父親が出ると、時宗はスピーカーにしながら深呼吸をした。意識して冷静にならなければ、用件を言う前に怒鳴りちらしそうだ。義時の方は自分の父がかけてきたと思ったようで、機嫌の悪い声が聞こえてきた。
『こんな時に何の用です? おむつなら執事に買わせればよろしい。私は忙しいんだ』
むかっ腹が立ったようで、時政のこめかみがビクリと動き、口から怒りがこぼれる。
「なんだその言い様は。どうせロクに仕事もしておらんくせに」
『何も知らない老いぼれが、偉そうに私に言う資格なぞありませんよ。まったく、どいつもこいつも……誰一人まともに私の指示に従わない』
「指示が不適切なら、従いようもなかろう」
『いい加減にしてください。忙しいと言っているでしょう』
父と祖父がやりあっている間、時宗は目をつぶっていた。深呼吸。先に爆発したら意味がない。話し声の向こうに何か音が聞こえる。冷静になるんだ。冷静に。
「どこに向かっているんだ?」
時宗が聞くと、通話の向こうが一瞬静かになった。
『……時宗か?』
「久しぶりだな。あんた今、車の中だろう。どこに向かっている? 弥二郎の行方を知らないか?」
『親父と一緒にいるのか! 時宗』
「俺が誰と一緒にいようと、あんたには関係ない。……ああ、関係はあるか。あんた、おじい様のお手伝いさんを脅して情報を抜いていたな。弥二郎を拉致したのは、あんたか?」
しばしの沈黙の後、義時は誤魔化すように言った。
『私は忙しいと言っている。弥二郎も邪魔ばかりしおって』
「知ってるのか?」
『忙しいんだ! 甘やかしてくれる弥二郎がいなくて困っているのか? お前は常に自分の役割から逃げおって。帰ってきて私の下で仕事をしろ。私の言うとおりに仕事をするなら……』
「あんたの言うとおりになんか、するわけない。どうせ使い捨ての駒にする気しかないくせに。なぁ言えよ。あんたが『知らない』とはっきり言わない時は知ってるんだ。俺がその癖に気づいていないと思ってるのか? 今どこに向かってるんだ」
『お前には関係ない!』
「当ててやろうか。晶石鉱山だろ」
カマをかけてやると、案の定、義時は黙り込んだ。時頼め。事態を解決できずに泣きついたに違いない。
『うるさい! 頭を下げて帰ってくるつもりがないなら、弥二郎と一緒にどこぞで朽ち果てろ』
不意に、義時の声が遠ざかった。
『あんたが、この人の息子さんかい?』
今まで聞いたことのない声がした。中年男性のものだ。
「誰だ?」
『義時さんと一緒に仕事をさせてもらってる者だ。ちょっと聞いたんだが、あんた、サッポロに行ってきたんだって?』
「……何者だ」
『義時さんが仕入れた情報によれば、あんたの叔父さんは取引のことを知ってたんだってな。カイトってのは、今あんたと一緒かい?』
海斗の口が引き結ばれた。
『運び屋が「アレ」の鍵だって聞いた時は、うまいことやったもんだと思ったんだが。義時さんはねぇ、あんたの叔父さんと少し前から、だいぶ意見が食い違っていなさってね。義時さんは心配なさってんのさ。あんた方が良くないことに利用されるんじゃないかってね』
「俺は関係ないと思うが?」
『どうかねぇ。義時さんとしては、息子さんに「アレ」を解析して仕事を手伝ってほしいってことのようでね』
「お前は、何者だ」
『だから言ったろ? 義時さんと仕事をさせてもらってるモンだ。最近はなかなか鉱山も物騒でね。まぁ我々が鉱山の管理をちょっと手伝わせてもらってるもんで』
『ただの警備が! 図に乗りおって!』
義時の声が聞こえた。次の瞬間、中年男の怒鳴り声が響く。
『うるせぇ。テメェがいつまでも弟ひとり言うこと聞かせられねぇっていうから、こっちが世話してやってんだろうが。図に乗るだぁ? フザケてんじゃねぇ。いいかこっちは、あんたらが持て余してる労働者どもを管理してやってんだ。財閥の御当主サマなら、自分の言ったことに責任持ってもらおうか。こっちにこの件を解決してくれって泣きついてきたのはテメェだろうが』
瞬時に、時宗は理解した。そばで聞いていた時政が唇をわななかせている。
「無能めが……ゴロツキどもに付け込まれ我が南条の魂を売り渡したのか」
その通り。労使関係のトラブル対処や身辺警護に、義時は反社会組織を雇ったのだ。自分は制御できると思い上がったのか。そして義時の権力を「喰った」連中は、盗聴で得た情報を元に、機械と海斗を狙っている。
『まぁいい。時宗さんと言ったかい? 義時さんは、我々に仕事を預けてるんでね。あんたの叔父さんは我々がもてなしてる。助けたかったら、カイトとかって「鍵」を連れて晶石鉱山のゲストハウスに来るんだな』
乱暴に通話が切られ、時宗は藤宮に端末を返しながら言った。
「一族の人間が弥二郎を拉致するのは少し違和感があったが、なるほどな。すでに寄生虫に腹の中を食い荒らされてたわけだ。ったく。誰ですか、あんなのを育てたのは」
呆れた声で言ってやると、時政が肩を落とした。
「私は、最も大切な仕事をきちんと成し遂げることができなかった。お前の言う通りだ。……南条はこのまま崩壊するのか……それも……致し方ないことなのか」
「まぁ、すべてが終わったわけでもないでしょう。少なくとも弥二郎叔父様はきちんと育ったのですから、本人の素質の問題だ。さて、あとはお任せください。弥二郎叔父様の教育が正しかったことを証明するのは、僕ですから」
話しながら、これからの対応を考える。
さっき通話で口を出した男の正体については、後で調べるとして。
奴は義時の部下という皮をかぶって勝手な行動をし、自分の判断で動いていた。拉致の時期からいって『買い手』ではない。機械の取引と鉱山について、義時経由でこの屋敷から情報を得たので、弥次郎を拉致して詳しい取引情報を抜こうとした。
で、取引が完了してしまった今、時宗と渡りがついたのを幸い、弥次郎を人質に『鍵』を鉱山に連れて来るよう時宗に要求した。おそらく『鍵』を交渉材料にして機械の『買い手』との取引を狙っている。ただ、どこか……何かが引っかかる。後で考えよう。
『買い手』ねぇ。
時宗は薄々感づいていた。労働者側で、『鍵』を握っている時宗を鉱山に呼び寄せようと必死になっている者。妙な形で鉱山の人事に絡んでいる者。
海斗が、うずくまっている女性の肩をそっと撫でた。
「息子さんの回復、祈ってます。オレ、あなたのことをあんまり悪く思えません。ここの人たちが守ってくれるって思います」
敬樹がカフスボタンを握って立ち上がった。
「弥二郎さんを助けに行かないと」
「ああ。そうだな」
敬樹の雰囲気が変わっていた。体がたわみ、視線がすでに外を向いている。目的に向かって走りだそうとする直前の、予備動作。それを頼もしく思いながら、時宗も立ち上がる。
人質になった時の感覚を、時宗はよく知っている。自分の人生には価値がないのだと突きつけられる時間は果てしなく長い。濡れたシャツが脇腹に張り付く冷たさ。ざらりとした床でこすられ、頬が痛む感覚が体の芯でよみがえる。
あの時一瞬の迷いなく自分を助けに来た弥二郎を、今度は自分が助けに行かなければ。
「おじい様。お会いしてくださって、ありがとうございました。久しぶりに元気なお顔を拝見できてよかった。後ほどまた全員揃って参りますので、お夕食でもご一緒に。では一旦、おいとまさせて頂きます。行くぞ二人とも」
「武運を祈っておる」
古風な挨拶を背に、海斗と敬樹を従え、時宗は祖父の屋敷を退出した。




