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サスティナブル・バディ  作者: 夜野 綾


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Itinerary: 5日目 その8

 時宗の祖父、時政の屋敷は、トウキョウの中心から西に少しずれた地域の第五層を、広く占めている。複数の高層建築物の上部に天空の城のように広がっており、母屋の部分に入ることができる者は少ない。この屋敷は時宗の曾祖父が作り始め、祖父が今の形にした。一角には広い広い庭園があり、春は桜が美しい。

 かつてはこの桜を見せるために政財界の要人を招待したものだが、今は一年を通して来客はほとんどなく、主の時政が人前に姿をさらすこともなくなってしまった。

 敷地は下の建築物に応じていくつかのエリアに分かれており、それぞれが薄い膜のようなシールド・ドームに包まれている。これにより、太陽光も気圧も地上と変わらない状態にされているのだ。警備上の理由から、このシールドの下部は中が見えないよう白くなっていた。

 他の車が一切ない道を、巨大な車がゆっくり走っていく。海斗と敬樹は完全に萎縮していた。長々と続く白い壁を見ながら、二人は時宗の『攻略』という言葉が比喩でもなんでもないことを噛みしめているようだった。

 なにせ買い物からそのまま来たからな。

 普通の買い物とは全然違う『買い物』にも、二人は緊張しっぱなしだった。

 まず、お迎えに並んだ数十人の従業員と総支配人に入口で丁寧に挨拶され、VIPルームに案内されるまでが一仕事。

 次に大人しく立って、時宗の指示に従って次々と従業員が持ち込んでくるものを着たり脱いだり脱いだり着たり。

 お茶をお淹れしましょうか。お菓子はいかがですか。こちらの御召し物はいかがでしょう。

 大勢にかしずかれて、「あ、はい」しか言えない状態の二人のために、時宗はすべての服を選び、小物を選び、お茶を飲ませ、お土産のクッキーを袋に入れてもらい、着てきた服と靴を袋に入れてもらい……。携帯端末をポケットに突っ込もうとする敬樹を慌てて止め、ベルトにつける専用ケースを追加で買い……。

 海斗が端末を持ってこなかったことだけは幸いだ。もし持っていたら、絶対にこいつもポケットに突っ込んだだろう。

 慣れない世界で大勢の人間に翻弄されて、今の二人は、もう心細さ最高潮という顔をしていた。

 服装は完璧だった。時宗が選んだのだから当然だ。海斗はミディアムグレーに深い青が混ざった色合いのシングルにした。動くたびに青味のある光沢が生まれ、しなやかな体のラインを引き立ててくれる。ネクタイも同系色。祖父に会うには無地でなければならない。

 敬樹の方もやはりグレーだが、こちらはもっと濃い。そこに、ほとんどわからないぐらいの緑色が混ざっている。シルクの割合を少し押さえ、若く溌剌とした仕草がじいさんの癇に障らないよう配慮した。本当はシルクをちょっと多めにして、敬樹の笑顔に似合う艶を出したかったのだが。ネクタイは落ち着いた深緑の無地。

 二人とも、きちんとストレートチップの革靴を履き、胸ポケットのハンカチも完璧。あとは……歩き方だな。

 後部座席の窓を覆っているカーテンを開け、屋敷入口詰所の警備カメラからこちらの顔が見えるように窓を開ける。

「二人とも背もたれに背中をつけろ。足は組まない」

「わ、わかった」「わかりました」

 壱玖零弐は詰所の前で一旦止まった。大きな門扉が開くのを待って、ゆっくりと曲がりながら進入していく。警察は敷地のすぐ外で待機することに取り決めてある。

「うわぁ……」

 道の両脇には、池と小川、そして庭園が広がっていた。美しい場所だ。鯉が滑るように背中を見せていた。冬なので、広々とした場所は芝生と松の緑ばかりで花は少ない。それでも、あちこちで水仙が白い凛とした姿を見せ、館の近くでは椿が咲いている。バランスよく配置された桜の木々は、今は枝だけの姿で春を待っていた。庭の奥の方では、東屋とそれに向かってかかる小さな橋が、冬の午後の光の下で、まどろむように佇んでいる。

 無機質なシールドの内側には、下層の人間には想像もつかない世界が広がっている。

 海斗も敬樹も、注意されたことを忘れ、身を乗り出して庭を見ている。

「綺麗だな……」

「ほんとですね。春とか、きっと素晴らしい」

「毎年花見をしてたんだけどな。……祖父はもう、やる気をなくして」

 時宗の声に、海斗が振り向いた。

「誰も、この庭見ないのか?」

「祖父は散歩してると思う。……わからない」

「そっか……」

 黙ってしまった三人を乗せて、車は屋敷の車寄せに、静かに入った。

 屋敷もまた、立派なものだ。煉瓦の外壁は年を経てどっしりした色合いとなっている。切妻屋根は時宗が出入りしなくなってから直したらしく、新しい深緑の色は外壁と少しちぐはぐになっていた。奥には多角形の塔が見える。祖父の居住空間である和室は、こちらからは見えない。

 車寄せに壱玖零弐が止まると、中からフットマンが出てきてドアを開けてくれる。

 まず敬樹が降り、もたもたと海斗が降りる。それに続いて時宗もボタンを留めながら降りた。久しぶりの祖父の家。さてじいさんは、まともな感性を残しているのか。

「二人とも、上二つのボタンを留めろ。堂々と。海斗。敬樹。お前たちは、立ってるだけで誰もが惚れるいい男だ。それを忘れるな」

「いや、忘れるなって……」

「堂々と。背筋を伸ばして」

 二人は背筋をピンと伸ばし、緊張した顔になった。

「そう、その調子。俺が全部言うから、考えなくていい。いくぞ」

 フットマンについて、時宗は屋敷へ入っていった。

 玄関ホールは吹き抜けになっている。高い天窓から陽光が射し込み、待機する部下などのための椅子が壁に沿っていくつか並んでいる。上に立つ者は、部下に座らせ自分はいかなる逆境でも立ち続けること。それが曾祖父の残した家訓だ。奥には広い階段が二階へと迫り上がっていた。

「絶対に椅子に座るなよ」

「何分ぐらい待つんですか?」

「最短十分、最長記録は六時間」

「マジか」

「俺じゃないけどな。とにかく座るな」

「六時間……」

 ドエライ待ち時間にビビったらしく、二人は玄関ホールの隅っこに並び、黙って突っ立った。フットマンは玄関の外で矢代と話している。車庫の方へ誘導しているのだ。女性のお手伝いさんが入ってきたので、時宗は銀のお盆に名刺を乗せた。メイド服のお手伝いさんは、時政様は昼食を召し上がっておいでです、と説明して一旦下がった。

 がらんとした玄関ホールで、三人は放って置かれた状態になった。応接間に通してお茶を出さないのは、おそらく時政の指示だ。こちらが癇癪を起こして帰るかどうかを試している。まったく。いにしえの圧迫面接みたいなことを未だにやる辺り、手がかかる。

 時宗は奥の隅に懐かしい物を見つけた。近づいてみる。それは、初等卒業の時に受け取り損ねた、あのカラクリ箱だった。壁に沿って置かれた小さなテーブルに、埃をかぶってぽつんと取り残されたように載っている。

 じいさん、マジでこじらせがひどいな。

 時宗は涙が出そうな気分になった。あの日──初等の卒業式の後──祖父の目は、確かに時宗を慈しむものだった。

 あれからずっと、箱はここにあったのだ。乱暴に断ち切られた時間が再び動き出すのを待ちながら。

 じっと見る。この箱を置くためだけに用意されたらしき、小さなテーブル。華奢な脚の周りは、少し埃が溜まっている。箱の下のレースの敷物も汚れていた。すべてに掃除が行き渡っている屋敷の中で、それは違和感があった。

 そっと手を伸ばす。

「いけません!」

 鋭い叱責に時宗は思わず手を引っ込めた。横を見ると、さっきの女性のお手伝いさんが時宗を睨んでいる。怯える海斗と敬樹を尻目に、女性は言った。

「その箱は、どなたも決してお触りになってはいけません」

 厳しい口調。

 突然、閃くように時宗は理解した。祖父は掃除のために触れることさえ許さないのだ。

 時宗が女性の顔を見て思案していると、応接間のドアが開いた。中から六十代の小柄な男性が出てくる。目立たない紺のスーツに、少し明るい紺のネクタイ。その男性に、時宗は声をかけた。

「藤宮さん。ご無沙汰しております」

「時宗様! ご無沙汰いたしております……おぉ……こんな……見事にご成長なされて……」

 執事も時宗を覚えていた。嬉しそうに近づいてくる。

「お待ち申し上げておりました。……いつかまたいらしてくださると……」

「長くなってしまいましたね。またあなたにお会いできて、本当に嬉しいです」

 時宗が微笑むと、女性のお手伝いさんは気まずくなったのか、退出しようとした。時宗はそれを制して声をかけた。

「お待ちください。申し訳ない。お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 女性は立ち止まり、しばらくためらった。藤宮の方をちらりと見て、彼がうなずくのを確認してから答える。

「……佐々木でございます」

「佐々木さん。先ほどは失礼いたしました。お聞きしてもよろしいでしょうか」

「はい」

「あなたはここのお掃除もなさっているのではありませんか? でも、お掃除の時でさえ、おじい様……時政様はこの箱に触ることをお許しにならない。違いますか?」

「そうです。決して誰も触ってはいけません」

「あなたはお仕事に熱心に取り組んでくださっているのですね。おじい様に代わってお礼を申し上げます。本当に、ありがとうございます」

 佐々木と名乗った女性は頭を下げた。時宗は続けた。

「あなたにお願いがあります。この箱に触れることをお許しいただきたいのです」

「……それは、時政様がお決めになることでは……」

「いいえ。あなたにお許しいただかなくてはなりません。というのも、この箱は僕のものだからです。違いますか? 藤宮さん。初等を卒業した折、ここへご挨拶に伺って、僕はこの箱をおじい様から頂いた。僕がおじい様から受け取るところを、藤宮さんもご覧になっていたはずです」

 藤宮はうなずき、微笑んだ。

「ええ。時宗様はとても嬉しそうになさっておいででした」

「そうです。ですが、兄に乱暴に取り上げられてしまいました。おじい様は激怒なさって父と兄を追い出し、僕も父に引きずられ、みっともなく退出した」

 藤宮の目が悲しそうになった。後ろの方では、海斗と敬樹がじっと成り行きを見守っている。

「この箱は僕が一度受け取った物です。でも、僕はこれをここに置いて行かなければならなかった。だからこそ、おじい様ご本人も、これには決してお触りにならない。僕ひとりだけが、この箱に触る権利がある。ですが現在、この箱を実際に守ってくださっているのは佐々木さんだ。あなたのお仕事に感謝して、僕はあなたのお許しを頂きたい」

 佐々木が納得した顔になった。

「わかりました。どうか……時宗様のご自由になさってくださいませ」

「ありがとうございます」

 時宗はにっこり笑うと、胸ポケットからハンカチを出した。

「時宗様。こちらをお使いください」

 別な布が差し出される。佐々木がポケットから自分のハンカチを差し出したのだ。さっき時宗を叱責した時とは違い、佐々木の目は柔らかいものになっていた。

「お恥ずかしいのですが……埃が溜まっております。時宗様のハンカチが汚れます」

 感謝に微笑んでハンカチを受け取ると、時宗は箱をそっと持ち上げ、丁寧に拭いた。佐々木が手を伸ばし、終わったハンカチを受け取ってくれる。なるほどね。こんな、訪問者が誰でも持って帰れそうな場所にありながら、指一本触れられない。埃と誇りが万全のセキュリティなんて、ちょっとおもしろい。

 箱をそっと揺すると、蓋についた小さな晶石があくびのように波動を生んだ。不思議な箱だ。晶石の大きさの割に波動が大きい。初等卒業の時もそのことには気づいていた。

 佐々木は一礼すると、静かに玄関ホールを退出していった。

「中に何が入っているんだろう……」

 時宗が呟くと、藤宮も「さぁ……私も伺ったことはございません」と言う。海斗と敬樹も近づいてきて、箱をのぞきこんだ。手の平ほどの大きさの箱には、晶石を囲むように幾何学模様の意匠がほどこされ、美しいたたずまいをしている。その麗しさを時宗はしばらく楽しんだ。

 中には何が入っているんだろう?

「これ、どうやって開けるんですか?」

「……仕掛けがあるんだ。当時の俺はまだ幼かった……極端に難しくはなく、でも頭を使うことが要求される回路構成だと思う」

 時宗は模様に触れ箱を開け始めた。あちらを引き、こちらを押す。違うか……こちらを先に回し、反対側を引く……辛抱強く、色々な手順を試す。

「応接間へどうぞ」

 藤宮の招きに応じ、海斗と敬樹が応接間へ入る。時宗は箱のからくりを解きながら、彼らの後についていった。ソファーに座り、会話をしながら箱の開け方を探り続ける。

「お茶をお淹れしましょう。何がよろしいでしょうか」

「紅茶がいいな。ミルクティーで。茶葉は何が?」

「アッサム、ディンブラ、ウバをご用意してございますが」

「今日はアッサムでお願いします」

「かしこまりました」

 顔を上げ、海斗と敬樹に声をかける。

「飲み物は何がいい?」

「オレ……わかん、わからないです。時宗と同じものをお願いします」

「ぼくも、ミルクティーをお願いします。あっ、同じ茶葉で」

「ではそのように」

 藤宮が退出すると、部屋に沈黙が流れた。ゆったりとしたソファーに包まれ、時宗は集中する。ここを押して……感触として少しずつエネルギーの流れがつながり始めるのがわかる。箱の仕掛けを理解するコツは、晶石のエネルギーの流れに無理をさせないこと。力づくでやらず、穏やかな波動が向きたがる方向を探る。最初に箱を閉めた人間……祖父の感情を石と一緒に辿って共有する。時間を経たせいか、石の反応が少し鈍くなっていて時宗は苦戦した。

 藤宮が大きなお盆を持ってきてミルクティーを淹れてくれる間も、時宗は真剣に箱に取り組んだ。こちらを下げ、そちらを回す。カタカタという微かな音だけが部屋に響く。海斗と敬樹はミルクティーを飲みながら、時宗を見守っている。

 あと少しだ。多分これで最後。でも反対側でパーツが引っかかる。五手戻って、こっちを先に押して、それから……。

「開いた」

 静かに時宗が言うと、海斗と敬樹はおぉ~と声を上げた。見ていた藤宮も目を見張っている。

「もう解かれたのですか?」

「ええ。どのぐらいかかりましたか?」

「そうですね……三十分もかかっておりませんよ。さすがは時宗様。幼少の頃から聡明でいらした」

「時宗、お前……すごいんだな」

 三人の視線を心地よく感じながら、時宗はそっと箱の蓋を上げた。海斗と敬樹は椅子から身を乗り出し、みんなで時宗の手元をのぞく。

「これ……」

「時宗様、これは……なんと」

 全員が、啞然と見つめる。

 箱の中には何も入っていなかった。

 正確に言えば、何が入っていたのかは開ける前から明らかだったのだ。

 箱の蓋には小指の爪ほどの大きさの石がはめ込まれていると、時宗は思っていた。だがそうではなかった。実際には、卵ほどの大きさの石を包み込むように箱が作られていて、蓋に開けられた小さな穴から、石のてっぺんが少しだけ外に見えている状態だったのだ。

 石を持ち上げ、時宗はしげしげ眺めた。

 これは……。触れてみて分かる。これは時宗の曾祖父が初めて鉱脈を見つけた時に、自分の手で掘り出して持ち帰った結晶体の一部だ。箱を開ける過程で、時宗は祖父の思い出にも触れた。曾祖父から引き継いだ時の嬉しさ。孫に与えようと決心した時の、期待とわずかな不安、そして孫の輝くような笑顔を想像した時の、こみ上げる愛情。

 まさかこんな大切なものが入っていたなんて。しかも、祖父は時宗がわずか十二歳の時に、これを贈ろうとしていたのだ。箱を開ける過程でコネクトが完了するように、何日もかけて設定し、調整し……。

 透明度の高い湖を、晴れた日に見渡した時の青さ。どこまでも見通せるほど澄んだ水の奥に計り知れない深さを湛えて、今、石は静かに時宗の精神に同調していた。

「すごい……」

「きれいだなぁ」

 感嘆の声を上げる海斗と敬樹は、間違いなくこの石の価値と意味をわかっていない。

 時宗は胸ポケットからハンカチを出すと折り畳んで応接テーブルに置き、その上に石を載せた。

「箱を開けたのか」

 突然、朗々とした声が客間に響き、時宗は顔を上げ、立ち上がった。海斗と敬樹もぴょこんと立ち上がる。

「えぇ。おじい様、こんにちは。ご無沙汰いたしております」

 時政は、堂々とした背の高い老人だった。そこにいるだけで部屋を圧倒するようなオーラを放っている。彫りの深い顔のすべてのパーツに、見る人を威圧する迫力があった。白くなった眉は太く、炯炯と光る目は部屋の中の者すべてを見据えている。

 黒に近いグレーのスーツを着て、ネクタイは明るいグレー。いまもってしっかりとした歩き方で、時政は部屋の真ん中へ歩いてくると、三人を睨み据えた。

 さぁて、ここからが勝負だ。

「私は、その箱に何者も触れるなと言い渡しておいたはずだが」

「僕以外に誰も触っていませんよ? これは僕の箱ですから」

「だが開けてよいとは」

「せっかく僕がおじい様から頂いたのに、開けないなんてあり得ますか? 僕は十年以上もの間、この箱のことを考えていたんです。中に何が入っていたんだろうと。おじい様もお人が悪い。こんなに長い間、黙っていらっしゃったなんて。こんな粋な方法で、すでに僕を後継者に指名してくださっていたのに、気づけずに申し訳ありませんでした」

 時宗がにこりと笑うと、時政はぶすっとした顔で背を向け、窓から庭を眺め始めた。

「……そもそも、私はお前以外をこの家に入れることを許可していない。得体の知れぬ者を連れてくるとはな」

 硬い声に、海斗も敬樹も怯えたような顔をした。入口に視線を走らせる二人を目で制し、時宗は軽い調子で言った。

「おじい様、全然お変わりないようで安心いたしました。ご病気だと伺っておりましたが……癇癪を起こされるようなら、まだまだ大丈夫ですね」

 藤宮がはらはらした顔をしている。時宗は安心させるように笑うと、ソファーテーブルを回り込んで海斗を迎えに行った。さりげなく腰に手を回してエスコートしながら、時宗はさらりと祖父に言う。

「ご紹介しましょう。今野海斗くんです。僕は今回、サッポロまで彼を迎えに行ってまいりました。おじい様がお会いなさりたかった方ですよ。おじい様の一人娘、亡き政子叔母様の息子さん。おじい様の孫にして僕のいとこです」

 時政が目を見開いたが、それ以上に海斗が仰天した顔になった。

「えっっ?! え、誰がだ?!」

「海斗が」

「オレぇ?!」

 逃げ出さないように手を引き、時宗は海斗を時政の正面に立たせた。海斗は引きつった顔をしている。

「どうぞ、おじい様。お孫さんです。車が大好きで、運転がとてもお上手でいらっしゃいます」

「と……時宗……」

「ほら海斗。僕のおじい様と、君のおじい様は同一人物だったんだ」

「今朝、知らない叔母さんがいるとかなんとか言ってたけど、こういう意味だったんか!」

 思わず大声を出した海斗を、時政の目がじろりと見た。上から下まで、全体を吟味する目つきだ。海斗は緊張で固まり、慌てて口を閉じた。

「ふん。スーツを調達したのは時宗か」

「えぇ。似合っているでしょう? とても美しい青年だと思いませんか? 僕は海斗くんと一緒にこちらへ来る間、たくさんのことを話して仲良くなりました。心根も本当に美しくて、僕は大好きです」

 時政はしばらく黙って海斗を見ていたが、眉をひそめて言った。

「南条家の一員たるもの、もっと堂々と振る舞え。なっておらんな」

「海斗! よかったなぁ。南条家の一員として認めてくださるそうだ」

「……そうは聞こえんかったんだけども」

 海斗がぼそっと言うと、時政の眉が吊り上がった。来るぞ。

「なんたる話し方だ! 人前での話し方を練習しておらんのか!」

 時宗は噴き出して見せた。

「おじい様。ついさっきまで、海斗くんは自分を南条家の一員とは思っていなかったんですよ? いつ練習するっていうんです。よろしいですか? 話し方で性格は決まりません。それより、僕はおじい様の前で、こんなに緊張しながらも思ったことを言える度胸を素晴らしいと思います。海斗くんのそうした良さを見て頂くために、僕は海斗くんを連れてまいりました。今までおじい様にお会いした方は、ほとんどがおじい様の命令通りに、あっという間に部屋を出ていった。おじい様も、お寂しかったんじゃありませんか? その点、海斗くんはおじい様を充分楽しませてくれることでしょう」

「……時宗」

「なんです?」

「お前もしかして、面白がっておらんか?」

 時政の言葉に、時宗は声を上げて笑った。

「ええ。面白がっています。おじい様は海斗くんのことを一目で気に入ったのに、口では素直じゃありませんから。そんなことでは海斗くんに嫌われますよ? 海斗、おじい様に、お母様とご自分のことをお話ししてください」

 優しく言うと、海斗はおずおずと顔を上げた。しばらく時政の顔を見てから、海斗は覚悟を決めたように背筋を伸ばし、しっかりした声で話し始めた。

「あの、えぇと……こんにちは。オレ、あの、僕は今野海斗っていいます。ずっとサッポロにいました。じいさ……おじい様がどんな人かは聞いたことがなかったけど、母さんは今時宗が箱から出したのみたいな石をすごく大事にしてました。母さんはその石を『母さんのお父さんがくださったのよ』って言ってました。その……あの、オレを雇ってた連中に取り上げられて、変な機械に入れられちゃったんだけど」

 海斗はちょっとうつむいて、悲しそうな顔をした。

 時宗は自分のことのように誇らしい気分で祖父を見た。海斗はとっさに、きちんと自分の出自を証明するエピソードを話したのだ。祖父の目が潤んでいる。それを隠すように、時政は窓の外を見た。

「あの石は……私の父が掘り出した物だ。父は、最初に自分の鉱脈を見つけた折に、大きな結晶体を持ち帰った。あれほどの純度の物は現在も世界的に見つかっていない。その後、父は結晶体を二つに分けて研磨し、ひとつは自分で持ち、もうひとつは私に与えてくれた。

 父が亡くなる時、私は父の結晶体も受け継いだ。自分で父のを持ち、もうひとつは……私の仕事を引き継いでくれる者に渡そうと。そして政子の二十三歳の誕生日に、私は石を渡したのだが、政子は……黙っていなくなった」

 時政には珍しく、掠れた声だった。

「どこに行ったか、私は知っていた。政子は専門院卒業後すぐにサッポロへ研修に行っていたのだが、帰ってきて、ある男と結婚したいと言い出した。車や機械をずっといじっている男だ。彼は今までにない革新的なアイデアを持っている。自分は彼を愛していて、全力で支援したいと。

 問題は環境だった。彼の考えている晶石機械は、制作と調整の段階で冷涼かつ人間が少ない土地で行う必要があった。なおかつ、ホッカイドウにしかない天然木の樹液が、なんとしても必要だと。

 私は娘が行ってしまうことに焦り、自分の元に留めようと……必死になった。トウキョウで南条グループ全体の統括を行い、男に対しては仕送り程度にしろと」

 後悔の目で、時政は庭を見ていた。娘を愛していたのだ。遠くへ行ってほしくないと思ったことで、娘は遠ざかった。

「あの子がサッポロで結婚し、息子をもうけたことを私はずっと知っていた。弥二郎は、いつの頃からか私の目となり耳となる役目を始めた。定期的にサッポロへ赴き、政子とその家族について私に報告を上げていた」

 な~にが、『この年寄りにそういう仕事やらせる?』だ。弥二郎め全部最初っから知ってたんじゃねぇか。

「政子が死んだ折にも、夫が死んだ折にも、私は弥二郎とずっと話し合った。だが私は……頑なに、政子の息子を呼び寄せることを拒み続けた」

 時宗は、弥二郎が砂糖の中に入れたメモを思い出した。

『じじいマジでボケてやがる。頑固でほんと頭にくる。ばーかばーか』

 弥二郎にしてみれば、海斗が追い詰められていくのを見ていて、気が気じゃなかったんだろう。自分の父親に黙って甥をサッポロから連れ出すか、どうか。誰にも言えない葛藤を、どこかで愚痴にして吐き出したくなったのかもしれない。

「だが今回、弥二郎は今までになく激しい口調で言った。これが最後の機会だ。ここで失敗すれば、私は二度と海斗には会えないと。晶石機械が一応の完成を迎え、サッポロの反社会組織が鉱山の関係者に売ろうとしているらしいと、弥二郎は説明した。海斗と、政子の石が鍵に使われている。一族として、もうこれ以上放置はできない。私の感情を越えて、これは一族の命運にかかわってくる問題だと」

 海斗を孤独の雪原から何が何でも連れ出すために、時宗は派遣された。弥二郎は諦めなかったのだ。

 時政は静かに海斗の方を見た。幼い時宗を見ていたのと同じ目だった。

「……海斗。お前は、政子によく似ている。目元が同じだ。だから、話し方や振る舞いを練習しなさい」

 静かな声だった。時宗は心の中で胸を撫で下ろした。祖父はまだ、時宗を可愛がってくれた頃の心を持っている。

「ところで、そこの隅に突っ立っている少年は何だ?」

 時宗は苦笑いをした。面倒なじいさんだ。まぁ、この調子なら大丈夫だろ。

「彼は黒岩敬樹くん。弥二郎叔父様が大切に養育なさっている方です」

 時宗は敬樹のところへ行き、これもエスコートして時政の所へ連れてきた。腰に触れると、敬樹は小刻みに震えている。パニックを起こしそうな雰囲気だった。

 頑張れ敬樹。

 時宗は心の中で呟いた。ここで弥二郎を取り返す情報を少しでも手に入れるんだ。

「どういう関係だ」

 時政は、ぎろりと敬樹を睨んだ。敬樹は物も言えず、縮み上がっている。

「弥二郎叔父様が、ご友人から託されて育てていらっしゃいます。弥二郎叔父様は実の息子のように可愛がり、敬樹くんも弥二郎叔父様を実の父のように慕っております。弥二郎叔父様が何者かに拉致されて、彼はとても心配しております。今回の事件、どういったいきさつなのか、おじい様がご存知の限りでお教え願いたい。おじい様、弥二郎叔父様の行方について、何かご存知ではありませんか?」

 時政は時宗のことも睨んだ。

「私は、この少年が弥二郎とどういう関係かと聞いたのだ。血のつながりはないのだな? 関係のない者を連れてくるとは」

 猛獣の唸り声のような声に威圧され、敬樹の息がヒュッと鳴った。落ち着かせるために、時宗は敬樹の肩を抱く。

「おじい様。まず怒りから入るのはやめて頂きたい。敬樹くんは弥二郎叔父様と実の親子同然だと申し上げたでしょう? 心配で夜も眠れないでいる息子が、決死の覚悟で父親の行方を聞きに来たのです。それを追い出すとは、ずいぶん冷たいことですね」

「だが」

 我を通そうとする祖父を、時宗は見据えた。

「いいですか。僕も弥二郎叔父様と暮らしています。敬樹くんとは家族です。ひとつお聞きしたい。おじい様は亡くなられたおばあ様を愛しておられたとお聞きしております。おばあ様とは当然、血の繋がりはなかったと思うのですが、お二人は家族ではなかったのですか?」

 力を込めて、時宗は続ける。

「それとも、もっと酷な例を挙げましょうか? おじい様にはお子様がいらっしゃいますが、血の繋がりがあれば疑いなく家族なのですか? おじい様の長男である僕の父は、おじい様に何をしたんです? 彼はどこですか?」

「黙れ!」

 時政は、無理しているように声を張り上げた。うろたえたような響きを感じ取り、時宗は続けた。

「家族かどうかを決めるのは、血の繋がりではない。そのことを、おじい様が一番良くご存知のはずだ。敬樹くんを追い出すなら、僕はおじい様に失望します。おじい様は、この僕を失望させるような、くだらない人間なのですか?」

 祖父は口をつぐんだ。

「敬樹くんは、弥二郎叔父様が拉致された時に一緒にいました。自身も拘束され無力感を味わい、精神的なショックで倒れるほど弥二郎叔父様を案じている。この少年を追い出すなら、おじい様は僕と海斗くんという二人の孫も一気に失うことになる」

 海斗が黙って敬樹に寄った。

「いいですか。僕の父と兄は、おそらく今回の事件にも何らかの形で関係している。弥二郎叔父様を拉致したのは誰です? どうか、ご存知の範囲でいい、何か教えてください」

 時政は溜息をつき、窓の外を眺めた。遠い、遠い目だ。海斗に似ていると時宗は思った。不思議だ。別々に見ていた時には気づかなかったのに。

「そうだな……。時宗。お前を当主にと心に決めた時から、これは始まっていたのかもしれん」

 時政は手を振り、ソファーに座るよう全員を促した。

「藤宮。私にミルクティーを持ってきてくれんか。……お前たちは?」

 時宗はほっとした気分で微笑んだ。

「僕も先ほどと同じミルクティーで。海斗、敬樹、お前たちは?」

「オレも、もっかいミルクティーをお願いします」

「ぼくも……ミルクティーがいいです」

「かしこまりました」

 藤宮も緊張が緩んでいた。涙に潤んだ目で何度もうなずくと、彼は部屋を出ていった。

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