Itinerary: 5日目 その2
廊下で後ろ手にドアを閉めると、詰めていた捜査員たちが時宗に気づいて挨拶してきた。
夕べ時宗が第五層案件を発動したことはもう共有されているらしく、彼らは昨日とは違って一歩引いた態度だ。
「……進展はどうですか?」
どんな感情も表に出さないように気をつけて、時宗は聞いた。
「犯人から身代金要求などの連絡はありませんでした。長期戦になるかもしれません。また夕べのヨツヤですが、組織名がわかりまして、昨日から今日にかけて出入りした車両について、一台ずつ解析しているところです」
「組織の名前は?」
「久令会です」
脳の検索機能が無事に働く。そこそこ大きい組織だ。ひととおりの違法行為をやっているが、最近は様々な企業の労働組合を裏で密かに操っているという噂があった。労使交渉の『解決料』で稼いだり、組織票を作って政治家に売ったりするわけだ。
労働組合ね。
時宗は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。引き続きよろしくお願いいたします」
時宗の態度に、向こうが微かに息を吐くのがわかる。捜査を邪魔する気はないということは、常に態度で示し続ける必要がある。彼らは真面目な人たちだ。こうやって、丁寧に仕事をする人たちが時宗は好きだった。
穏やかに笑いかける。
「皆さん、朝食はどうなさいましたか? ご用意しましょうか」
「いえ、我々は勤務中ですから、どうか気を遣わないでください。交代で休憩を取っておりますので、そこで食事を取ります」
「そうですか……お世話になっております」
時宗は再び頭を下げると、バスルームに向かう。昨日面倒をみてくれた人の姿はなかった。もし同じ人たちならお礼が言いたかったのだが。
洗濯機の横を覗くと案の定、色物用のカゴに夕べ履いていたジーンズが入れられていた。それを引っ張り出し、メモを回収してから手早くシャワーを浴びて汗を流し、身支度をすると自室に戻る。二人は体を伸ばして寝ていた。
デスクに座り、でんと置かれた自作の大型端末二台の電源を入れ、いつものように歩行箱の石に触れる。
その青い光を目に入れ、時宗は自分が帰ってきたことに初めて気づいたように思った。自分は今、無意識に歩行箱に『挨拶』したのだ。いつもどおりに。
歩行箱がエネルギー・ステーションから脚をわずかに伸ばし、起動音で鳴く。キュイ、という小さな音を、時宗は可愛らしく思った。
もう一度石に触れる。蓋が開くと、時宗はのぞきこんだ。
行く前に空にしておいたから、何かが入っているわけではない。ただ、毎日の習慣となっている仕草だ。今日の予定を確認し、必要なものを放り込む。たったそれだけ。
それだけなのに、歩行箱がそばにいることを、時宗はやけに感慨深く感じた。労う気持ちで石を撫でると、歩行箱はシャキンと脚を伸ばしてから定位置に戻り、静かになった。
また一緒に出掛けような。相棒。
そう思いながら座り直し、夕べ砂糖の中から見つけたメモを見返す。十六桁の通話IDぐらい、普段の時宗なら一度で覚えるのだが、ひとつも覚えられていない。メモを失くしていたかもしれないことにヒヤリとしながら携帯端末に打ち込もうとして、通話履歴の通知に気づく。
真夜中辺りから断続的に、何度もかけてきている。誰だ?
名前を確認して、時宗は嫌な予感がした。マキからだ。
夕べは呼び出し音も消してあったし、履歴はどれも夜遅い時間だ。急ぎの用事だったら申し訳ないと思いながら、相手が出るのを待つ。
最初の呼び出し音が鳴り終わる前に、マキが出た。
『もしもし!』
「あ、マキさん。夕べ」
『今どこにいる?』
「今? 自宅ですが」
沈黙が流れた。向こうで、息を吸う音がした。
『すまん。ちょっと立て込んでて、夜中にかけたんだが、寝ていたか?』
「寝てました。すみません」
『そうか』
「何かありました?」
『あ、えぇと』
マキにしては珍しい、別なことに気を取られて焦っている感じだ。
『その、君がシンジュクで会った、例の奴が来たんだが』
「ああ……けっこう早かったですね」
その報告のために、夜中の一時にかけてきたのか?
『じつはそのことでトラブルになって』
「どんなトラブルです?」
『仕事いくつか紹介するからって、晶石鉱山に連れていったんだ。ちょうどゲストハウスの清掃スタッフに空きができてて、補充を頼まれてたんでな。あいつ、仕事について説明を受けてる最中に、ゲストの女性と口論をやらかして』
咄嗟に声が出なかった。
まさか。
晶石鉱山は、山全体がデリケートな場所だ。人間の強い敵意を直接感じると鉱脈は『後退』する。関係者たちはそれを理解していなければならない。
時宗は頭を抱えた。例のゲストハウスは、バカ兄貴の時頼が主に使っているであろうことは、わかっている。そこにいる女性と口論になったということは……。
『女性のほうが、なんていうか、どうやら偉そうなことを言って清掃スタッフを見下したらしいんだが、君が寄こした奴が女性を殴ってしまってだな。
全員で押さえたんだが、運悪くそこに、その、南条時頼が来てしまって』
バカ兄貴の名前を聞いて、時宗は通話を切りたくなった。久しぶりに聞く兄の動向がこんなんでいいのか?
『女性は時頼のツレだったんで、怒った時頼は、取り巻きに三好と、あ、君が寄こした奴の名前は三好っていうんだが、あいつと他に数人を処罰させようとして』
最悪だ。なんでこのタイミングで最悪のトラブルが起こる?
『三好たちは引きずられてって、それを取り返そうと非番の採掘人やら管理部の連中やらがゲストハウスに押しかけたんだが、乱闘の末に全員押し出された。昨日の夜から徹夜で睨み合いの状態が続いてる。組合が交渉を申し入れたが、時頼側は三好たちを捕まえたままゲストハウスに立てこもっていて、糸口が見えていない。……なにせ、時頼の取り巻きっていえば……』
時頼が雇っている連中は、銃を携帯しているゴロツキ集団だ。父の義時も、兄の時頼も、鉱山の労働者に恨まれていることだけは理解している。
『それでその、君も鉱山に来てもらえないもんかと思ってだな』
目をつぶり、込み上げる感情に耐える。
怒り。落胆。悲しみ。悔しさ。やりきれなさ。あらゆるものが混ざり合い渦を巻く。
間に合わなかった。サッポロに行く前の焦りが現実になったのだ。
晶石鉱山は、時宗にとって特別な場所だった。あそこだけは取り戻したかったのに。人でも殺されれば、鉱脈は確実に枯れる。
なくなる。なくなってしまう。
暖かい日の光の中で、岩がやさしく囁く。おいで。一緒に眠ろう。
幼い頃、毎週のようにお母様と遊びに行った。山の中で迷ったことはない。好きなだけ一人で歩き回って、戻りたくなったら地面に触れればよかった。石は脈打ち、時宗に帰り路を教えてくれた。
眠くなれば、苔の生えた岩が出迎えてくれた。のんびり昼寝をして、手近な小石を拾って、それを撫でながら帰る。
祖父がいる時は、よく一緒に坑道に入った。黒い岩肌に青く走る鉱脈を、時宗はいつも美しいと思った。指先でなぞれば、鉱脈は嬉しそうに光をこぼすのだ。今までただの岩肌だった場所に、さぁっと光が走り抜けていく。
鉱山で働く人たちは、時宗を見ると笑いかけてくれた。採掘人たちは特に時宗を歓迎した。鉱脈を『前進』させられるのは、祖父と時宗だけだったからだ。
お母様は食堂の隅で待っていてくれた。いつだって、お母様は時宗を見ると安心したように笑った。今日はどこまで行ったの? 何か楽しいことは見つかった?
時宗は山のどの辺りできれいな石を見つけたか、どの岩が時宗に話しかけてくれたかを話しながら、食堂の人が特別に作ってくれたプリンやケーキを食べる。
祖父も、時宗のおやつの時間には一緒にいることが多かった。地図を広げ、時宗が話した場所に印をつける。
いつも祖父は言った。
お前は、石に愛されているな。いい子だ。まっすぐ、大きくおなり。
日が暮れる頃、鉱山施設を照らす灯りを見ながら、時宗はお母様に手を引かれて車へ向かう。今日は楽しかった? お母様が訊ねる。はい。とても楽しかった。
眠りにつくまで、時宗はお母様に話し続ける。最近、雨がたくさん降ったから、水で石がすべすべしてたの。石はね、気持ちがよかったみたい。
お母様は、穏やかに微笑みながら聞いていてくれる。
あそこは、思い出の場所だった。
権力に蹂躙され死んでしまう前に取り返したくて、時宗はずっと、義時と時頼の違法行為の証拠を探り、いつ、あの二人を鉱山から追い出すかを考えて動いていた。資金の流れをこつこつ追い、色々なところからパワハラの証拠を集め、分析レポートを書き……。
マキの言葉は、処刑宣告のように時宗には聞こえた。
よりによって、鉱脈の上で乱闘騒ぎ? 晶石は萎縮して、もう人間の手が届かない奥まで引っ込んでしまったに違いない。
お母様。おじい様。俺は……俺は何もできなかった。
嗚咽をこらえるように、手で口を覆う。マキには悟られたくない。自分が泣きそうなことも、自分が生きている理由が、叩き潰されたことも。
自分はこれから、死んだ山を見に行かなきゃいけないのか? 争う意味をなくした場所で、労働者と経営者の仲裁をしなきゃいけないのか? 和解したところで、もう、晶石は語りかけてこない場所で。
口を覆ったまま、時宗はしばらく考えた。
どうしてこのタイミングで。
弥二郎は強引に時宗をサッポロに行かせた。その本当の目的は、海斗と石、そしてあの機械について時宗に何かをさせることだ。
あの石。記憶が正しければ、あれは曾祖父の遺産であり、自分が幼い頃に遊んだあの場所から掘り出されたものだ。とするなら、弥二郎が時宗をサッポロに行かせたことと鉱山は関係があるかもしれない。
それに騒動も狙いすましたように、今、起こった。機械がトウキョウに到着した、まさにこの時に。
弥二郎を拉致したのが『買い手』じゃないなら、『買い手』は誰だ? ヨツヤの組織とつながっている……者は?
『聞こえてるか? すぐに来てほしいんだが』
マキの声には、どこか必死な響きがあった。
そもそも、唯の方が現場より遠いのに鉱山は「一触即発」という見解を口にした。一方、マキの方がずっと現場に近いのに、楽観的なことを言っていた。
逆じゃないか?
マキは何を知っている? 何を隠そうとした? そしてなぜ今、鉱山に来るよう時宗に懇願している? 時宗が経営に関与できていないことを知っているのに。
機械は、今どこにある?
時宗は顔を上げた。
諦めるのはまだ早い。機械は石とセットだ。ならばおそらく鉱山とも関係がある。そして、あれを動かす『鍵』を握っているのは時宗自身だ。あの機械は何に使うのかはまだわからないが、もし弥二郎が取引に関わっている人間と、機械の使用目的を知っていたとしたら。
「……どうしても、抜け出せない用事があるんです」
鉱山へ行かなければならない。間に合うかどうかはわからない。でも、自分にできることはまだある。段取りを考えろ。大事なものを取り戻すために、全員を欺く方法を手に入れろ。
絞り出すように、マキに言う。
「こっちの用事をできるだけ早く済ませて、そうですね……今日の午後、何時になるかわからないですが、とにかくそっちに行きます」
『もっと早く来られないか?』
祖父に会うなら、それはおそらく無理な相談だ。
「こちらも身動きとれない状況なんです。手が空き次第、向かいます」
『頼む』
通話を切って、時宗は空を睨んだ。
時頼がやらかしたなら、遅かれ早かれ父の義時が出てくるはずだ。さっきの会話で名前が出てこなかったということは、夕べは鉱山にいなかったのだろう。でもだからといって、これから来ないという保証はまったくない。むしろ父親との衝突を予想して行くべき事態だ。
すべてが一か所に集まりつつある。弥二郎と鉱山を取り返し、すべての答を手に入れたいなら、動かなければ。
時は来たのだ。自分が持っているすべてを賭けて、人生を手に入れる時だ。
やってやる。
何があろうと、俺はすべてを蹴散らして、思い出の場所と共に生き残ってみせる。
己の体に静かな興奮が満ちていく。
俺が、俺こそが、鉱山を統べる者。そしてトウキョウの頂点に君臨すべき者。覚悟を決めたなら、必要なのは──楽しむことだ。




