Itinerary: 4日目 その15
事務所に戻る前、垂直昇降機の中で時宗はジーンズのポケットからメモを取り出した。
ⅠDに見覚えはない。誰につながるのか。
今すぐ知りたかったが、先にやるべきことがある。
溜息をつきながら足を踏み入れると、事務所の中はほぼ空っぽだった。数人がコンテナを運び、警察所有の歩行箱もそこかしこを歩き回っている。
海斗の言った通りだ。
くたくたで、風呂に入って眠りたい気分だった。弥二郎と敬樹と、三人で作ってきた空間は、もうくつろげる場所ではない。数日に渡って負荷をかけ続けた脳は、叩こうが蹴ろうが、頑として考え事を拒否している。
時宗は山本に声をかけ、部屋の隅で話した。彼は中年に差し掛かった男性で、スーツの下はしっかりと筋肉がついているのが伺える。第一層から第二層の犯罪に慣れた、いかにも叩き上げという感じだった。
「お仕事の途中で、申し訳ありません」
時宗はまず下手に出た。ここで反感を買うべきではない。しかし、相手が有能であるほど、これから時宗が交渉する内容に、いい顔はしないはずだ。
「いえ、何かお気づきのことがありましたら、すぐに言って頂いた方が我々としても助かります」
頷き、時宗は続けた。
「気づいたこと、ではなく……この件の性質について、説明とお願いをさせて頂きたいのです」
「どういうことでしょうか」
深呼吸をする。表向き、自分はあの『家』から離れたことになっている。だが実際には、自分は未だにあの『家』とともに生きている。その事実からは逃げられない。あの石。海斗の母親。俺の考えが合っているなら、これ以上、自分はあの『家』の外の人間として行動することはできないのだ。
これは警察との交渉じゃない。自分が覚悟を決めるべき瞬間だと、時宗は知っていた。
思っていたのとは違う形で、自分はあの『家』に復帰しなければならない。弥二郎のために。海斗のために。
「この事務所の責任者は僕の叔父です。僕と叔父とは普段『南』という名字で行動しておりますが、本名は……南条と申します」
山本の目が見開かれた。
このトウキョウという街の列車網、機械産業、建設産業、サービス業、要となる晶石鉱山。それらを統べる、この街の実質的な王族。それが南条だ。南条一族以外がこの名字を名乗ることはない、特別な名前。
「つまり、その……」
答えに詰まった山本が、時宗を見つめる。ジャケットのポケットから、時宗は黒いカードを出した。
「身分証をお見せいたします」
それが身分証であること自体を隠すため、南条直系の『本物の』IDは一切文字が書いていない。
「他の捜査員の方々にもお知らせして頂いてかまいません」
山本が近くの捜査員を呼び寄せ、小声で指示を出しながらカードを託した。不審な顔で端末にカードをかざした捜査員が、仰天した顔になる。山本が横から覗き込み、呆然と呟いた。
「南条……時宗……様」
「はい。僕は現当主、南条義時の次男にあたります。叔父の弥二郎は現当主の弟です。これより、この事件を『第五層案件』として、僕の裁量を認めていただきたい。
なにぶん、この件は一族内のトラブルが関係している可能性が高い。僕としては、叔父を一刻も早く無事に取り戻したい。そのためにできることは、すべてやりたい。言うなれば、これは一般市民の立場を越えた、そちらへの協力です」
山本と捜査員の喉がごくりと鳴った。
「捜査から……手を引けというわけでは……?」
「いいえ。あなた方が有能であることは存じております。解決に協力したいのです。ご存知の通り、第五層にあなた方が入るには、かなり煩雑な手続きが必要になる。ですが僕であれば、即座に入ることができます。さらに言えば、一族としては物事がおおやけになることは避けたい。事件の認知から解決まで、僕が介入したという記録は逆に残したくない」
「つまりその、協力してくださって、解決の功績もこちらに……という……」
「そう考えて頂いて、間違いはないと思います」
山本はしばらく考えて答えた。
「その、これに関しては上の者の判断を仰ぐ必要があるのですが」
「ええ。かまいません。ただ申し訳ないのですが、僕には待っている時間がない。叔父が最近どのような状況にあったか、また、今回の件の関係者である今野海斗が一族とどのような関係にあるのか、明日にでも独自に調査に入ります。同行して頂いても、まったく問題はありませんし、むしろ同行して捜査に役立てて頂ければ」
意を決したように、山本は頷いた。
「了解しました。今夜中に上の者から許可を得てまいります。何かなさる場合は、こちらに事前連絡をお願いいたします。警備も配置しますが、よろしいでしょうか」
「ありがとうございます。また、僕たちが乗ってきた弐陸改造型参なのですが……あれが道路交通法に違反した運転や、違法な物品運送の証拠であることは重々承知の上で、しばらく車庫に留め置くことを許可頂きたい。数日でそちらにお渡しできるとは思うのですが。よろしくお願いいたします。今後こちらで得た情報は、逐次そちらに流しますので」
話を終えると、時宗は事務所を出た。
限界だ。頭の奥が痛い。垂直昇降機に乗り込むと、ぐったりと壁に寄りかかる。
考えることは山積みなのに、もう、何もかもが無理だった。
住居階の廊下に出ると、自分の体を引きずるようにして歩く。呼び鈴を鳴らして中から開けてもらうと、靴を脱ぐなり廊下に倒れ込む。捜査員が心配そうに駆けつけてくれたが、時宗は動けなかった。
頭がズキズキする。弥二郎を取り返さないといけないのに。海斗の人生をなんとかしなきゃいけないのに。
弥二郎。あんたはどうして。どうしていつも、俺に何も言ってくれない? 俺がわからないと思ってるのか? あんたが盾になってくれるたびに、俺の代わりに切りつけられていることを。両親が離婚した後も、高等二年の事件の後も、そして今も。
うずくまり、時宗は顔を隠して歯を食いしばった。どうして俺たちの家に捜査員がいる。俺はひとりになりたいのに。いつもいつも孤独だったのに、どうしてよりによって、ひとりになりたい時に家に他人がいるんだ。
女性警察官が、労わるように屈みこんだのがわかった。
「どうしました? 横になりたい感じですか?」
放っておいてくれ。
「時宗?」
カチャリとドアが開く音がし、海斗が呼んだ。
「時宗さん! 何かあったんですか?」
敬樹が警察官に質問する声がした。
あぁ……お前たちは寝た方がいい。しっかりしなきゃ。俺が戦わなければ、弥二郎は帰ってこない。海斗は逃げきれない。あいつらを寝かせて、俺はもう少し考え事をしなきゃいけないんだ。膝をつくな。立ち上がって、笑うんだ。何があろうと笑え。笑えよ!!
体が動かなかった。
顔の表情筋から全ての力が抜け、口角を上げることができなかった。
うずくまったまま、時宗は自分を落ち着かせるために耐えた。
大丈夫だ。俺はまだ大丈夫だ。
その時、腕がぐいと引かれた。思わず見上げる。
「時宗、風呂入れ。な? お前だって疲れてんだ。それとも、なんか食うか?」
「時宗さん、軽く作りましょうか?」
心配そうな二人の顔。海斗が身を屈め、ジャケットを脱がせようと引っ張った。時宗は苦労して袖から腕を抜いた。
「ほら。あとちょっとだ。風呂入れ。な?」
敬樹が風呂へ向かい、追い炊きのスイッチを入れてくれる。
時宗はのろのろと立ち上がり、壁を伝って風呂に向かった。海斗が支えてくれる。
脱衣所でも、二人はかいがいしく時宗の世話を焼き、気づけば時宗はお湯の中に浸かっていた。ぼんやりと水面を見つめる。
「溺れてねぇか?」
海斗の声がして、ドアが開けられる。
「……溺れては、いない」
「そうか。あったまれ」
心配性なんだよ。俺が風呂で溺れるわけないだろ? そう思うそばから、頭がぼんやりする。明日……明日は……。
「時宗! 寝てねぇか!!」
はっと目を覚ます。がぼっとお湯が口に入り、慌てて姿勢を直す。
「寝てない」
「ほんとか?!」
「ほんとだってば。返事してるんだからわかるだろ?!」
腹立ち紛れにがなると、海斗は静かになった。
ヨツヤの連中はどうなっただろう。あいつらがここを突き止めるとすれば、どういうルートが考えられる? たとえば……。
「時宗!!」
「起きてる!!」
え~とえ~と、何を考えてたんだっけ。
もう面倒になって、時宗はバスタブの内側に寄りかかった。通話ID。あれを手始めに……。
突然、ぐいと腕が引かれた。同時にハッと意識を取り戻す。息ができない!! 激しくむせ込みながら、時宗は這いずるようにバスタブから出た。風呂の床に裸で両手をつき、水を吐ききるまで咳に耐える。
両腕を掴まれ、時宗は乱暴に上を向かされた。海斗の焦った顔が目の前にある。
「お前!! 返事ねぇと思ったら沈みかけてんでねぇか!!」
海斗は息を切らしていた。
「いいか! 時宗。強がんな。いいふりこいたって、なんもいいことなんかねぇ。弥二郎さんいなくて辛いんなら、ちゃんと辛いって言え! 疲れて眠いんなら、眠いって言え! 友だちだろ?!」
最後の声は、泣きそうに掠れていた。
「前倒しで友だち認定したのに、先にお前が死んだらどうすんだ!! ほんっとアホタレだ時宗は」
あ~、やっぱりアホタレ認定は解除されないんだな……。
ずる、と時宗は床にへたりこんだ。
貧血を起こしたように、頭がくらくらする。目眩と頭痛と、すべてに襲われて身動きがとれない。
「すまん……俺はアホタレだ。服が着たいんだけど、立てなくて……お前に裸を見られるのは恥ずかしいんだが……今の俺は裸だ」
体から、力が抜け落ちていく。裸で風呂にへたりこんで、海斗のスエットを濡らしてる。咳をしすぎて、お湯だか涎だかわからないものが顎を伝っている。
みっともなくて、でもそれを海斗は否定しなくて、時宗の目から勝手に涙が落ちた。
「時宗。敬樹がなんか作ってくれてる。立てるか? 服着て、飯食って、寝るんだ。ちゃんと寝たら、明日はまた、余裕かました、いいふりこきの時宗に戻れる。な?」
海斗はひとつひとつの言葉を噛みしめるように時宗に言い聞かせていた。
時宗は微笑んだ。なあ……弥二郎。聞いてくれ。生まれて初めて、俺に親友ができたんだ。聞いて……くれよ……。




