Itinerary: 2日目 その1
さっっっむ!!
飛行艇と空港建物をつなぐ通路に足を踏み出した瞬間、時宗は後悔のあまり艇内に戻りそうになった。いやいや聞いてねぇ。こんな一瞬で震えあがるなんて聞いてねぇ。
頬が幽霊に撫で回されているみたいだ。ひんやりした空気が、人の流れに合わせてぞわぞわ動いている。空港の中なんてどうせ暖房が効いているだろうなどと、浅はかなことを考えた自分を殴りたい。温熱線内蔵ジャケットのジッパーを慌てて引っ張りあげると、時宗は走るようにして空港の建物に入った。中はまだマシだ。
まったく。なんでこんなとこに来なきゃいけないんだ?
仕事だ。当然だ。でもこの仕事、ほんとに俺がやる必要あるか? 探偵事務所の所長って、マメに動くんじゃなきゃ、やってけないんじゃないか? てことはつまり、この仕事はやっぱり弥二郎がやるべきであって……。
考えるのはやめよう。さっさとその今野海斗とやらの家に行って、説得した方が建設的だ。
寒すぎて脚が凍るんじゃないですか?という敬樹の忠告を受けて、時宗は歩行箱を置いてきていた。寒冷地用パーツを注文しても届くのに三日かかると言われて諦めたのだ。背負う形の荷物鞄だけなので、ターンテーブルに向かう必要はない。人混みをかき分けて出口を抜けると、時宗は駅へ向かった。空港からサッポロまで、四輪移動車を借りて冬道に初挑戦するような度胸はない。自動航行機能の管理に任せたとしても、時宗には不安だった。
地表列車に乗り込み座席を確保すると、発車するなり時宗はジャケットに顔をうずめた。ほどなくして、列車は透明なエネルギー・シールドのチューブの中を走り始める。
どこもかしこも寒すぎる。チューブは雪と風を遮断することが目的のようで、防寒性能はそれほどでもないらしい。車内は暖房が入っていてそれなりに暖かいが、サッポロに着いてからのことを考えるだけで憂鬱だ。
気づけば列車はいつの間にか空港エリアを抜け、木々と雪ばかりの凍てついた平原を突っ切っていく。幸いにも雪は降っていなかったが、どんよりとした灰色の空は気分を盛り上げてくれるわけじゃない。
やれやれ。頼むから家にいてくれよ。
最短でとんぼ返りできますように。いや、そういうことは願わない方がいい。何事も、望んだものとは反対の結果が与えられる。それが人生の真理だ。
揺れる列車の中、時宗は若者に似合わぬ溜息をつき、胸の荷物鞄を抱え直した。
サッポロは、時宗の住むトウキョウとは対照的だった。まず建物が低い。中心部でもせいぜい十階程度。その代わり一区画がぎっちりまとまっていて、それを覆うようにエネルギー・シールドが展開している。
雪除けということなのだろう。道路にもシールドがかかっていて、時宗は驚いた。各シールドの間には細い水路が張り巡らされていて、シールドにあたって溶けた雪が常に流れている。雪の季節に、自治体の支出はどのくらいなのだろう。人間の動きを阻害しないよう、下の方はシールドが張られていない。それは生活のためだけではなくコスト削減のためでもあると時宗は考えていた。
トウキョウでは、シールドは庶民のものではない。
第五層か第四層の家の気圧や気温を調整するために使う場合が多く、超高層建築の上部を覆っているものが基本だ。あとは企業が情報を抜かれないように、そして外部の者に侵入されないように張るセキュリティ・シールドが普及している。いずれにしても第三層より下に住む個人にとっては身近なものではない。
とはいえ、雪の上を歩き慣れていない時宗にはありがたいものではあるのだが。
賑わう街を少し楽しむと、時宗は別な列車に乗り込んだ。チューブの中で並走する車両をぼんやり眺め、身上書の住所に近い駅で降りる。
駅の建物から出て、時宗は再び驚いた。
今度はシールドがない。建物はさらに低く、五階程度しかない。建物の間は広くとられ、そこには雪が積もっていた。ようやく気づく。シールドはやはり富裕層か商店街のものであり、普通の人間はこの寒い自然の中、むきだしで暮らしているのだ。
空気は震え上がるほど冷たかった。頬がぴしぴしと凍っていくような感覚に、恐怖さえ覚える。
道路はものの見事に凍結していた。歩道もだ。靴裏につけるスパイクを空港で見つけたことに感謝する。これがなければ、とっくの昔に頭を打って、仕事前に強制帰還になるところだ。
今野の住所は、駅から二十分近く歩いた所にある共同住宅だった。地元民なら二十分もかからないに違いない。でこぼこに凍り、バランスを崩せば一巻の終わりという道を苦労して歩いてきた時宗は、目的地が見えただけで、はやくも仕事をやり遂げた気分だった。
落ち着いた茶色の外壁は、最近改築したようにも見える。ここもやはり隣の建物と接していない。夏はスカスカなのだろう。今は建物ひとつひとつが、雪に半分埋まるように息を潜めている。
人通りが途絶えるのを待って目的の建物に足を踏み入れると、すぐに階段があった。集合郵便受けはないらしい。なんたる欠陥住宅。
今野の部屋は三〇二号室。階段をゆっくり上がり共用廊下をのぞきこむ。廊下は一応壁の内側だが、狭い通路は、外とほとんど変わらない冷え冷えとした空気に満ちている。どうか部屋に今野がいますように。
ゆっくり進んで三〇二の前に立つと、時宗は息を吸った。仕事はすぐ終わる。たぶん終わる。いや終わってほしい。
おそるおそる呼び鈴を鳴らすが……返事はなかった。
うん、まぁどうせそうなるとは思ってたよ。
心の中で自分を慰めながら、もう一度押してみる。軽やかな音が部屋の中に響いているのが聞こえるが、それだけ。足音も、あるいはドアの向こうで息をひそめて訪問者を伺う気配も、何もなし。
そっとドアノブに手をかけ、回してみる。当然のようにドアは開かない。ドアに耳を押し当てても、やはり向こうは静まり返っている。ドアについた郵便受けをのぞいてみる。受取箱の中が空らしきところを見ると、誰かが定期的にチェックしているように思えた。チラシ配りが階段を上ってここまで来るのかは知らないが。
さぁてこのクソ寒い空間で、俺はどうすりゃいいんだ?
いや、もしかしたら夜勤とか何かの仕事で熟睡してるのかも。ほんの少しの希望を込めて、強めに三回呼び鈴を鳴らす。うん、そうだな、頭にきて応対しないことにしたのかも。謝罪の心でゆっくりと二回。
……。
いねぇ。多分確実にいねぇ。なんつうか、人がいる気配がない。いやいや、布団をかぶって出てこないだけかもしれない。人間、希望を捨てたらおしまいだ。今野はきっといる。
ドアをコンコンとノックしながら声を上げる。
「今野さ~ん、あの~、すみません俺、トウキョウからはるばる来たんですよ~お。手紙来てると思うんですけど、おじいさんのことで~ぇ」
声を出すと、白い息が漂った。ほんとマジで、ダメだったら今夜どうすっか。今野が帰ってくるまで俺ここで待たなきゃいけないわけ? 勘弁してくれ。いや普通なら仕事終わって七時とか、八時とかなんかその辺で帰ってくる。それまでなら、なんとか……。まぁ、今いてくれたら仕事は終わる。
「怪しい者じゃないですってば~。おじいさんの遺産もらえますよ~」
言いながらノックを続ける。……なんというか、だまして部屋を開けさせようとしてるアホな借金取りみたいな気分。
ノックと呼び鈴をひとしきり交互にやってから、時宗は深い溜息をついた。あまり両隣に声をかけない方がいいのかもしれないが……。
三〇一か三〇三、どっちかに誰かいないだろうか。
そう思った瞬間に、ありがたや奥の方にある三〇一のドアで、カタンという音がした。
『ぁ!』
焦る声と同時に、傘か何かが倒れる音。
やったぜ御在宅だ!
時宗は勇んで三〇一のドアへ近づいた。住人がどんな奴であろうと、もう居留守は使えない。
住人はあきらめたのか、呼び鈴一度でガチャンと鍵が鳴った。ドアが開いたら、その瞬間に靴を突っ込んでやる。さぁ来い!
ドアがほんの少し開き、暗い隙間に目が光った。
「すみませんお聞きしたいことが」
言いかけた途端、あろうことか住人はいきなりドアを全開にした。バァンと派手な音が響く。時宗はしたたかに顔面をドアでブン殴られた挙句、冷たい床に尻もちをついた。
「いっって~」
顔をおさえてうずくまる時宗を、住人が見下ろしている気配がする。くっそ、ちょっと事情を聞きたいだけなのに、なんでこんな目にあうんだよ。一言何か言おうとした時、住人が怒鳴った。
「さっきからリンゴンリンゴンうるせぇんだ一回押して反応なけりゃ諦めれ! 隣なんか誰もいねぇ帰れ!!」
時宗は頭にきた。いくらなんでも、いきなりこれはないんじゃないか? 用事がなけりゃ、こっちだってこんなクソ寒いとこに来るかよ!
「あのなぁ!」
顔を上げて、時宗は固まった。
えらいこっちゃ。ド真ん中の美形が服着て立ってる。
ぽかんとした顔で見上げられ、向こうもひるんだように動きを止めた。
待て待て。
時宗は自分に言い聞かせる。俺は仕事で来てる。こんな……切れ長の目元が美しいとか、人の好さそうな頬のラインがいいとか、肩幅と腰つきがモロ理想とか、そういう……そういうことは……。
「だから、その」
言おうとしたことがきれいさっぱり抜け落ちて、時宗は意味なく口を開いて、閉じた。
相手はドアノブを掴んだまま、時宗を見つめている。二十代前半だろうか。タートルネック一枚に細身のジーンズという部屋着が、すらりとした体を包んでいる。
こんなのが街を歩いてたら、男だろうと女だろうと二度見するレベルの造形。
いや……だからえ~と目的はなんだっけ。
「隣の奴はほとんどいねんだ。だからやたらとリンゴン鳴らすな」
ぶすっとした顔で、そいつはそう言った。
「……いつ帰ってくるとか、わかりますかね」
「知らね」
「困ったな……」
顔を押さえ床に座り込んだまま哀れな声を出す。ほんとに困った。遠路はるばるやってきて、こんな美形とお近づきになれないなんて。
「なんの用事だ」
住人は溜息をついて質問してきた。ちょっと態度が柔らかくなっている。
「その~、今野さんのおじいさんが亡くなりそうなんですが、死ぬ前にお孫さんに一目会いたいって言うんですよね。今野さんのお母さんと昔喧嘩したのを後悔してて、色々謝りたいし、遺産のことも話しておきたいとかって。何度か手紙を送ったけど返事がないそうで」
「ふ~ん」
興味のなさそうな声。
「連れて帰るか、せめておじいさんの意志を伝えてから帰らないと、俺、報酬もらえないんですよ。まいったな」
思いっきり悲しそうな声を出す。同情を勝ち取れれば、もうちょい情報を引き出せるかもしれない。
「遺産ってけっこう多いんか?」
「そうですね……資産家だって聞いてます」
「へ~え」
協力して頂ければ、謝礼が出るかもしれませんよ。そんなことを言おうとした矢先、住人はからかうような目で時宗に言った。
「本人に会えるといいな。仕事終わったら帰ってくっかもしんねぇよ? 見たことねぇけども」
「は?」
仕事は何ですかと聞く前に、住人はあっという間にドアを閉めた。ガチャンという鍵の音。
唐突な奴。
溜息をつきながら、時宗はのろのろと立ち上がった。なんなんだよ。乱暴だし、人の顔面にドアぶつけて謝りもしねぇし、こっちをバカにした流し目が色っぽいし、ドア閉める時の悪い笑顔がたまんねぇし。
最低だ。顔だけよくて、中身はどうにもならない奴だきっと。だからお近づきになれなくて幸いなんだよ。あんなのと知り合ったら苦労しかしないに決まってんだ。だから、もうはっきりきっぱり切り捨てて仕事して帰ろう。
ただ、今野の部屋の前にずっといたら、あいつに通報されかねない。仕方ない。一旦外に出て、玄関が見えるところで張り込みするしかない。
寒いんだよな……近くに見張りやすくて暖かい場所あるかな。
腹も減ったし。マジで最低な仕事だ。あ~、中間報告も入れないと。何時に帰ってくんだろ今野。ていうか帰ってくるかどうかも怪しいし。
考え事をしながら、時宗はとぼとぼと階段に向かって行った。




