第87話「戻れないほどじゃない」
夜。
結衣の家のリビングは、昼間より少しだけ静かに感じた。
真衣はソファに座ったまま、カバンも置かずにいる。
さっきから、スマホを触るでもなく、ただ手の中で持っているだけだった。
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結衣 「カラオケ、楽しかった?」
真衣 「……うん」
結衣はすぐに“何かあった”と気づく。
でも、急かさない。
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結衣 「何かあった顔してる」
真衣 「してない」
結衣 「してる」
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真衣は少しだけ視線を逸らす。
沈黙が数秒。
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真衣 「……ちょっと」
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それだけ言って止まる。
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結衣は隣に座る。
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結衣 「話せる?」
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真衣は少しだけ間を置いて、ゆっくり頷く。
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真衣 「賢太郎とさ」
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その名前で、結衣の表情が少しだけ変わる。
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真衣は続ける。
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真衣 「なんか……変な感じになった」
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結衣 「変な感じ?」
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真衣 「うん」
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真衣は言葉を探しながら、視線を落とす。
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真衣 「距離が近くなったっていうか」
真衣 「でも、それが正しいのか分からなくて」
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結衣は少しだけ息を吐く。
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結衣 「嫌だった?」
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真衣はすぐに首を振る。
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真衣 「嫌じゃない」
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結衣 「そっか」
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また沈黙。
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真衣は小さく続ける。
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真衣 「でもさ」
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真衣 「進むの早い気がする」
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結衣は少しだけ考えてから言う。
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結衣 「うん、それは分かる」
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真衣は顔を上げる。
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結衣 「でもね」
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結衣 「戻れないほどじゃないよ」
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真衣 「戻れない?」
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結衣 「うん」
結衣 「“間違った”って思ったら、距離は調整できる」
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真衣はその言葉をゆっくり聞く。
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真衣 「調整って……」
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結衣 「止まるとか、ゆっくりにするとか」
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結衣 「そういうの全部含めて選ぶってことだと思う」
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少しの間。
扇風機の音が静かに回る。
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真衣 「お姉ちゃんさ」
結衣 「うん」
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真衣 「こういうの、全部分かってるみたいに言うよね」
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結衣は少しだけ笑う。
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結衣 「分かってないよ」
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結衣 「ただ、たぶん同じことで迷ってきただけ」
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真衣はその言葉に少しだけ黙る。
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真衣 「……そういうの、ずるい」
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結衣 「またそれ?」
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真衣 「うん」
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夜が少し深くなる。
真衣はようやくカバンを置く。
でもスマホはまだ触らない。
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真衣 「ねぇ」
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結衣 「うん」
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真衣 「私さ」
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真衣 「どうしたいのか、まだよく分からない」
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結衣 「うん」
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真衣 「でも、嫌じゃないのは本当」
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結衣は静かに頷く。
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結衣 「それで十分な日もあるよ」
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真衣は少しだけ息を吐く。
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真衣の中にある揺れはまだ消えていない。
でも、それはもう“怖さだけ”ではなくなっていた。
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選んでしまったものと、これから選ぶものの間で。
真衣はまだ立っている。




