第14話 「“東大に行きたい”と言った夜」
夜。
結衣の家。
食卓には夕飯の匂いが残っていた。
テレビではニュース。
父は新聞を読んでいる。
母は食器を片付けていた。
そして。
リビングの端では、 ノートパソコンを開いた青年が静かにキーボードを打っている。
蒼次郎
結衣の兄。
食卓には夕飯の匂いが残っていた。
テレビではニュース。
父は新聞を読んでいる。
母は食器を片付けていた。
そして。
リビングの端では、 ノートパソコンを開いた青年が静かにキーボードを打っている。
蒼次郎
結衣の兄。
東京大学に通う現役東大生。
昔から頭が良くて、 家族の“すごい人”。
結衣にとっては、 ずっと遠い存在だった。
結衣はリビングの入口で止まっていた。
「…言おうかな」
小さく呟く。
でも緊張する。
京大。
早稲田。
慶応。
それとは違う。
東大という名前は、口にするだけでも怖かった。
母が気付く。
結衣の母
「どうしたの結衣?」
「え、何でもない!」
父も新聞を下ろす。
結衣の父
「珍しく難しそうな顔してるじゃないのかい?」
蒼次郎だけはまだパソコンを見てる。
結衣はゆっくり座った。
「…進路のことで話あるんだけど?」
その瞬間、家族の空気が少し変わる。
母が優しく聞く。
「決まったの?」
結衣は息を吸う。
そして。
「…うん。東大教育学部に行きたい!」
静寂。
テレビの音だけが遠くに聞こえる。
父が最初に固まる。
「結衣が東大、目指すの?」
母も目を見開く。
「本気で東大に決めたの?」
結衣は小さく頷く。
「うん!」
その時。
カタッ。
キーボードを打つ音が止まる。
蒼次郎だった。
蒼次郎「教育学部?」
ゆっくり顔を上げる。
結衣は緊張しながら頷く。
「…うん」
蒼次郎は少しだけ目を細めた。
「なんで東大の教育学部に決めたんだ?」
その質問が一番怖かった。
結衣は視線を落とす。
「最初は…無理だと思ってた!」
「でも」
少しずつ言葉を出す。
「周りのみんなが、本気で上の大学を目指してて、自分だけ置いて行かれてる感じがして!」
「一将君も東大目指してるし、頑張ってる姿を見て頑張ろうと思った!」
父が苦笑いをする。
「それで結衣は東大へその子と目指したいわけなんだね!惚れたんだね!一将って子にさ!」
結衣は少し照れながら頷く。
すぐに真剣な顔に戻る。
「置いて行かれるのも嫌だった!」
「そして隣に立ちたいって思った!」
結衣は顔を上げる。
「頑張るから東大の教育学部に行きたい!」
静か。
母は結衣を見つめる。
父も何も言わない。
そして。
蒼次郎が椅子にもたれた。
「…なるほど。結衣が行きたい理由は分かった!」
結衣が身構える。
蒼次郎は淡々としていた。
「口で行きたいって入れる大学ではない!東大は甘くない!」
「うん」
「才能だけじゃ到底無理!」
「うん」
「努力しても落ちるやつはたくさんいる!」
結衣は唇を噛む。
「…うん」
蒼次郎は数秒黙った後。
静かに結衣に聞いた。
「結衣、本気で受ける覚悟ある?」
結衣は止まる。
その言葉はなにより重かった。
逃げ道を消す質問。
でも。
結衣はゆっくり頷いた。
「ある」
蒼次郎は初めて少し笑った。
「なら行け」
結衣が目を見開く。
「……え?」
「本気なら止めない」
母が驚く。
「蒼次郎?」
蒼次郎は続ける。
「むしろ、今の方が受かるやつの顔してる」
結衣は固まる。
「どんな顔!?」
父が笑う。
「珍しいな、お兄ちゃん褒めてるぞ」
「事実言っただけ」
☆
母が少し安心したように笑う。
「でも、東大かぁ……」
父も頷く。
「大変そうだな」
結衣は小さく笑った。
「うん。めちゃくちゃ怖い」
そして。
「でも、行きたい」
その言葉は、 前よりずっと強かった。
☆
その夜。
結衣の部屋。
机の上には、 “東京大学 教育学部”の文字。
以前は遠すぎた。
でも今は違う。
怖い。
不安。
無理かもしれない。
それでも。
スマホが震える。
メッセージ。
天野一将
『決めたか』
短い。
結衣は少し笑う。
返信する。
『東大教育学部』
数秒後。
返事。
『待ってる』
結衣の心臓が跳ねる。
「……なにそれ」
顔が熱い。
でも。
不思議だった。
“東大”って名前より。
その一言の方が、 ずっと胸に残った。




