第8話 器を決めてから
廃墟帯に行く前に、一度エリアナに会おうと決めた。
自分で試すつもりだった。前の人生でも、仕様書を読む前にまず触ってみるほうが好きだった。でもあれは、最低限の開発環境が整っていたから言えることだ。今の僕には、煙の扱い方について何のとっかかりもない。
闇雲にテストを回すより、まず仕様を聞け。
前の人生の上司が言っていた。嫌いな上司だったけど、たまに正しいことを言った。
商業区の外れ、裏路地の奥。ミニマップに前回の線が残っている。苔の生えた壁、雑草の隙間、突き当たりの古い扉。迷わずたどり着けた。
扉を叩いた。
「すみません」
「どうぞ」
中に入ると、乾いた紙と薬草の匂いがした。変わっていない。棚の瓶も、巻いた紙束も、天井のランプも。
エリアナがカウンターの奥にいた。帳面を閉じてこちらを見る。
「あら、また来たの」
「相談があって」
「煙?」
「分かるんですか?」
「他に相談することがあるの?」
なかった。
カウンターの前に立って、正直に話した。
(スモーク)を使ってみた。出すことはできる。でも形にならない。ただ広がるだけ。量の調整もできない。全開か全閉しかない。ダンジョンの1層で何度も使ったら、層全体が白くなった。他の冒険者に迷惑をかけた。ギルドで怒られた。
エリアナは黙って聞いていた。全部話し終えると、少しだけ笑った。
「あら、大変だったわね」
嫌味のない笑い方だった。でも全然同情はしていない。
「予想はしていたわ」
「予想って?」
「あなたのMPが多いのは、見ればなんとなく分かるもの」
見れば分かる。この人にはそういう目があるらしい。商人の目なのか、それとも別の何かなのか。
「あなた、煙を出すときに何を考えてる?」
「出す、と思うだけです」
「それが問題ね」
エリアナがカウンターに肘を置いた。
「魔法書の魔法は自動よ。発動すれば、書かれた通りに出る。形も威力も決まっている」
「はい」
「でも、それは蛇口を開けるのと同じ。水は出る。でも、どこに注ぐかは決まっていない」
「……」
「器を決めてから注ぎなさい」
「器?」
「煙をどこに出すか。どんな形にするか。先にそれを決めてから発動する」
エリアナの声は穏やかだったけど、言葉の一つ一つに重さがあった。
「出してから考えるんじゃないの。出す前に、もう形が決まっている状態を作りなさい」
頭の中で、何かが繋がった。
先にパラメータを定義してから関数を走らせる。変数を決める前に実行したら、そりゃ暴走する。出力先が未定義のまま処理を回せば、メモリ全体に書き込まれるのと同じだ。1層が白くなったのは、まさにそれだった。
「器を決めてから注ぐ……」
「分かった?」
「頭では」
「体は?」
「まだです」
「そうでしょうね。でも、頭で分かっているなら半分は終わりよ」
「具体的にはどうすれば?」
「それは自分で見つけなさい」
エリアナが微笑んだ。
「私は商人よ。教師じゃないわ」
やっぱりそうだ。この人は全部教えてはくれない。入口だけ見せて、中は自分で歩けと言う。
でも、入口が分かっただけで十分だった。器を決めてから注ぐ。出す前に形を決める。あとは、その方法を自分で見つければいい。
「ありがとうございます。……これ、お金かかりますか?」
「最初の一つはサービスよ。取引が成立した記念」
商人の笑顔だった。つまり、次からはかかるということだ。
帰ろうとしたとき、エリアナが声をかけた。
「ねえ」
振り返る。
「あなた、2層までしか行っていないの?」
心臓が少し跳ねた。
「……はい」
「そう」
間があった。エリアナの目が少しだけ細くなる。何かを見ている目だった。僕の顔じゃなくて、もっと先の何かを。
「あなたはそのうち、もっと深い層に行くと思うわ」
「え?」
「勘よ。商人の勘」
僕は黙った。
図星だった。もっと深く行きたいと思っている。2層は退屈なくらい慣れた。その先を、この目で見たい。でも、それはまだ誰にも言っていないのに。
エリアナが続けた。
「深い層の魔石は、見習いがギルドに出したら不自然よね」
「……」
「もしそういうものが手に入ったら、私のところに持ってきなさい。引き取るわ」
「引き取る?」
「買い取る、のほうが正確ね。相場よりは安くなるけど、ギルドに出して問題になるよりはましでしょう?」
心臓がもう一度跳ねた。
この人は、僕が2層より先に行くと思っている。いや、確信している。「商人の勘」と言ったけど、あれは勘じゃない。
「……まだ2層までしか行ってないです」
「ええ。まだ、ね」
その「まだ」に、全部入っていた。
今はまだ。でもそのうち。あなたは行く。私は知っている。
そういう声だった。
この人は何をどこまで知っているんだろう。僕がもっと深く行きたいと思っていること。MPが異常に高いこと。煙の可能性。全部分かった上で、あの魔法書を売ったのか。「ほんの少しだけ、ね」と微笑んだあの言葉は、何を見越していたのか。
考えても分からない。
でも、取引としては悪くなかった。
3層以深の魔石はギルドでは売れない。見習いが持ってくれば、どこで手に入れたのか聞かれる。規則違反が発覚する。でもエリアナのところに持っていけば、黙って引き取ってもらえる。いつか必ず出てくる問題の、受け皿を先に用意してくれている。
「……分かりました。もしそういうものがあったら、持ってきます」
「ええ。待ってるわ」
その声は穏やかだった。商人の声だ。でも、その奥にある何かを、僕はまだ見えていない。
店を出た。路地の外は午後の日差しだった。
頭の中で「器を決めてから注ぐ」を繰り返す。先に形を決める。出してから考えるんじゃない。出す前に、もう決まっている状態を作る。前の人生の言葉に直せば、「出力先を定義してから実行しろ」。分かる。分かるけど、体がそれに応えるかは別の話だ。
今日は廃墟帯に行こう。今度こそ。四回目の「今度こそ」だけど、今日はヒントがある。試すことがある。闇雲じゃない。
歩きながら、エリアナの顔を思い出した。
商人の勘、か。
嘘だと思う。あの人は勘でものを言うタイプじゃない。全部分かっている顔をしていた。
分かっていて、全部は言わない。
僕と同じだ。
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