第31話 ルート急便
ホブゴブリンが動いた。
一歩の踏み込みで地面が鳴り、剣が横薙ぎに振られる。速い。ゴブリンとは段違いだ。——でも、避けられる。体を沈めて剣の下をくぐると、頭上を風圧だけが通り過ぎた。重い。あの剣をまともに食らったら、ライトアーマーごと持っていかれる。
距離を取る。ホブゴブリンの片手剣は僕の短刀より間合いが長い。正面から打ち合えば、短刀が届く前に剣が届く。
二撃目。上段からの振り下ろし。横に飛ぶと、剣が地面を叩いて石が砕け、土が弾けた。
力もリーチも違う。正面からは無理だ。
でも速さなら勝っている。こいつの剣は、振りの起点から終点まで全部見える。敏捷150。伊達じゃない。
問題は消耗だ。村の防衛戦、全力疾走、ゴブリン四匹の暗殺、煙の壁を何枚も立てて——MPも体力も、とっくに削られている。長引けば負ける。短期決戦しかない。
全速で踏み込む。一気に間合いの内側に入り、右の短刀で剣を持つ腕の付け根を突いた。
——受け止められた。
この速度に、反応した。こいつ、やはりただのゴブリンじゃない。
次の瞬間、左拳が下から突き上げてきた。剣ではなく、拳。体を反らして避けたが、拳が顎の先をかすめ、風圧だけで首が揺れた。ギリギリだ。こいつ、剣と拳の両方を使う。近接戦闘を知っている。
距離が開いた。仕切り直し。
周囲のゴブリンが興奮して甲高い声を上げ、棍棒で地面を叩く音が森に響く。ホブゴブリンが構え直し、赤い目でこちらを見ていた。さっきの攻防で何かを掴んだ目だ。こちらの速さを分かった。次はそれに対応してくる。
来る。
ホブゴブリンが踏み込んだ。剣を振り上げる。上段——
体が動いた。頭より先に。
上段の振りを目で追っていたのに、体が勝手に低く沈んだ。なぜか分からない。ただ「上じゃない」と体の奥が叫んでいて、横から来ると、どこかで分かっていた。
フェイントだ。
上段の振り上げは見せかけ。途中で軌道が変わり、横薙ぎに切り替わった。剣が、頭のあった場所を薙いでいく。沈んでいなかったら首が飛んでいた。
なぜ分かった。目では追えなかった。《気配感知》とも違う。もっと根源的な何かが、体を動かした。
——考えるのは後だ。今は生き延びることだけ考えろ。
横薙ぎの下をくぐった姿勢のまま、懐に入った。ホブゴブリンの胴が目の前にある。胸の革鎧——欠片がある場所と、ない場所。脇腹。ここには鎧がない。
右の短刀を突き上げた。
——深い。
手に肉の抵抗が伝わり、ホブゴブリンの血が手首まで流れた。
耳が痛いほどの絶叫。ホブゴブリンが空いた左拳を叩きつけてくる。短刀を引き抜きながら後ろに飛んだ。
ホブゴブリンの脇腹から血が地面に垂れている。効いている。でも、まだ立っている。片手で脇腹を押さえながら、もう片方の手で剣を構え直した。タフだ。
怒りで目の色が変わった。動きが荒くなる。剣の振りは速くなったが、そのぶん雑だ。力任せに横、縦、横と振り回してくる。当たれば終わり。でも、軌道が読みやすい。
避ける。避ける。避ける。隙を探す。
——最後の煙。
MPがほとんどない。壁はもう作れない。でも。
(スモーク)
壁じゃない。ホブゴブリンの顔に向けて、直接吹きかけた。白い煙が顔面を包み、目に入り、鼻に入る。反射的に目を閉じて手で顔を拭った。
一瞬。ほんの一瞬。
その一瞬で懐に入った。5層のボスと同じだ。隙を作って、最大の一撃を叩き込む。
首。
右の短刀を全力で横に薙いだ。全体重を乗せて。首の横に刃が食い込み、深く肉を裂いて——血が噴いた。
ホブゴブリンがよろめく。剣が手から落ちて、金属が地面を叩く乾いた音がした。膝をつき、赤い目でこちらを見る。口が動いたが、声にはならなかった。
倒れた。
——静寂。
ゴブリンの鳴き声が、一斉に止んだ。
二十匹以上のゴブリンが、ボスの倒れた体を見ている。誰も動かない。森の空気が凍りついたように静まり返っていた。
僕は肩で息をしていた。短刀を握る手が震えて、立っているのがやっとだ。
一匹が後ずさりした。もう一匹が振り返り、三匹目が走り出した。
——連鎖した。
一匹が逃げ始めると、堰を切ったように全員が動いた。金切り声を上げながら、ゴブリンたちが森の奥へ散っていく。我先に。仲間を押しのけて。棍棒を投げ捨てて走る奴もいる。
数十秒で、周囲からゴブリンが消えた。鳴き声が遠ざかり、枝を折る音、葉を踏む音も薄れていく。
——終わった。
膝が震えている。短刀を握る手の感覚が薄い。全身が汗で冷たい。MPはほぼゼロ。短刀の血を拭って鞘に戻そうとしたが、手が震えてうまく入らない。三度目で、ようやく収まった。
リーナを見た。
座り込んでいた。泥だらけの顔に擦り傷、金色の髪が汚れている。目を大きく見開いて、頬に涙の跡が残っていた。今は泣いていない。ただ、こちらを見ている。
「……終わりました」
「もう大丈夫」とは言わなかった。さっき言って、こうなった。三回目は言わない。
「帰りましょう」
「……うん」
手を差し出すと、リーナが取った。小さくて震えている手だった。でも、握り返す力はあった。
立ち上がる。二人で。
「歩けますか?」
「……うん」
森の中を歩き始めた。来た道を戻る。折れた枝、踏み荒らされた下草。さっき全力で走った道を、今度はゆっくり歩く。
リーナが黙って歩いている。さっきまでの質問攻めが嘘のように、何も言わない。
しばらく歩いて、リーナが口を開いた。
「ルート」
「はい」
「……ポーターじゃないでしょ」
二回目だ。同じ言葉。でも今度は質問じゃない。確信だった。
「……はい」
初めて認めた。
「でも、事情があるんです。今は話せません」
「うん。いい。話せる時でいい」
リーナが少しだけ笑った。顔にまだ泥がついている。目が赤い。でも、笑った。
「煙、すごかった」
「……すごい?」
「戦ってる時。白い煙がぶわって広がって。怖かったけど、すごかった」
「……そうですか」
「うん。ルートが煙の向こうで動いてるの、ちょっとだけ見えた。速くて、全然見えなかったけど」
泣いた後の笑い声は少しかすれていたけど、明るかった。
——この子は強い。
しばらく歩いて、リーナの足がもつれた。膝が折れかける。疲労と恐怖で体が限界に近いのだろう。
「大丈夫ですか?」
「……ごめん。足が」
「背中に乗ってください」
「え、でも——ルートだって怪我して——」
「大丈夫です」
しゃがんで背中を向けると、リーナが少し迷ってから乗ってきた。軽い。筋力120。この程度の重さなら問題ない。体は消耗しているけど、背負って歩くくらいはできる。
立ち上がると、リーナの手が肩にかかり、金色の髪が頬にかかった。
歩く。森の中を。一歩ずつ。
——ルート急便だ。
届け物は必ず届ける。それが僕の仕事だ。五歳から六年間、ずっとそうしてきた。雨の日も、暑い日も、荷物を抱えて石畳の上を走ってきた。路地を抜けて、階段を駆け上がって、届け先の扉を叩いてきた。
今日の届け物は、今までで一番大切だ。
「……ルート」
「はい」
「……ありがとう」
背中で、リーナの声が聞こえた。さっきよりも小さく、耳元で。
「……僕はポーターですから」
「ポーターって。私、荷物じゃないんだけど」
「今は荷物です。届け物です」
「……なにそれ」
背中で体が小さく揺れた。笑った気配がした。
森を出た。
青い麦が風に揺れる畑が広がっていた。夕日が麦畑を照らして、穂先がほんの少しだけ金色に見えた。村の柵が見える。
柵の前に、村長が立っていた。ずっと待っていたのだろう。こちらに気づいて、走ってきた。
「リーナ!」
「お父さん!」
リーナが背中から降りて、ふらつきながら駆け出した。村長は涙を堪えきれず、飛びついてきたリーナを震える腕で抱きしめた。
「よかった……よかった……」
家の方から村長の奥さんが走ってきた。走りながら泣いていた。リーナの名前を呼ぶ声が途切れ途切れで、メルとトトも後を追いかけてくる。
「おねえちゃん!」
「リーナねえちゃ!」
五人が一塊になった。泣き声と、笑い声が混ざっている。
——届けた。
僕は少し離れた場所に立っていた。短刀の柄を握ったまま、手が震えている。膝が震えている。視界の端が、暗くなり始めていた。
ガルドが近づいてきて何か言っているが、聞こえない。遠い。
村長がリーナを抱えたまま、こちらを見た。口が動いている。
「ルート君、ありがとう——」
聞こえた。最後の一言だけ。
ああ。配達完了。
膝から力が抜けて、地面が近づいてくる。倒れる瞬間、視界が反転して夕焼けの空が見えた。こんなに広い空は、クルヌガルドでは見えなかった。
意識が落ちた。
でも、届けた。
お読みいただきありがとうございます。わかばめぐるです。
第1章「還らずの街のルート急便」、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
走って、戦って、届けました。
明日から第2章に入ります。
投稿ペースは毎日1話に切り替えますので、のんびりお付き合いいただけたら嬉しいです。
ブックマーク・評価・感想、お待ちしております。
第2章もよろしくお願いします。




