第30話 森の中の闘技場
走った。
七百五十メートル先に赤い点が四つ、青い点が一つ。方向も距離も分かる。木の間を縫い、枝を避け、森の中を駆け抜けていく。落ち葉を蹴散らし、低い枝を屈んでくぐり、倒木を飛び越える。敏捷150の体が、地面を蹴るたびに前へ出る。息が上がっていた。村の防衛戦と全力疾走で体は消耗している。でも足は止まらない。
マップを五十メートルに絞って消費を抑える。方向は合っている。真っ直ぐ北東。
五百メートル。四百。三百。距離が縮まっていく。
百メートル。マップに赤い点が映り始めた。四つ。固まっている。その中に青い点。——動いていない。
速度を落とした。
《隠密》
気配を消す。足音を殺す。呼吸を浅くする。木の陰に身を隠しながら近づく。五十メートル。四十。三十。
見えた。
小さな窪地だった。木々の間に開けた場所があり、地面が少しくぼんで木の根が周囲を囲んでいる。ゴブリンが四匹。一匹がリーナの腕を掴んでいた。リーナは地面に座り込んでいて、服が汚れ、膝と腕に擦り傷、頬にも泥がついている。——でも意識はある。怯えた目で唇を噛んでいる。泣いてはいない。
残りの三匹が周囲にいた。一匹が入口で見張り、一匹が地面に座って何かを齧り、もう一匹がリーナの近くをうろうろしている。武装は棍棒が二匹、粗末な剣が二匹。鎧はない。
四匹。問題はリーナだ。近くにゴブリンがいるから大振りの攻撃はできない。煙もリーナを巻き込む。慎重にやる。
位置を確認する。リーナから一番遠い見張りと、地面に座っている一匹を先に消す。
木の陰から窪地の外側を回り込んだ。《隠密》が気配を消している。ゴブリンの耳には何も届いていないはずだ。
見張りの背後、二メートル。振り向いていない。
右の短刀。首の横に、静かに突き入れた。
ゴブリンが一度だけ体を震わせて崩れた。声は出なかった。倒れる体を、音を立てないように地面に降ろす。
一匹。
座っているゴブリンに向かう。五メートル先で背中を向けて何かの肉を齧っている。左の短刀を背中から刺した。心臓のあたり。ゴブリンが齧っていたものを落として、前のめりに倒れた。
二匹。静かに。
残り二匹。リーナの近くにいる。
うろうろしていた方が仲間の異変に気づいた。見張りがいない。座っていた奴が倒れている。
——金切り声を上げた。
リーナを掴んでいるゴブリンもこちらを見た。小さな赤い目が僕を捉える。リーナの腕を引っ張った。盾にしようとしている。リーナが小さく、噛み殺すような悲鳴を上げた。
(スモーク)
金切り声のゴブリンとリーナを掴んでいるゴブリンの間に煙の壁を立てた。視界が切れる。煙で何も見えなくなった金切り声の方が混乱して棍棒を振り回す。
その隙に横から入った。短刀が首を裂く。三匹目。
煙の壁が揺れている。疲労で精度が落ちていて、保つのは十秒あるかどうか。
壁の向こうに回り込む。
四匹目。——リーナの腕を掴んだまま後ずさりしている。もう片方の手に粗末な剣。リーナの首に、近づけていた。
動けない。
下手に動けば、リーナが傷つく。ゴブリンは怯えている。怯えた獣は何をするか分からない。追い詰めた方が危ない。
リーナと目が合った。怯えて震えている。でも、僕を見た瞬間に少しだけ変わった。怯えの中に何かが灯った。——信じている目だった。
小さく頷いた。「動くな」の合図。リーナが微かに顎を引いた。
煙の壁はもう一枚立てられる。でもリーナのすぐ横だ。巻き込む。正面から切り込む? 剣がリーナの首に近い。間に合わない可能性がある。
——足元だ。
ゴブリンの足元だけに、薄く、低く。視界は切らない。足元だけ白くする。
(スモーク)
魔力を細く絞って量を抑え、足元にだけ出した。薄い煙がゴブリンの足を包む。
ゴブリンが足元を見た。
一瞬。ほんの一瞬だけ、リーナから意識が逸れた。剣を持つ手が、わずかに下がった。
——今だ。
一歩でゴブリンの横に出て、手首の少し上を斬った。短刀が肉を裂いて骨に当たり、剣が落ちる。ゴブリンの手がリーナの腕から離れた。
絶叫。残った手で殴りかかってくる。短刀で首を刺した。
終わった。
四匹。全部倒した。
リーナがへたり込んでいた。体が震えている。
「リーナ」
しゃがんで、目線を合わせた。
「もう大丈夫です。終わりました」
リーナが僕を見た。唇を噛んで、目が潤んでいる。泣きそうだけど堪えている。
「……ルート」
「はい」
「……怖かった」
それだけ言って、リーナが泣いた。声を上げずに肩を震わせて、金色の髪が顔を覆った。
何と言えばいいか分からなかった。前の人生でも、泣いている女の子にかける言葉は知らなかった。四十年以上生きても、こういう時に気の利いたことが言えない。
「……もう大丈夫です」
同じ言葉を繰り返した。他に何も出てこなかった。
数分待つと、リーナが少し落ち着いて震えが収まっていった。
「立てますか?」
「……うん」
リーナが立ち上がった。足が少しふらついていて擦り傷がいくつかあるが、大きな怪我はない。
「帰りましょう。村長が心配しています」
「お父さん……」
「はい。みんな待って——」
聞こえた。
ゴブリンの鳴き声。甲高い。金切り声。一匹じゃない。二匹じゃない。四方八方から聞こえてくる。木々の間から。茂みの奥から。頭上の枝から。
無数に。
マップを広げた。五十メートル。
——赤い点だらけだった。
十。二十。数えられない。四方を囲まれている。窪地を中心に、赤い点が輪のように広がっていた。
血の気が引いた。
「リーナ、手を」
リーナの手を掴んで南へ走り出す。村の方向。赤い点の薄い場所を探す。
でもリーナは速く走れない。冒険者じゃない。普通の女の子だ。僕のペースでは走れないし、リーナに合わせれば遅い。
赤い点が近づいてくる。間に合わない。
森の中の少し開けた場所に出たが、もう走りようがなかった。前にも後ろにも赤い点がある。
——囲まれた。
木々の間から、緑色の肌が見え始めた。ゴブリン。一匹、二匹、三匹。次々に姿を現す。茂みから、木の陰から、枝の上から。二十匹以上いる。
鳴き声がうるさかった。金切り声。甲高い叫び。でも、襲ってこない。囲んでいるだけだ。輪を作って、僕とリーナを真ん中にして。
金属を引っ掻くような声、拳で胸を叩く音、棍棒で地面を叩く音。——まるで、これから何かが始まるのを待つ観客だった。
リーナが僕の腕にしがみついていた。震えている。背中に隠れるようにして、ゴブリンの輪を見ている。
「ルート……」
「静かに。動かないで」
短刀を構えたまま周囲を見る。マップの赤い点は動かない。囲んでいるだけだ。何を待っている。
——鳴き声が一斉に大きくなった。
ゴブリンの輪の一角が、割れた。
左右に分かれて一本の道を作る。その奥から、重い足音が聞こえてくる。ゴブリンのものじゃない。もっと重い。
姿が見えた。
ひと際背の高いゴブリンだった。普通のゴブリンは僕の胸くらいだが、こいつは頭一つ以上高い。筋肉が厚く、腕が太い。顔つきも違う。額が広く顎が張っていて、赤い目に——知性の光がある。
手に持っているのは粗末な武器じゃない。刃がちゃんと研がれた、まともな剣。略奪品だろう。胸には革鎧の欠片をつけている。
ホブゴブリン。ギルドの掲示板で読んだことがある。ゴブリンの上位種。群れを統率する個体で、通常のゴブリンとは知性も戦闘力も段違い——こいつがこの群れのボスか。村への襲撃を指揮して、別動隊を北から送り込んだのも、こいつだ。
三メートルの距離で立ち止まった。赤い目が、こちらを値踏みしている。周囲のゴブリンの鳴き声が静まった。
ホブゴブリンが剣を持ち上げ、切っ先を僕に向けた。空いた手で自分の胸を、一回、どんと叩く。
僕を指差す。
自分の胸を叩く。
僕を指差す。
意味は分かった。——俺と戦え。一騎打ちだ。
周囲のゴブリンが一斉に鳴いた。歓声。興奮。ボスが戦う。その相手はこの小さな人間だ。
リーナが、僕の腕を握る手に力を込めた。
「ルート……」
怯えている。当然だ。二十匹以上のゴブリンに囲まれて、目の前にはホブゴブリン。そばにいてあげたい。この手を離したくない。
でも。
周りを見る。二十匹以上が囲んでいて、ここで暴れたら全員が一斉に来る。リーナを守りながら二十匹以上は相手にできない。MPも少ない。体も疲れている。
でも一騎打ちなら。相手がそれを望んでいるなら。ホブゴブリン一匹なら——勝てるかもしれない。
勝てば群れが退く可能性がある。ボスを倒された群れは瓦解する。ゲームの知識だけど、この世界でも似たようなものだろう。
リーナの手を、そっと離した。
「少しだけ待っていてください」
「え——」
「大丈夫。すぐ終わります」
大丈夫。また言った。さっきもそう言って、こうなった。でも他に言葉がない。
リーナから離れて、一歩前に出た。ホブゴブリンと向かい合う。三メートル。短刀を二本構える。左右に。低く。
MPが少ない。煙の壁はあと一回使えるかどうか。体も消耗している。でも短刀はある。敏捷150はある。
ホブゴブリンが剣を構えた。低い構え。重心が安定している。——こいつは戦い方を知っている。
周囲のゴブリンの声が、一段と大きくなった。
森の中の闘技場。観客はゴブリン。リングの中央に、ホブゴブリンと僕。
リーナの視線を背中に感じる。
短刀を握り直した。
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