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還らずの街のルート急便 ~過労死した元ゲーム開発者は「ミニマップ」と「煙魔法」で泥臭く成り上がる~  作者: わかば めぐる
第1章

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第32話 目覚め

 天井が見えた。木の梁が薄暗い中に浮かんでいる。


 見覚えのある天井だった。村で借りている家のベッドに横たわっていることは分かったが、体がうまく動かない。


 重い、というのとも少し違う。——空っぽだった。水を全部抜いた水筒みたいに、形はあるのに中身がない。MPを使い切るとこうなるのかと、どこか他人事のように思った。マップの全力展開を何度もやった。煙の壁を何枚も立てた。最後はホブゴブリンの顔面にスモークを直接吹きかけた。あの時点で魔力はほぼ空だったはずだ。


 横を向くと、リーナがいた。


 椅子に座ったまま、テーブルに突っ伏して眠っている。金色の髪が腕の上に広がっていて、差し込む夕方の光に薄く透けていた。顔の泥は誰かが拭いてくれたらしいが、服は汚れたままだった。膝の擦り傷には布が巻かれている。でも着替えてはいない。着替える間もなく、ここに来て、そのまま眠ったのだろう。


 その横に村長の奥さんが座っていた。リーナの肩に手を置いている。さっきまでさすっていたのかもしれない。目の下が赤い。


 こちらが目を開けたことに気づくと、奥さんが小さく微笑んだ。少しかすれた声で言った。


「起きましたか。よかった」


 その一言に、何時間分かの心配が滲んでいた。


「……すみません、ご迷惑を」


「何を言うの。あなたがリーナを助けてくれたんでしょう」


 奥さんの目にまた涙が滲んだが、笑顔は崩さなかった。


「ディルクさんが戻ってきて、治療してくれました。もう大丈夫ですからね」


「……ありがとうございます」


「お腹空いているでしょう。温かいものを持ってきますね」


 奥さんが立ち上がって部屋を出ていった。扉が閉まる前にもう一度こちらを見て、微笑んだ。


 静かになった。


 リーナの寝息が聞こえる。小さくて、規則正しい。頬に涙の跡が残っていた。泣き疲れて眠ったのだろうか。


 森の中の顔を思い出す。声を上げずに肩を震わせていた。「怖かった」と一言だけ言った。あの時の顔と、今の寝顔は全然違う。安全な場所で、温かい部屋で、静かに眠っている。


 ——届けた。ちゃんと、届けた。


 奥さんがリーナの肩を軽く揺すりに戻ってきた。


「リーナ。起きなさい。ルート君が目を覚ましたわよ」


 リーナがもぞもぞと動いて、テーブルの上で体を起こした。寝ぼけた顔で目をこすりながらこちらを見る。一瞬、焦点が合わない。——合った瞬間に、目が大きくなった。


「……ルート?」


「おはようございます」


「おはよう、じゃなくて! 起きたの!? 大丈夫なの!? 怪我は!? 痛いところは!?」


 一息だった。いつものリーナだ。目が赤いけど。頬に枕の跡がついているけど。髪がぐしゃぐしゃだけど。


「大丈夫です。治療してもらったみたいで」


「よかった……」


 リーナの目にまた涙が浮かんだが、今度は泣かなかった。瞬きして、手の甲で拭って、鼻をすすった。安堵を力ずくで押し戻すような仕草だった。この子は泣く時に声を上げない。森の中でもそうだった。今もそうだ。


「……心配かけてすみません」


「心配したよ。すごく」


 リーナの声が少し震えていた。


「倒れた時、動かないし、声かけても返事しないし。ディルクさんが光を当ててくれて、息はしてるって言ってくれて。それでもずっと起きなくて」


「どのくらい寝てましたか?」


「六時間くらい」


「六時間……」


「ずっとここにいた」


 六時間。着替えもせずに。泥だらけの服のまま。椅子に座って、僕が目を覚ますのを待っていた。


 この子にとっては当たり前のことなのだろう。前にも言っていた。「当たり前のことだよ」と。誰かのそばにいることを、この子はそう呼ぶ。


 扉が開いて、重い足音が入ってきた。


 ディルクだった。


 部屋に入ってくる顔には、いつもの疲れに加えてもう一段深いものが見えた。服の肩口が裂けている。オーク三体は楽ではなかったのだろう。でも足取りはしっかりしていて、僕の顔を見た瞬間に小さく息を吐いた。——安堵の息だった。


「起きたか」


「はい」


 ディルクが近づいてきて手をかざした。


 (ヒール)


 淡い光が体を包む。温かい。胸の奥に染み込んでいくような感覚。体の中の空っぽが、ほんの少しだけ和らいだ。魔力そのものが戻るわけではないけど、疲労が薄れていくのが分かる。


「倒れた時に念のためヒールをかけておいたが、大きな怪我はなさそうだった。おそらく魔力切れだろう」


「はい。たぶんそれだけで」


「よく森から村まで歩いてこられたな。普通は魔力が空になったら気分が悪くなって動けないぞ」


「……リーナを、村に連れて帰らないといけなかったので」


 ディルクが何かを量るような目で、しばらく僕を見ていた。それから小さく頷いて、ベッドの横の椅子に座った。


 声のトーンが変わった。穏やかだけど、真剣だった。


「ガルドから聞いた。ゴブリンの群れが十三体。ウルフにゴブリンライダーもいて、お前が一人で全部倒したと」


「……はい」


「リーナが攫われて、一人で追いかけて、助けて、背負って帰ってきたこと」


「……はい」


「リーナの話だと、でかいゴブリンと一対一で戦って勝ったらしいな。おそらくホブゴブリンだ。群れを率いる上位種で、普通のゴブリンとは知性も戦闘力も段違いの相手だ」


「……はい」


 全部「はい」しか出てこなかった。隠しようがない。村の人間が見ていた。リーナが全部話した。


 怒られるかと思った。「なぜ一人で行った」と。ヨルグならそう言うだろう。


 ディルクは違った。


「事情は聞かない。お前が話したくなったら話せ」


 間を置いて、もう一言。


「ただ、今日はよくやった」


「礼を言うのは俺たちの方だ。俺たちがいない間に、村を守ってくれた」


 ディルクがほんの少しだけ頭を下げた。深くではない。でも、この人が頭を下げた。冒険者が、ポーターの子供に。


 何と返せばいいか分からなかった。


 扉の向こうからもう一つ足音が聞こえた。ディルクとは違う、しなやかな重さ。


 ナディアが入ってきた。左腕に包帯が巻かれている。オーク戦の傷だろう。でも動きに支障はないらしく、いつものように腕を組みながら壁に背を預けた。いつものポーズ。——でも、いつもと顔が違った。


「起きたか。坊主」


「はい」


 ナディアがしばらくこちらを見ていた。言葉を探している。この人はいつも思ったことをそのまま口にする。ディルクにも僕にも誰にでも遠慮がない。その人が、今は言葉を選んでいる。


「……ヨルグのやつ。何を押し付けてきやがった」


 僕に向けた怒りじゃなかった。ヨルグに向けた怒りだ。何も聞かされていなかったことへの。ポーターだと聞いていた子供が、ゴブリンの群れを一人で潰して、ホブゴブリンと一騎打ちして勝った。そんな子供を、何も教えずに送り込んできた。


 答えられなかった。答えを待つ人でもなかった。


 ——にやっと笑った。牙が見えた。犬歯が長い。獣人の笑い方だった。


「それでこそ雄だ」


 腕を組んだまま、けらけらと笑った。声が大きく、壁に響く。ナディアが笑うのを初めて見た。口が悪くて、ぶっきらぼうで、トトの首根っこを掴んで、メルに「謝るな」と言って、ベッドは必ず占領する人。その人が笑っている。嬉しいのか、呆れているのか、感心しているのか。たぶん全部だ。


 ディルクが「静かにしろ。病人だ」と言った。ナディアが「こいつが病人に見えるか」と返した。「見えなくても病人だ」「はいはい」。いつもの二人だった。


 二人が出ていった後も、リーナは隣の椅子に座ったまま動かなかった。


「リーナ。そろそろ着替えたほうがいいですよ。服、汚れたままです」


「……うん」


 立ち上がらなかった。


「……ルート」


「はい」


「ポーターじゃないでしょ」


 森の中でも同じことを言われた。二回目だ。あの時も今も、答えは同じだった。


「……はい」


「秘密なんでしょ」


「はい」


「いい。聞かない。ルートが話したい時でいい」


 ディルクと同じ言い方だった。この村の人たちは踏み込まない。待ってくれる。


「でも一つだけ」


「はい」


「ルートの『大丈夫』は、もう信用しない」


「……」


「今日三回言ったよ。全部嘘だった」


「嘘じゃないです。結果的に大丈夫だったので」


「結果的って! 倒れたでしょ! 六時間起きなかったでしょ!」


「……善処します」


「善処って何? 大丈夫を善処するってどういう意味?」


 自分でも分からない。でもこの言葉が口から出てしまう。前の人生からの癖だ。便利な言葉だと思っていたのに、女の子には通用しない。ロラにも通用しなかった。リーナにも通用しない。


「……着替えてくる」


 リーナが立ち上がって扉に向かった。途中で一度だけ振り返った。


「ルート」


「はい」


「……おかえり」


 小さく。さらっと。目を合わせずに。


 僕が倒れてから六時間。リーナはずっとここにいた。泥だらけの服のまま、椅子に座って、目を覚ますのを待っていた。この子にとっては、それが当たり前らしい。


「……ただいま」


 扉が閉まった。


 一人になった部屋は静かだった。窓の外から夕方の光が差し込んで、木の梁に橙色の線を引いている。


 村を守った。リーナを届けた。ホブゴブリンを倒した。全部、一人でやった。——でも目が覚めた時に、一人ではなかった。リーナがいた。奥さんがいた。ディルクが来た。ナディアが笑った。


 クルヌガルドの貧民街で倒れたら、誰も来ない。朝まで一人で寝台に転がっているだけだ。風邪を引いても怪我をしても、一人で治して一人で立ち上がる。それが五歳からの普通だった。


 ——ここは違った。


 しばらくして、奥さんが温かいスープを持ってきてくれた。湯気が立ち、野菜の匂いがする。ベッドの上で受け取って、ゆっくりと口に運んだ。体の中に温もりが広がっていく。空っぽだった場所に、少しずつ何かが満ちていく感覚がある。一人で飲むスープじゃない。誰かが心配して、誰かが作って、誰かが運んできてくれたスープだ。


 美味しかった。その違いが、今の僕にはよく分かる。

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