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還らずの街のルート急便 ~過労死した元ゲーム開発者は「ミニマップ」と「煙魔法」で泥臭く成り上がる~  作者: わかば めぐる
第1章

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第28話 きれいな手となでぃあおねーちゃん

 昼過ぎ、ディルクとナディアが巡回から戻ってきた。


 借りている家の前で、ディルクが井戸の水で顔と手を洗っている。ナディアは家の壁に背を預けて腕を組み、目を閉じたまま座り込んでいた。二人の武器に血の跡はない。巡回中に何もなかったのだろう。


 ディルクが顔を拭っていた時、視線がふと止まった。村長の家の方を見ている。奥さんが家の前で洗濯物を干していて、横でメルが布を手渡していた。慣れた母と娘の共同作業だ。


 奥さんが手を止めた。背中に手を当てて、少しだけ顔をしかめている。腰が辛いのだろう。畑仕事と家事の積み重ねが、体に出ているのだ。


 ディルクがそちらへ歩いていった。


「奥さん。腰が辛そうですね」


「ああ、ディルクさん。大丈夫ですよ、ちょっと張ってるだけで」


「見せてもらっていいですか?」


「そんな、冒険者さんにそんなこと——」


「ヒーラーですから」


 穏やかな声だった。有無を言わせないけど、押しつけがましくない。あの声には、断る隙がない。


 奥さんがおそるおそる背を向けると、ディルクが手をかざした。


 (ヒール)


 淡い光が奥さんの腰のあたりを包んだ。温かそうな光だ。僕も一度アバラを治してもらった時に感じた。あの光には、不思議な安心感がある。数秒で消えた。


「……あら。楽になりました。嘘みたい」


「古い疲労が溜まっていたみたいです。無理しないでくださいね」


「ありがとうございます。本当に助かります」


 ディルクが軽く頭を下げてこちらへ戻ってきた。


 その手を見ていた。


 あの手は、メイスを振る手だ。指の付け根に硬いたこがあり、手の甲に古い傷跡も残っている。武器を振り慣れた、力強い手。でもヒールを使う時だけ、指先が変わる。丁寧で慎重で、対象に触れるか触れないかの距離を保っている。壊れ物を扱うみたいに。治す時の手と、殴る時の手。同じ手なのに、まったく違う使い方をしている。


 前から気づいていたことがある。ディルクの手だけがきれいだ。体はメイスを振る人間の体なのに、指は細くて爪が短く整えられている。ヒーラーの手だ。


「ディルクさん」


「何だ?」


「……いい手ですね」


 変な言い方になった。「きれいですね」と言おうとして、それだと気持ち悪い気がして変えたら、余計におかしくなった。


 ディルクは少しだけ自分の手を見た。


「ヒーラーの手だからな。これだけは気をつけてる」


「これだけ、ですか?」


「他は雑でいい。メイスを振るのに、爪の長さなんか気にしても仕方ないだろう」


 軽い言い方だった。でも「これだけは」という一語が引っかかった。他は汚れてもいい。前線に出て、メイスで殴って、血を浴びる。自分の体はそういう側なのだと、本人が思っている。ヒーラーなのに前線に出る。その理由を、この人はまだ話していない。聞ける空気じゃなかった。聞いたところで、今は答えないだろう。


 ナディアが壁に背を預けたまま、目を開けずに言った。


「怪我人を見ると放っておけないのは相変わらずだな」


「怪我じゃない。腰痛だ」


「似たようなもんだろ。困ってる奴を見ると手が出る」


「殴ってるみたいに言うな」


「殴ることもあるだろ。メイスで」


「……それは別だ」


「別か。まあ、お前はそう言うだろうな」


 ナディアの口調は軽かった。でも言葉の奥にどこか重さがあった。「お前はそう言うだろうな」という一言に、積み重ねてきた長い時間が詰まっている気がした。二人がどれだけ一緒にいて、何を見てきたか。そのすべてが、この短いやり取りの中に収まっている。僕がいることなど忘れているみたいに、二人だけの空気で話している。でも居心地は悪くなかった。むしろ安心する。この二人の間にある確かな信頼は、口に出さなくても、そこにある。


 夕方近く、見回りの帰りに家の前を通りかかると、ナディアが一人で座っていた。壁に背を預けて両手剣を膝の上に置き、刃を布で丁寧に拭いている。その二メートルほど横に、トトがちょこんと座っていた。地面に腰を下ろして、ナディアの作業をじっと見ている。


 ナディアの外見は、子供には怖いはずだ。獣人の尖った耳、普通より長い犬歯、大きな体に巨大な両手剣、常にぶっきらぼうな顔。でもトトは逃げていない。怖がってもいない。ただ静かに座って、観察している。五歳の好奇心は、恐怖より強いらしい。


 ナディアが気づいていないわけがない。獣人の感覚は鋭い。二メートル先の五歳児の気配など、眠っていても分かるだろう。でも何も言わない。黙って刃を拭き続けている。


 トトが少し近づいた。一メートル半。ナディアは動かない。トトがまた少し近づいた。一メートル。


「……何だ」


 ナディアが顔を上げずに言った。低い声。


 トトがびくっとした。でも逃げなかった。


「おねーちゃん、つよい?」


「おねーちゃんじゃない」


「おねーちゃん、けんもってる」


「剣だ。近寄るな。危ない」


「かっこいい」


 ナディアの手が一瞬止まった。布が刃の上で動かなくなった。


 トトがさらに近づいてナディアの膝の横に座り込んだ。至近距離だ。両手剣の柄に手を伸ばしかけたところで、ナディアがさっと剣を持ち上げた。


「触るな」


「えー」


「触るなって言ってるだろ。刃物だ。指が飛ぶぞ」


「ゆびがとぶ!?」


「飛ぶ。血も出る」


「こわい……でもおねーちゃんはだいじょうぶなの?」


「慣れてる」


「けがしないの?」


「する。何度もした」


「いたい?」


「痛い」


「なくの?」


「泣かない」


「すごい」


 五歳児の「すごい」は純粋だ。計算がない。心の底から、本当にすごいと思っている。


 ナディアが黙った。布を持ったまま、トトの顔を見た。ほんの一瞬、口元が緩んだ。犬歯の先がちらっと覗く。笑った、と言い切れるほどの変化ではない。でも今までのナディアの顔とは確かに違う、柔らかさがあった。


「おねーちゃん、またけんみせて」


「おねーちゃんじゃないって何回言えば分かる」


「なまえなんていうの?」


「ナディア」


「なでぃあ?」


「ナ・ディ・ア」


「なでぃあおねーちゃん!」


「……勝手にしろ」


 そこへ、メルが走ってきた。


「トト! またどこ行って——ナディアさん! すみません! この子がご迷惑を——」


「やだ! なでぃあおねーちゃんといる!」


「おねーちゃんじゃ——もういい」


 ナディアがトトの首根っこを掴んで、メルの前に置いた。猫の子を持ち上げるような手つきだ。雑に見えるけど、力加減が完璧だった。五歳の体を傷つけない力の入れ方を、この人は分かっている。


「すみません。本当にごめんなさい」


「謝るな。ガキはこんなもんだ」


 メルがトトの手を引いて走っていく。トトが振り返って手を振った。


「なでぃあおねーちゃん、またね!」


 ナディアは返事をしなかった。目を閉じて、また刃を拭き始めた。


 僕はその一部始終を少し離れた場所から見ていた。気づかれないように通り過ぎようとした。


「見てただろ」


 背中にナディアの声が飛んできた。獣人の感覚を舐めていた。《隠密》を使っていたわけでもないのだから、当然だ。


「……見てません」


「嘘つけ。坊主」


「…………少しだけ」


「少しも全部も同じだ」


 ナディアが目を閉じたまま言った。


「あのガキ、全然怖がらないんだ。初日からそうだった。普通は獣人の女がでかい剣を持ってたら、子供は泣くだろ」


「トトは人懐っこいですから」


「人懐っこいにも限度がある」


「……ナディアさんが怖くないからじゃないですか」


「怖くない? あたしが?」


「子供にとっては。力加減、完璧でしたよ。さっきの」


 ナディアがゆっくりと目を開けてこちらを見た。深い茶色の目に、何かが浮かんで消えた。言い返そうとして、やめた顔だった。


「……余計なこと言うな。坊主」


 それだけ言って立ち上がった。両手剣を背中に戻して、家の中へ入っていった。怒っていなかった。ナディアが本当に怒る時は、声のトーンがもっと低く沈む。今のは違う。照れ隠しに近い何かだった。たぶん。


 夜、ベルクの家で三人揃って夕食をいただいた。温かいパンと肉のシチュー、野菜の炒め物。テーブルの上にリーナが摘んだ白い花が一輪、小さな瓶に挿してあって、奥さんはそれを見るたびに嬉しそうに微笑んでいた。


 トトが相変わらず膝によじ登ってきた。メルが「ごめんなさい」と言いに来るのは今日三回目だ。リーナが「今日楽しかったね」と笑いかけ、村長はそんな子供たちを穏やかな目で見ていた。奥さんが「おかわりは?」と聞いてくれた。ディルクが黙々と食べている。ナディアが「うまい」と一言だけ言った。奥さんが嬉しそうに「ありがとうございます」と返すと、ナディアは気まずそうに視線を逸らした。


 いつもの夕食。温かい。


 食事の後、借りている家に戻った。ベッドに座って目を閉じる前に、もう一度だけミニマップを広げた。半径五十メートル。村の夜。白い点がいくつか映っている。家の中にいる村人たち。もう眠りについた人もいるだろう。


 白い点ばかりだ。


 でも、僕は知っている。トトの笑顔を知っている。メルの「ごめんなさい」の裏にある優しさを知っている。リーナの声がどんなふうに弾むか知っている。村長が娘たちを見る時の目を知っている。奥さんの料理がどれだけ温かいか知っている。ディルクの手がどれだけきれいか知っている。ナディアがトトを持ち上げる時の力加減を知っている。


 マップの色が何であれ、それは変わらない。この村を守る。この人たちを守る。白い点のままでも、構わない。守りたいものに、色は関係ない。


 目を閉じる。体の奥に意識を向ける。胸の真ん中。自分の魔力がある。それを右手へ。左手へ。胸に戻す。


 エリアナとの約束だ。どこにいても、続ける。


 窓の外に月が出ている。麦畑が月明かりに照らされて、青く光っていた。風が吹いて、穂が少しだけ揺れた。


 明日も朝が来る。見回りをして、トトに絡まれて、リーナに質問されて、ディルクに指示をもらって、ナディアに「坊主」と呼ばれる。


 同じ毎日。穏やかな毎日。


 悪くない。

お読みいただきありがとうございます。

明日は第1章のクライマックスです。

29話・30話・31話の3話を一挙投稿します。

タイトルの意味が、ここで一つ届きます。

よろしければブックマーク・評価など、いただけると励みになります。

明日もよろしくお願いします。

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