第27話 陽だまりの村
村に来て十日ほどが経った頃、ふいにリーナに腕を掴まれた。
「ルート、今日暇でしょ?」
「見回りがあるんですけど」
「見回りしながらでいいから! 村を案内してあげる!」
暇かどうかを聞いておいて、答えを待たない。この子はいつもこういうペースだ。
ちょうど朝食を終えたところだった。ディルクとナディアはすでに巡回に出ていて、東の森寄りを重点的に回ると言っていた。僕の担当は柵の内側だから、案内してもらいながらでも見回りはできる。
「……分かりました」
「やった! 行こ行こ!」
引っ張られるまま、村の中を歩き始めた。
朝の空気がまだ冷たく、麦畑の上に霧が薄く残っていた。日が昇るにつれて消えていくのだろう。クルヌガルドでは見たことのない光景だ。あちらは石畳と建物に囲まれていて、霧が出ても路地の底に溜まるだけで、こんなふうに畑の上を漂ったりしない。
ミニマップを五十メートルに広げる。赤い点はない。白い点がいくつか映っている。畑に出ている村人たちだ。
白い点。ふと気になった。
この村に来てから、ミニマップに映る点のほとんどが白だった。白は中立を示す色だ。こちらに害もなければ、はっきりとした好意もない。システム上では、ただの「知らない人」。それが白だ。
奥さんに毎日ご飯を作ってもらっている。トトには毎日足にしがみつかれている。メルには毎日「ごめんなさい」と言われている。ガルドと柵の修繕をしたし、ゴルトの鍛冶場で刃油ももらった。リーナにはこうして腕を引っ張られている。それでも、白い。十日では、まだ「知らない人」のままらしい。
青に変わる条件が何なのか、正直よく分からない。ロラが初めて青で映った時のことを思い出す。あれはいつだったか。蜂の巣の日か、ダンジョンで一緒に潜った日か。気づいたら変わっていた。カイもエリアナもそうだ。いつの間にか青になっていて、いつ変わったかは覚えていない。マップの色は、こちらの意思で変えられるものじゃない。相手と自分の関係が何かの閾値を超えた時に、勝手に変わる。今、この村のほとんどが白い。それだけのことだ。気にしても仕方がない。
「ルート、聞いてる?」
「聞いてます」
「嘘。目がどっか行ってた」
マップを見ていたのだけど、そうとは言えない。
「考え事してました」
「何の?」
「見回りのルートを」
「嘘くさい」
この子は勘がいい。ロラに似ている。嘘が下手な僕には厄介な相手だ。
「こっちこっち。まずは果樹園ね」
村の西側に、小さな果樹園があった。果物の木が十本ほど並んでいて、枝いっぱいに白い花が咲き、風が吹くたびに花びらが散っていた。
「この木、私が小さい時にお父さんが植えたの。毎年秋になると実がなって、お母さんがジャムにするんだよ」
「へえ」
「ルートってジャム食べたことある?」
「ないです」
「えっ、ないの!? クルヌガルドにはないの?」
「あるとは思いますけど、食べる機会がなくて」
貧民街の食事は、硬いパンと薄いスープが基本だ。ジャムなんて贅沢品は、配達先で見かけたことはあるけど、自分で食べたことはない。
「じゃあ帰る前に去年のやつ出してもらうね。お母さんに言っとく」
さらっと約束を取りつけてくる。断る隙がない。
果樹園の横に畑が続いていた。秋蒔きの麦が青々と伸びていて、風が吹くと穂が一斉に揺れる。波みたいだ。地面から生えた緑の波。
「きれいでしょ?」
「はい」
「この麦が全部金色になるの。夏の終わりから秋にかけて。村じゅうが金色になるんだよ」
リーナの目が少し遠くなった。何度もその景色を見てきた目だ。飽きていない。毎年見て、毎年きれいだと思っている。この村が好きなんだろう。この景色が。
「ルートの街にはこういうのないの?」
「ないです。石畳と建物ばかりで」
「つまんないね」
「まあ、ダンジョンはありますけど」
「ダンジョンかあ。ダンジョンの中ってどんな感じ?」
「暗くて、湿っていて、光石の明かりがあるだけです」
「やだ。暗いの苦手」
「でも、奥に行くほど知らないものがあるんです。歩いたことのない通路、見たことのない空間。地図に線が一本ずつ伸びていく感じが——」
言いかけて止めた。ミニマップの話に踏み込みすぎる。
「線?」
「いや、道が増えていくというか。初めての場所を一つずつ覚えていく感覚が好きなんです」
「あ、それ分かるかも」
リーナが立ち止まった。
「私も畑の奥とか森の端とか、知らない場所を見つけるの好き。行っちゃだめって言われてるとこほど気になるでしょ?」
「分かります」
「でしょ!」
リーナがぱっと笑った。嬉しそうだった。共通点を見つけたことが、この子には大きいらしい。知らない場所を見たいと思う気持ち。それだけで繋がれるなら、悪くない。
畑の脇を歩きながら、リーナが麦の穂先に触れた。指先で軽く撫でるように。慣れた仕草だった。
「この辺の麦は育ちがいいんだよね。土が柔らかいから。でもあっちの端は石が多くて、毎年お父さんが苦労してる」
「詳しいですね」
「畑のことは小さい時から見てるから。お父さんの手伝いもしてるし」
村長の長女。十一歳で、畑仕事の手伝いと、七歳の妹の面倒と、五歳の弟の世話と、来客の相手をしている。それをこの子は「普通」だと言う。忙しいとも思っていない。
「ルートは普段何してるの? ダンジョンに行かない日」
「配達です。午前中ずっと走ってます」
「走ってるの? 毎日?」
「五歳からずっと」
「六年も!? すごいね」
「すごくないです。走るしかなかったので」
「走るしかないって……」
リーナが僕の顔を見た。少し眉を寄せている。何かを読み取ろうとする目だった。
「一人で?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
リーナが黙った。五秒くらい。この子にしては長い沈黙だった。それから、少しだけ声のトーンを落として言った。
「この村にいる間は、一人じゃないからね」
「……ありがとうございます」
「ありがとうじゃなくて。当たり前のことだよ」
当たり前。
この子にとっては、そうなのだろう。家族がいて、村人がいて、隣に誰かがいるのが当たり前。僕にとっては、五歳から六年間、そうではなかった。でもその差をここで言うのは野暮だ。だから黙って頷いた。
リーナはそれ以上は言わなかった。代わりに、話題を変えてくれた。
「次は川のほう行こ。面白いとこあるんだよ」
村の北側の川沿いの道に出ると、川幅は広くないけど水が透き通っていてきれいだった。底の石が見えて、魚の影がちらちら動いている。川辺にトトがいた。水際にしゃがみ込んで、川の中を覗き込んでいる。メルがその後ろに立って、トトの服の襟をしっかりと掴んでいた。落ちないように。七歳の手が、五歳の体を支えている。
「トト、何してるの?」
「おさかな! おさかないるの!」
「また魚か。この前もここで服びしょびしょにしたでしょ」
「こんどはぬれないもん!」
「絶対濡れるでしょ?」
リーナが腰に手を当てて、お姉さんの顔になった。でもトトは聞いていない。水面に手を伸ばしていて、メルがトトの襟を引っ張る。
「トト、だめ! お魚逃げちゃうよ!」
「やだ! さわる!」
「触れないってば!」
メルの声は必死だった。弟が川に落ちたら自分のせいだと思っている。七歳で、その責任感を背負っているのだ。
「メルは偉いですね」
思わず口に出した。メルが顔を上げた。
「え?」
「トトの面倒をちゃんと見ていて。すごいと思います」
メルがきょとんとして、それから少し目を伏せた。照れているのか、戸惑っているのか。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。この子は「ごめんなさい」を一日に何度も言うけど、「ありがとう」はあまり言い慣れていない。頑張っていることを褒められた経験が、少ないのかもしれない。
トトが案の定、水に手を突っ込んで袖を濡らした。
「だから言ったのに!」
メルが叫ぶ。トトが泣きそうな顔をする。リーナが二人の間に割って入って、トトの袖を絞りながら「ほら、泣かないの」と言う。三人が動いていて、声が重なって、笑い声と叱る声が混ざって、川のせせらぎと溶けていく。朝の光が川面に反射して、三人の顔を照らしていた。
トトが濡れた手で僕の服を掴んだ。
「るーとおにーちゃん! おさかないたよ!」
「そうか。よかったな」
「つかまえたかった……」
「魚は速いからな。でも、いることが分かっただけでもすごいよ」
「すごい?」
「うん。見つけたのはトトだろ」
トトがぱあっと笑った。単純で、まっすぐな笑顔。五歳の子供にしか出せない明るさだった。この子たちを守る。三ヶ月間。それが今の僕の仕事だ。
腕にぶら下がるトトをメルに渡した。メルが「ごめんなさい」と言った。今日二回目。いつものことだ。
「謝らなくていいですよ。メルは何も悪いことしてないから」
メルが少し不思議そうな顔をして、それから小さく頷いた。
リーナに連れられて南側に戻る途中、道端に野花が咲いていた。白と紫の小さな花。リーナがしゃがんで一輪摘んだ。
「これ、毎年この時期に咲くの。名前は知らないんだけど」
「きれいですね」
「お母さんが好きなの。毎年、食卓に飾ってるんだよ」
花を手に持ったまま立ち上がった。帰ったらお母さんに渡すのだろう。この子の行動は、いつも誰かに繋がっている。果樹園の話はお母さん。畑の話はお父さん。川辺のトト。自分のためだけに動いている時間が、この子にはほとんどない。
それが、この子の「普通」なんだろう。
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