第26話 麦の芽の村
村の朝は早い。
窓から差し込む光で目が覚めると、隣のベッドではディルクがすでに起きていて、静かに装備を確認していた。窓の外を見ると、麦畑が朝日を受けている。冬を越した麦が青々と伸び始めていた。秋蒔きだ。これが夏にかけて育って、金色に実って、収穫期を迎える。村人たちがもう畑に出ていた。太陽とともに動く生活。ダンジョンの暗闇で夜勤をしていた自分とは正反対だ。
「起きたか」
「はい」
「段取りを確認しておく。村の周囲を朝と夕方に巡回する。日中は畑の近くにいて、何かあればすぐ動けるようにしておく。夜は交代で見張りだ」
「はい」
「お前は日中、村の中の見回りをしろ。柵の内側。畑は俺たちが見る」
ポーターの仕事から変わった。村に着いた以上、見回りくらいはやる。ヨルグに「しっかり働け」と言われている。
「何か見つけても、一人で手を出すな。見つけたら報告。分かったか?」
「はい」
ナディアが奥の部屋から出てきた。髪を束ね直しながら。
「朝飯は」
「村長の家でいただけるらしい」
「行くぞ」
三人で村長の家に向かった。村の中心にある、少し大きな石造りの家だ。扉を叩く前に、中から開いた。
何かが足にぶつかった。
下を見ると、小さい男の子が足にしがみついている。柔らかそうな茶色い髪に、まるい目。五歳くらいだ。
「おにーちゃんだれ?」
後でトトだと知ることになる、村長の末っ子だ。今はただ、足にしがみついてくる小さな生き物だった。
「ルートです。よろしく」
「るーと! るーとおにーちゃん!」
即座に「おにーちゃん」認定された。振りほどけない。小さい手の力が意外に強い。
ばたばたと足音がして、女の子が走ってきた。
「トト! お客さんにくっつかないの!」
メル。七歳。トトの姉。薄い茶の髪を二つに結んでいて、しっかりした顔つきをしている。お姉ちゃんの顔だ。
「ごめんなさい、この子すぐ人にくっつくんです」
トトを引き剥がそうとするが、トトが離れない。メルがトトを引っ張って、トトが僕の足にしがみつく。三人が一塊になった。
「……大丈夫です。気にしないでください」
「ほんとにごめんなさい。トト、離しなさい!」
奥から声がした。
「何やってるの、二人とも」
足音。軽い。
金色の髪が見えた。長い。腰のあたりまで。朝の光を受けて、少し透けている。リーナ。十一歳。村長の長女だ。明るい目がこちらを見て、顔がぱっと輝いた。
「あ、冒険者さん? 来てくれたんだ! ありがとうございます! 私、リーナです。リーナ・ベルク。よろしくお願いします! えっと、お名前は? いくつですか? どこから来たんですか?」
一息で全部聞いてきた。
「ルートです。十一歳。クルヌガルドから」
「十一!? 同い年! 冒険者って同い年でもなれるんだ! すごいね! クルヌガルドって大きい街なんでしょ? どんなところ? ダンジョンがあるって聞いたんだけど——」
「ルートは冒険者じゃない。ポーターだ」
ディルクが後ろから声をかけた。
「ポーター? 荷物持ち? でも短刀持ってるよ?」
「護身用だ」
リーナが「ふーん」と言って、僕を見た。目がきらきらしている。信じていない顔。好奇心の塊だ。
ナディアが横を通り過ぎながら言った。
「朝飯。先に食う」
ナディアが一番先に中に入った。
村長のベルクが出迎えてくれた。朝の挨拶。奥さんが朝食を用意してくれていた。パンとチーズと卵、野菜のスープ。シンプルだけど、温かい。
食事をしながら、ベルクが村の状況を説明してくれた。
「半年ほど前から、ゴブリンが増えまして。前は年に一、二度見かける程度だったんですが、最近は週に一度は畑の近くに出ます」
「ウルフは」
ディルクが聞いた。
「冬の間に何度か。家畜を狙われました。鶏を三羽やられています」
「自警はいるか?」
「猟師のガルドが一人。あとは農具を持てる男が四、五人。ゴブリンが一、二匹なら追い払えますが、五匹以上で来られると手に負えません」
「分かった。巡回のルートを決める。村の周囲の地形を教えてくれ」
ディルクが実務的に話を進める。ベルクが丁寧に答えた。村の東側に森、西側に丘、南が街道、北に川。ゴブリンは主に東の森から来て、ウルフは北の川沿いからやってくるらしい。僕は黙って聞きながら、ミニマップに村の地形を描いていった。歩いて確認するまでは白紙だけど、方角と距離の目安は頭に入った。
朝食の後、ベルクの案内で村を見て回った。井戸、倉庫、鍛冶屋、猟師のガルドの家。防衛上重要になる場所を一つずつ確認する。
鍛冶屋の主はゴルトという無口な男だった。日に焼けた太い腕をしていて、農具を打っているが簡単な武器も作れるらしい。僕たちを見て一度だけ頷いた。それだけ。猟師のガルドは四十代ほどの痩せた男で、使い込まれた弓を持ち、目が鋭かった。
「冒険者さんが来てくれて助かる。最近のゴブリンは数が多くてな。一人じゃ限界だ」
「普段の出没場所は?」
ディルクが聞いた。
「東の森の縁だ。朝方と夕方に出てくることが多い。日中はあまり見ない」
情報を頭に入れる。東の森。朝と夕方。
ディルクたちと別れた後、指示通り村の中を見回って歩いた。ミニマップを五十メートルに広げる。MPの消費が少ないから、長く使える。村の端から端まで、柵の内側をくまなく確認した。白い点がいくつか映っている。村人たちだ。赤い点はない。平和だった。
静かに歩いていると、いつの間にか後ろに小さな気配がついてきていた。トトだ。
「るーとおにーちゃん、なにしてるの?」
「見回り」
「みまわりってなに?」
「悪いやつがいないか調べてる」
「わるいやつ! トトもさがす!」
トトが小さな拳を振り上げた。かわいいけど、見回りにならない。メルが走ってきた。
「トト! 邪魔しちゃだめでしょ! ごめんなさい、ルートさん」
「大丈夫です」
「トト、こっち来なさい!」
「やだ! るーとおにーちゃんといる!」
メルが力ずくでトトの手を引っ張る。トトが踏ん張る。これから三ヶ月、毎日繰り返されるのかと思うと、面倒というより少しだけ楽しかった。
夕方の見回りの帰り。村の南側を歩いていると、畑の端にリーナがいた。伸び始めた麦の手入れをしている。腰をかがめて、雑草を丁寧に抜いていた。金色の髪が背中に流れている。足音で気づいたのか、立ち上がって額の汗を手の甲で拭いた。
「ルート! お疲れさま! 何かあった?」
「何もなかったです」
「よかった。ねえ、クルヌガルドの話聞かせてよ。ダンジョンってどんなところ? モンスターって怖い? 魔法使える人いる?」
質問攻め。でも嫌じゃない。本当に知りたがっている目だ。少しだけ話した。ダンジョンの1層のこと。光石の明かり。石の通路。ラットのこと。
「ラット!? でっかいネズミ? やだ、怖い! でもルートは倒したの?」
「まあ、一応」
「すごい! やっぱり冒険者じゃん!」
「ポーターですけど」
「ポーターでも強いんでしょ? 短刀持ってるし」
「……護身用です」
リーナが笑った。信じていない顔だったけど、追及はせず、すぐに別の質問が来た。
「ルートはさ、なんでこの村に来たの? ポーターの仕事なら街の中でもあるでしょ?」
「……色々あって」
「色々って何?」
「色々です」
「秘密?」
「秘密です」
「えー、気になる」
リーナが頬を膨らませた。でもすぐに笑った。切り替えが早い。
「まあいいや。三ヶ月もいるんでしょ? そのうち教えてね」
「善処します」
「善処って何? 教えてくれるの? くれないの?」
ロラにも同じことを言って怒られた。善処は便利な言葉だと思っていたけど、同年代の女の子には通用しないらしい。
夕方の見回りの帰り。村の柵の外、東の森に近い場所でのことだった。
マップの端に赤い点が一つ映った。小さくて、動きが鈍い。
柵の外に出る。森の手前の茂みに、ゴブリンが一匹いた。緑色の肌。背丈は僕の胸くらい。手に粗末な棍棒。村の方を窺っている。偵察だろう。マップを確認する。五十メートル。他に赤い点はない。単独だ。
音もなく短刀を抜いた。
気配に気づいたゴブリンが奇声を上げて棍棒を振りかざし、突っ込んでくる。
遅い。5層のボスの速度に比べれば、止まっているも同然だ。敏捷150。この程度の動きははっきり見えている。
横へ半歩ずれて、すれ違いざまに首筋を裂いた。一撃。ゴブリンが倒れる。
死体が残る。血が土に染み込んでいく。ダンジョンの外だ。煙にはならない。
短刀の血を拭いて鞘に戻した。
「次見つかったら先に報告しろ」
振り返ると、ディルクが少し離れた場所に立っていた。いつからいたのか。気づかなかった。
「ただ、……悪くない動きだった」
それだけ言って、ディルクはゴブリンの死体に目を向けた。
「死体は放置するな。獣が寄ってくる。村の焼却場に運べ」
「焼却場?」
「村の北の外れにある。ガルドに聞けば分かる」
ゴブリンの死体を運んだ。昇華前なら重く感じたかもしれないが、今の体なら片手で持てた。筋力が上がったことを、こんなところで実感する。焼却場は石を積んだ簡素な炉だった。ガルドが薪をくべてくれた。
「慣れてるな。初めてじゃないだろ」
「……外で倒したのは初めてです」
「ダンジョンじゃ煙になって消えるって聞くが」
「はい。外は違いますね」
「違うだろうな。こっちは血も肉も残る。匂いも残る。だから燃やす」
炎がゴブリンの死体を包んでいく。嫌な匂いがした。ダンジョンでは知らなかった匂いだ。これが外の戦いだ。倒した後にも仕事がある。
夜、三人揃ってベルクの家で夕食をいただいた。温かいパンと肉のシチュー。野菜の炒め物。果物。テーブルの上に、リーナが摘んだ白い花が一輪、小さな瓶に挿してあって、奥さんはそれを見るたびに微笑んでいた。
クルヌガルドの貧民街では、硬いパンと薄いスープが普通だった。こんなにちゃんとした食事は久しぶりだ。前世の記憶を除けば、たぶん初めてかもしれない。
「おいしいですか?」
いつの間にか隣に座っていたリーナが、嬉しそうに顔を覗き込んできた。
「……はい。すごくおいしいです」
「よかった! お母さんの料理おいしいでしょ! この村の麦で焼いたパンなんだよ。バターはお隣の牧場から——」
トトが膝の上によじ登ってきた。
「るーとおにーちゃん、だっこ」
「トト! 食べてる最中でしょ!」
メルが引き剥がしに来る。また三人が一塊になった。
ディルクが黙々と食べている。ナディアが「うまい」と一言だけ言った。奥さんが嬉しそうに「ありがとうございます」と返すと、ナディアは気まずそうに視線を逸らした。
温かい食事。温かい部屋。子供たちの声と笑い声。前の人生でも、こういう食卓は少なかった。一人暮らしの部屋で、テレビもつけずにコンビニ弁当を食べていた。今、ここにいる。不思議な気持ちだった。
夜、ベッドに入った。ディルクが隣で寝息を立てていた。窓の外に月が出ていて、麦畑が月明かりに照らされ、青い麦が風に揺れている。
こんなに穏やかな夜は、いつ以来だろう。
クルヌガルドでは毎日が走ることだった。配達。ダンジョン。夜勤。合間に訓練。レベルを上げたい。強くなりたい。先に進みたい。ずっと走り続けていた。エリアナにも言われた。「焦りすぎよ」と。確かに急ぎすぎていたのかもしれない。立ち止まる時間がなかった。こうして穏やかな夜を過ごして、初めて気づく。自分がどれだけ余裕をなくしていたか。
……もしかして、ヨルグはそれを分かっていたのか。視野が狭くなっていた僕のために、わざとこの依頼を選んだのか。
少し考えた。いや、ないな。あの人はそこまで優しくない。たまたまだ。辻褄合わせに都合のいい依頼がこれだっただけだ。たぶん。
リーナの笑顔を思い出す。質問攻めの明るい声。トトの「おにーちゃん」。メルの「ごめんなさい」。
この村を守る。三ヶ月間。それが今の仕事だ。
目を閉じる。体の奥に意識を向ける。胸の真ん中。自分の魔力がある。それを右手へ。左手へ。胸に戻す。
エリアナとの約束だ。どこにいても、続ける。
ここまで読んでいただきありがとうございます。少しでも面白いと思ったら、下から星ポイントを押して応援していただけると、毎日の執筆の励みになります!




