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還らずの街のルート急便 ~過労死した元ゲーム開発者は「ミニマップ」と「煙魔法」で泥臭く成り上がる~  作者: わかば めぐる
第1章

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第25話 乗合馬車

 馬車が動き出して、最初に思ったのは、空が広いということだった。


 クルヌガルドでは建物に囲まれていた。路地の上に細く切り取られた空。屋根と屋根の隙間から覗く雲。それが僕の知っている空のすべてだった。街の外は違う。どこまでも空が広がっていて、雲が低い。風が畑の上を吹き抜けて、草の匂いを運んでくる。土の匂い。緑の匂い。ダンジョンの湿った空気とは全然違う。


 街道の両側に畑が続き、その向こうに森があって、森の向こうにまた畑が広がっている。遠くになだらかな丘が連なっていた。十一年間、クルヌガルドの中だけで生きてきた。世界がこんなに広いとは思っていなかった。


 荷台の上に座って、流れていく景色を見ている。背負い袋を横に置いて、積み荷の上に腰かけた形だ。他の乗客——商人の男と旅人の夫婦と老人——は荷台の前の方に座っていて、一番後ろが僕の定位置だった。ディルクが馬車の左側を、ナディアが右側を歩いている。二人とも武器に手を置いてはいないけど、周囲を見ている目は緩んでいない。護衛の仕事だ。


 僕の仕事は荷物を見張ること。誰も手を出さない。冒険者が二人歩いている馬車の荷物に手を出す馬鹿はいないから、当然だ。


 暇だった。


 景色を見る。畑。森。畑。飽きる。


 ミニマップに意識を向けた。いつもの平面表示、半径十五メートル。魂格昇華の前は十〜十五で不安定だったけど、今は十五で安定している。これも昇華の恩恵だろう。でも外は広い。十五メートルでは馬車と、ディルクとナディアの白い点と、乗客の白い点だけが延々と映っているだけだ。


 もっと広く見えないかな。


 ふと思いついてMPを少し注いでみた。《空間把握》に、いつもより多く魔力を流すと、マップが広がった。十五メートルが五十メートル近くまで広がり、道の先、森の端、畑の向こうに白い点がいくつか増える。遠くで農作業をしている村人たちだろう。MPが微かに減っている。範囲を広げた分だけ消費するらしく、半径ではなく面積に比例しているような感覚がある。


 もう少し注いでみると、百メートル、二百メートル。先の森の中に白い点が数個あった。動物か。このあたりから消費が目に見えて増えた。広げるほど、加速度的にMPを食う。一瞬だけ思い切り注いでみると、一キロ近く見えた気がした。でもMPがごっそり減った。これは長くは使えない。


 少し試して分かった。五十メートル程度に小さく広げるだけなら消費が少なく、自然回復が追いつくくらいだ。かなり長い時間使えそうだ。でも百メートルを超えると消費が急に増える。遠くを見るなら、一瞬だけ広げて確認して、すぐ戻す使い方がいい。ダンジョンの中では十五メートルで十分だったけど、外は広い。広いから、使い方も変わる。


「何か面白いものでもあるか?」


 ディルクが馬車の横から声をかけてきた。僕がぼんやり目を閉じているのを見たらしい。


「いえ。景色が珍しくて」


「街から出たことないんだったか」


「はい」


「まあ、慣れるさ」


 ディルクはそれだけ言って、また前を向いた。


 午後になって、馬の休憩があった。街道の脇に少し開けた場所があって、馬車が止まり、御者が馬に水をやる。乗客が足を伸ばしていた。


「交代だ」


 ディルクが言った。


「俺とナディアが休む。お前が周囲を見張れ」


「はい」


 荷台から降りた。


 立ち上がった時、胸の左側に痛みが走った。鋭い痛み。アバラだ。5層のボスの尻尾の一撃。まだ治っていなかった。魂格昇華で体は丈夫になったけど、折れた骨がすぐ治るわけじゃない。


 顔をしかめた。一瞬だけ。すぐ戻した。


 でもディルクが見ていた。


「どうした? 痛そうだが」


「大丈夫です。ちょっと怪我していて」


「ちょっとじゃないだろ。見せろ」


「いえ、本当に——」


「見せろ」


 穏やかな声だった。でも有無を言わせない響きがあった。エリアナに似ている。「教師じゃないわ」のあの声と。違う人なのに、同じ重さがある。


 ライトアーマーの端をめくった。胸の左側。まだ少し腫れている。


 ディルクの目が変わった。さっきまでの疲れた目じゃない。患部を見定める目。ヒーラーの目だ。


「肋骨が折れてるな。いつやった?」


「……少し前に」


「少し前って。こんな状態で旅に出たのか」


「動けるので……」


 ディルクが手をかざした。


 (ヒール)


 淡い光が手のひらから広がった。温かい。胸の奥に染み込んでいくような感覚で、痛みが引いていく。ずっと鈍く痛んでいたアバラが、静かになっていく。呼吸が楽になる。深く吸える。数秒で終わり、光が消えてディルクの手が離れた。


「……痛くない」


 息を吸った。深く。胸が痛くない。5層のボス戦以来ずっと残っていた痛みが消えている。


「治した。次からはすぐ言え」


「ありがとうございます」


 ナディアが少し離れた場所で腕を組んでいた。こちらを見ている。


「相変わらず甘いな」


「怪我人を放っておけないだけだ」


「だから甘いって言ってんだ」


 ナディアはそれ以上何も言わなかった。目を閉じて、馬車の車輪に背中を預けた。ディルクも馬車の影に座って、水筒を飲んでから目を閉じた。


 僕は周囲を見張りながら、マップを五十メートルに広げた。消費が少ないから長く使える。白い点も赤い点もない。安全だ。


 ディルクのヒール。淡い光が傷を治す。あれが聖属性の魔法だ。僕には適性がなかった属性で、水晶玉が光らなかった属性だ。でもディルクはがっしりしている。肩幅が広くてメイスを腰に差している。ヒーラーなのにメイスを振る体。ヒーラーなのに前線に出られる体格。違和感がある。でも今は聞かない。


 旅の二日目の午前、街道の脇の森からゴブリンが出てきた。三匹。緑色の肌で、背丈は僕の胸くらい。手に粗末な棍棒を持っている。小さいが、人の形をしていた。


 マップの赤い点で先に気づいていたが、声は出さなかった。ディルクの指示は「手を出すな。見ていろ」だ。ディルクとナディアも気づいていた。熟練の冒険者だ。この程度の気配は見逃さない。


 ナディアが前に出て両手剣を抜いた。


 一匹目に横薙ぎ。一撃。ゴブリンが倒れた。血が出ている。ダンジョンの中なら煙になって消えるが、外は違う。死体が残る。


 二匹目が横から突っ込んできた。ナディアが蹴り飛ばして振り下ろす。二匹。三匹目がナディアの死角に回ろうとした瞬間、ディルクが一歩出てメイスを振った。重い一撃。ゴブリンが吹き飛んで地面に転がり、動かなくなった。


 数秒。三匹。終わり。


 強い。二人とも。ゴブリンが相手にならない。ナディアの両手剣は重くて速く、ディルクのメイスは正確で重い。特にディルクのメイスの振り方が気になった。ヒーラーの振り方じゃない。体の重心が安定していて、踏み込みに迷いがない。前衛の経験がある人間の振り方だ。ヒーラーなのに。


 ナディアがゴブリンの死体から手際よく魔石を取り出していた。小さな刃物で腹を裂いて、中から取り出す。ダンジョンのように勝手に出てくるわけじゃない。自分で切り開いて探して取り出す。同じモンスターでも、外と中では違う。血が出る。肉がある。骨がある。その違いに、少しだけ胸がざわついた。


 二日目の夕方、中継の村に着いた。宿が一軒だけある。三人部屋で、狭い。


 ナディアがベッドを占領した。


「あたしが寝る」


「……はいはい」


 ディルクが文句を言いながら床に毛布を敷く。僕も床。まあ、貧民街の小屋に比べたら、床でも屋根があるだけましだ。


 三日目、四日目。馬車の旅は続いた。道中、ウルフが二匹出た。ゴブリンより速くて大きいが、ディルクとナディアには相手にならなかった。ナディアが一匹を斬り、ディルクが一匹を殴って、二匹の死体が道端に転がった。僕は見ているだけ。手を出したい気持ちはあったけど、堪えた。ポーターだ。荷物を守るのが仕事。


 ただ、ナディアがウルフを斬った後、一度だけ荷台の方を振り返った。僕を見たのか、荷物を確認したのか分からない。でも一瞬、目が合った気がした。


 五日目の午後、町に着いた。中継の村より大きくて、石造りの建物が並び、市場があって宿屋も何軒かある。ギルドの出張所もあった。ディルクたちの護衛依頼はここで完了だ。乗合馬車の終点で、ここから先は馬車が通る道がない。


 町で一泊。三人部屋で、今度はベッドが三つあった。


 夜、宿の部屋でディルクが聞いた。


「お前、ヨルグに何をやらかしたんだ?」


「……言えません」


「言えない、か」


 ディルクはそれ以上聞かなかった。水筒の水を飲んで、天井を見ていた。ナディアが口を挟んだ。


「ヨルグがわざわざポーターをつけてくるなんて、よっぽどだろ」


「……」


「まあいい。どうせ三ヶ月だ。面倒事を起こすなよ」


「はい」


 二人は僕の事情を知らない。ヨルグから「ポーターをつけてやってくれ」としか聞いていない。厄介者。荷物持ちの子供。それだけだ。でもディルクのヒールは温かかった。ナディアは口が悪いけど、戦闘中に荷台の方を一度だけ振り返った。見ていないようで、見ていた。


 六日目の朝、町を出た。ここからは徒歩だ。道が細くなり、街道から外れて村道に入る。轍が薄い。あまり人が通らない道だ。ディルクが先頭、ナディアが後ろ、僕が真ん中。背負い袋を背負って歩いていると、馬車の上からでは聞こえなかった二人の会話が聞こえてきた。


「ディルク、水」


「自分の足元に置いてるだろ」


「お前が持ってる方が近い」


「……はいはい」


 長い付き合い。遠慮がない。でも噛み合っている。言葉は雑なのに、歩くペースが自然と揃っていて、前衛と後衛の距離が一定だ。振り返らなくても、お互いの位置が分かっている。PTとしての信頼が、言葉にしなくても体に出ていた。カイの素振りと同じだ。体に染みついたもの。


 七日目の午後、丘を越えた先に村が見えた。


 小さな集落だった。畑に囲まれていて、麦畑が広がり、その向こうに果樹園がある。家が十数軒。煙突から煙が上がっている。村の周囲に柵があるけど低くて、魔獣を防げるようなものじゃない。


 村の入口に人が立っていた。白髪混じりの年配の男性。日に焼けた顔で、手を振っている。


「ギルドから来てくれた冒険者の方ですか?」


 ディルクが前に出て応対する。


「ディルクです。こちらがナディア。後ろのはポーターのルート」


「ありがたい。村長のベルクです。ゴブリンやら狼やらに困っておりまして」


 村長の顔には安堵があった。冒険者が来てくれた。それだけで少し安心したのだろう。僕はポーターとして後ろに立っていた。荷物持ちの子供。村長の目にもそう映っているはずだ。


 村の中に案内された。宿はない。空き家を一軒貸してくれるらしい。小さな石造りの家で、部屋は二つ。一つにベッドが二つ、もう一つに寝台が一つ。ナディアが奥の部屋を取った。


「あたしはこっち」


「……はいはい」


 ディルクと僕が手前の部屋。ベッドが二つ。今度は床じゃない。


 荷物を置いて窓から外を見た。麦畑が広がっている。まだ小さい芽。春蒔きの麦だ。これが夏から秋にかけて育って、収穫期を迎える。それまでの三ヶ月、この畑をゴブリンや魔獣から守る。


 村に着いた。ここで三ヶ月。


 ディルクとナディア。まだ厄介者扱いだ。でも、アバラを治してもらった。ナディアが一度だけ振り返った。少しずつ、距離が変わるかもしれない。


 まだ分からない。でも、三ヶ月は長い。

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