第21話 魂格昇華
深夜0時、小屋を出た。
今夜は4層を回るための夜勤じゃない。5層に行く。
街は静かだった。酒場の灯りもほとんど消えていて、石畳の上を走る自分の足音だけが響いている。ダンジョンの入口には誰もいない。いつも通りだ。
降りる。1層、2層、3層、4層。全部慣れた道で、ミニマップの線をたどるだけ。足が止まらない。
4層の最奥部、下へ続く階段の前に立った。前回ここに来た時は、降りずに引き返した。まだ早いと思った。今は違う。
階段を降りた。
5層に降り立った瞬間、空気が違った。4層とも違う。重いだけじゃない。何かが「待っている」、そんな感覚がある。壁の色が暗く、光石の配置が不規則で、通路の半分以上が影に沈んでいた。
ミニマップに白紙の地図が広がる。5層は初めてだ。一から歩いて確かめる。ボス部屋には直行できない。ボス階にはフィールドがあって、分岐、罠、通常モンスター。全部越えてからボスに辿り着く仕組みになっている。
壁沿いに慎重に進んだ。3Dマップも併用しながら。
最初の分岐で左と右に道が分かれていた。ミニマップで先を探ると、左の通路に赤い点が二つ、右は一つ。右を選んだ。
ラット上位種。4層と同じ顔だ。踏み込んで右の短刀で首筋を裂く。倒した。ここまでは慣れた相手だ。
先に進むと、通路が狭くなったり広くなったりする。4層と似ているが、分岐が多くて道が複雑だった。
床の色が少し違う場所で足を止めた。手前の石畳と、その先の石畳。色がわずかに違う。暗くて分かりにくいけど、光石の明かりをよく見ると、先の石畳だけ少し新しい。罠だ。壁際の狭い隙間を通り抜けて避ける。罠はミニマップには映らない。目で見るしかない。
先の通路にミニマップで赤い点が三つ映った。ラット二匹とバット一匹だ。
(スモーク)
白い壁がラットとバットの間に立った。バットの視界を切る。ラット二匹を短刀で一匹ずつ処理してから、壁が崩れた。バットが急降下してくる。3Dマップで位置は見えている。避けて、着地の瞬間を突く。倒した。
5層のフィールドは4層の延長だ。敵の顔ぶれは同じで、数が多く、配置が嫌らしい。罠もある。でも一つ一つは対処できる。慎重に進み続けて、分岐を選び、罠を避け、敵を倒しながらミニマップに線を伸ばしていった。
一時間ほど経った頃、通路の先に大きな扉が見えた。今までの通路とは明らかに違う。石の扉が両開きで、表面に何かの紋様が刻まれている。
ボス部屋だ。
扉の前で立ち止まり、息を整えた。短刀を二本確認する。刃の状態、握り、左右の重さ。問題ない。MPを確認する。フィールドで煙を何度か使ったが、MP:162/185でまだ余裕がある。(スモーク)は一回3。五十回以上使える。
ステータスを見る必要はない。数字は変わっていない。Lv9。敏捷46。短刀二本。煙の壁。新人が三人から五人で挑む相手に、一人で挑む。
深呼吸を一つ。
扉を押した。
重い。石の扉がゆっくり開いて、中から空気が流れ出してくる。4層よりも5層よりも、さらに重い空気だ。
広い部屋だった。天井が高く、光石が多くてフィールドより明るい。床は平らな石畳で、壁は丸みを帯びていて、まるで闘技場のような形をしている。
部屋の奥に、それがいた。
赤い体毛。
巨大だった。僕の身長以上のサイズで、通常のラット上位種の三倍、いや四倍はある。上顎から二本、下顎から二本、合わせて四本の牙が口から突き出ていて、太い爪が石畳に食い込んでいる。尻尾が太く、体全体が筋肉で膨れ上がっていた。
赤い目がこちらを見た。
ミニマップの赤い点が一つ。通常モンスターの点とは比べものにならないほど大きい。空気が変わった。殺意。ミニマップの赤が濃い。
ブラッドジャイアントラット。今まで戦ったどの敵とも違う。サイズが違う。圧が違う。これがボスだ。
来た。
突進。真っ直ぐこちらに向かってくる。速い。あの巨体が床を蹴って飛んでくるように走る。地面が振動している。
横に飛んだ。
ボスが横を通り過ぎる。壁にぶつかった。石壁に爪が突き刺さり、砕ける。石の破片が飛ぶ。当たったら終わりだ。
ボスが壁から爪を引き抜いて振り向く。赤い目がまたこちらを捉えた。
走りながら右の短刀を振った。横を通り過ぎる瞬間に脇腹を狙う。当たった。浅い。皮が厚い。4層の上位ラットとは全然違う。短刀の刃が滑るように浅く切れただけで、血は出ているけどボスは気にもしていない。一撃では沈まない。何度も当てて削るしかない。
ボスが反転した。爪の連撃。右、左、右。大きな体から想像できない速さで爪が振られる。
避ける。敏捷46。ギリギリだ。一撃目を半歩で躱し、二撃目は屈んで避ける。三撃目が肩をかすめた。革鎧の表面が裂ける。浅い。でも当たった。余裕がない。
距離を取って、ボスとの間に空間を作る。
(スモーク)
白い壁がボスの正面に立った。赤い目の前に白い煙が広がり、突進の構えが解ける。僕にはミニマップでボスの位置が分かる。赤い点が煙の向こうで止まっている。
壁の横から回り込んだ。ボスの背中に赤い体毛の隙間がある。背骨に沿った筋の上、皮の薄い場所だ。踏み込んで右の短刀を振り下ろした。
深い。さっきの脇腹とは手応えが違う。刃が肉に沈んだ。ボスが鳴き声を上げて暴れる。
離れる。煙の壁がまだ保っている。七秒、八秒。ボスが煙の壁に突っ込んだ。壁が散る。十秒保たなかった。ボスの突進の衝撃で崩れた。でも一回分の効果はあった。背中に深い傷を入れられた。
ボスが怒っている。動きが荒くなって、突進の頻度が上がる。爪の振りが速くなる。
避ける。避ける。避ける。敏捷46で、ギリギリだ。
(スモーク)
ボスの突進に合わせて壁を立てた。ボスが煙に突っ込む。視界を失った瞬間、横腹に短刀を突き入れる。深く抉った。ボスの鳴き声が部屋に響く。
ダメージが蓄積しているのが分かる。ボスの動きが少し鈍くなって、反転が遅くなった。でもまだ倒れない。タフだ。
煙の壁の維持が短くなってきた。集中力が削られている。MPはまだあるけど、精度が落ちる。五秒しか保たない壁は、ボス戦では心許ない。
煙なしで行く。
正面からスピード勝負だ。ボスの突進を見て、避けて、隙を見て短刀を入れる。浅い。もう一回。深い。また避ける。爪が来る。屈む。短刀を振る。浅い。一撃ずつ削っていくしかなかった。こっちも息が上がってきた。ボスも鈍くなっている。お互いに消耗している。
このままでは埒が明かない。厚い皮の上からいくら削っても致命傷にはならない。急所を狙わないと。
目だ。ボスの赤い目。大きい。短刀のリーチなら届く。
狙いを変えた。
ボスの突進が来る。避ける。今度は距離を詰める方向に避けた。ボスの頭の横に出て、振り向きざまに右の短刀を振る。
右目を斬った。
短刀の先が赤い目を裂く。ボスが絶叫した。今までで一番大きな声。頭を振って暴れ、前足が床を叩いて石畳が砕ける。視界が半分になった。
残った左目の側に煙の壁を立てた。
(スモーク)
右目は潰れている。左目は煙で塞がれている。何も見えないはずだ。
ボスがパニックを起こした。見えない。方向が分からない。突進が壁にぶつかり、爪が空を切る。でたらめだ。でも僕には見えている。ミニマップに赤い点が暴れている。位置も向きも分かる。
壁が崩れる前に。
煙の壁の隙間からボスの頭に近づいて、左の短刀で左目を裂いた。完全に視界を奪った。
その瞬間だった。
距離が近すぎた。
ボスが回転した。尻尾。太い尾が横薙ぎに振られて、視界の端に赤い影が見えた時にはもう遅かった。
胴体に直撃した。
吹き飛んだ。体が回転して壁に叩きつけられ、背中から落ちて石畳の上を転がった。
痛い。
胸の左側に鋭い痛みが走っている。息を吸おうとすると内側から刺されるような感覚だ。折れたかもしれない。壁に背中を預けたまま、動けなかった。目の前が少し暗くなる。痛みで意識が揺れる。
ボスが暴れている。盲目のまま、でたらめに爪を振り、でたらめに突進する。壁にぶつかる。床を引っ掻く。でも、こちらには来ていない。見えないから。方向が分からないから。
ミニマップに赤い点が映っている。ボスの位置、向き、動き。全部見える。少しだけ時間がある。
呼吸を整えた。浅く、短く。深く吸うと胸が痛い。左手で壁を掴み、右手には短刀がある。落としていなかった。もう一本は足元に転がっていたので拾う。
立ち上がる。
胸が痛い。息を吸うたびに刺される。でも足は動く。手は動く。短刀は握れる。
ボスの動きが止まった。一瞬。疲労か、混乱か。暴れ続けて息が切れたのかもしれない。盲目のまま暴れても何にも当たらない。それが分かって、止まったのかもしれない。
今だ。
走った。
胸が痛い。走ると振動が骨に響く。でも足は動く。敏捷46が体を運ぶ。
ボスの横に回り込んで、赤い体毛の壁のような胴体の背中に飛び乗った。巨大な体にしがみつく。赤い体毛を左手で掴む。ボスが暴れる。背中の上で体が揺れて、振り落とされそうになる。左手が滑る。胸が痛い。しがみつく力が足りない。
でも、右手がある。
短刀を一本に持ち替えた。左手はボスの体毛を掴んだまま、右手で柄を握り直す。違う。片手じゃ足りない。
左手を離した。
両手で柄を握る。体毛を掴んでいないから、バランスは足だけで取る。ボスが暴れる。振り落とされる前に。
首の後ろ。太い首の付け根、赤い体毛の下に骨と骨の間がある。神経が通っているはずの場所。
突き刺した。全体重を乗せて。両手で。深く。
短刀が沈んでいく。皮を突き破り、肉を裂き、骨の隙間に入る。手に振動が伝わる。刃が何かに当たった。硬いものと柔らかいものの間。
ボスの体が一度大きく跳ねた。僕の体が浮く。短刀から手を離しそうになる。握る。離さない。
ボスが崩れた。
前足が折れるように曲がって、巨大な体が傾いて横倒しになる。僕はボスの背中から転がり落ちた。石畳に肩から落ちる。胸が痛い。でも構わない。
ボスが煙になっていく。赤い体毛が端から消えていって、巨大な体が煙に溶けるように薄れていった。
ボスが煙になり切るまで、石畳の上に座り込んだまま見ていた。
消えた。その場所に今まで見た中で一番大きく、色の濃い魔石が転がっていた。
全身が汗だらけで、荒い息と胸の痛みも忘れるほどの一瞬。
勝った。
……ふらっとした。
酔いのような感覚が来て、地面が揺れている気がする。頭がぼんやりした。エリアナの言葉を思い出す。「少し酔ったような感覚がある」。「体に違和感が出る」。
「何だ……?」
ステータスを開いた。
ルート
シーフ Lv10
HP:185
MP:290
筋力:120
耐久:118
敏捷:150
器用:135
知力:122
運:137
【スキル】
《表示展開》
《空間把握》
《気配感知》
《魔力感知》
《魔力操作》
《短刀術》
《隠密》
【魔法】
(スモーク)
数字が跳ね上がっていた。桁が違う。全部。敏捷46が150。MP185が290。筋力18が120。HPが185。全ステータスが、別の数字になっている。
スキル欄にも見慣れない文字があった。《隠密》。シーフのジョブ特性。ずっと持っていなかったもの。
これが魂格昇華だ。
手を握ってみる。力の入り方がさっきと違う。胸が痛くて力が入らなかった手が、今はしっかり握れる。痛みが消えたわけじゃない。でも、体が違う。足を踏むと、床が近い気がした。重力が変わったのかと思うくらい軽い。
数分後に酔いが引いていく。エリアナの言った通りだった。
顔を上げた。
ボス部屋の中心で、光が集まっていた。床の紋様が淡く光って、その光が一点に集まり、地面から何かが浮かび上がるように現れた。
宝箱だ。木と鉄でできた古い箱で、紋様が刻まれた鉄の留め金がついている。ボス部屋の真ん中に、一つだけ。
しばらくそれを見つめていた。
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