第18話 体で知る
4層の夜勤を一日おきに続けて、数ヶ月が経った。夜、潜る。朝、出る。配達。訓練。寝る。休みの日はロラやカイとダンジョン。また夜。その繰り返し。
4層には完全に慣れた。ラット上位種、バット上位種、たまにスライム。全部対処できる。3Dマップのおかげでバットの不意打ちもない。赤い点が天井にあるか地上にあるか、一目で分かる。
ステータスを開く。
ルート
シーフ Lv9
じわじわ上がっている。4層の経験値が効いている。体が前よりさらに軽い。
《魔力操作》の訓練も毎日続けていた。朝と寝る前。一日も休んでいない。何ヶ月もゼロ。何も感じない。でも止めていない。
エリアナが言った。「一年以上かかるのが普通」。まだ普通の範囲だ。焦ることはない。
焦ることはない、と自分に言い聞かせている。
ある日の午後、配達を終えてからエリアナの店に向かった。裏路地の奥。古い扉。もう何十回目だろう。
「すみません」
「どうぞ」
いつもの匂い。エリアナがカウンターの奥にいた。
「エリアナさん。預けてる分、今いくらですか?」
エリアナが帳面を開いて指で数字を追い、顔を上げた。
「大金貨一枚と少し。おめでとう」
50,000ロアと少し。
数ヶ月かかった。一日おきの夜勤。4層で魔石とドロップ品を回収して、エリアナに預けて、少しずつ積み上げてきた。ようやく届いた。
「指導、お願いします」
「律儀ね。まけてあげようかと思ったのに」
「いりません。取引ですから」
「二回目のその台詞ね」
エリアナが帳面に書き込む。大金貨一枚分。差し引き。取引成立。
「明日から数日、毎日来なさい。一日一時間ほどかかるわ」
「一時間?」
「私があなたの体に直接魔力を流すの。それを感じ取る練習をする」
「直接……?」
エリアナが僕の顔を見た。穏やかだけど、真剣な目だった。
「自分の魔力は分からなくても、外から流れてくるものは分かるわ。何ヶ月も訓練して感じられなかったのは、自分の魔力しか知らないから。比較対象がないの」
「比較対象……」
「他人の魔力を体に通してもらえば、『ああ、これが魔力か』と体が分かる。体が分かれば、自分のも見つけられる」
なるほど。理屈は分かる。自分の心臓の音は普段聞こえない。でも聴診器を当てれば聞こえる。他人の魔力は聴診器みたいなものか。
「それで高いんですか?」
「私の時間と魔力を使うんだもの。数日間、毎日一時間。安いくらいよ」
確かに。エリアナの一時間を数日間拘束する。魔力も消費する。大金貨一枚は商人として当然の値段だ。
「明日の午後、配達が終わったら来なさい」
「はい」
翌日。
配達を終えてエリアナの店に向かった。
店の奥に通された。棚に囲まれた小さな部屋だ。薬草の匂いが濃い。床に敷物が二枚。向かい合って座る形になっている。
「座りなさい」
言われた通り座る。エリアナが向かいに座った。距離が近い。普段はカウンター越しだから、こんなに近くでエリアナの顔を見るのは初めてかもしれない。
「目を閉じて。力を抜いて」
目を閉じる。背筋を伸ばす。いつもの訓練の姿勢。
エリアナが僕の手を取った。両手で包むように、僕の右手を持つ。
「流すわよ」
手のひらから、何かが入ってきた。
温かいとか冷たいとかじゃない。水が染み込むのとも違う。うまく言えない。でも「何かが入ってきた」のは確かだった。体の中に、今まで感じたことのないものが通っていく。
「これが魔力よ」
エリアナの声が聞こえる。でも意識のほとんどは体の中に向いていた。
手から腕へ。腕から肩へ。肩から胸へ。胸の奥に集まって、ゆっくり広がる。体の内側を、何かが流れている。
不思議な感覚だった。痛くない。気持ちいいわけでもない。ただ「ある」。今まで空っぽだと思っていた場所に、何かが通っている。
その時、視界の端に何かが映った。
目を閉じているのに。
店の隅、棚の奥のあたりに、小さな光がある。淡くて、ぼんやりしていて、でも確かに「いる」という感じがした。光の粒というより、光の玉。小さい。手のひらに乗るくらい。
「……今、何か……」
「気にしないで」
エリアナの声は穏やかだったけど、有無を言わせない響きがあった。
光の玉は一瞬で消えた。目を閉じたまま、もう一度あたりを探ったけど、何も見えなかった。
気のせいだったのか。いや、気のせいじゃない。確かに「いた」。何かがそこにいた。
でもエリアナが「気にしないで」と言った以上、今は聞かない方がいいんだろう。
「感じる?」
エリアナが話を戻した。
「……何かが、動いています」
「それ。それが魔力の流れ。今あなたの中を通っているのは、私の魔力。あなたのものとは違うわ」
違う。確かに違う。自分のものじゃない何かが体の中を通っている。異物ではないけど、自分ではない。借り物の服を着ているような。サイズは合っているけど、自分の匂いがしない。そんな感じ。
「この感覚を覚えなさい。これが魔力というものよ」
初めて「魔力」を体で知った。頭ではなく、体で。
一時間はあっという間だった。エリアナが手を離すと、体の中を通っていたものがすっと引いていく。抜けていく感覚も分かった。
目を開ける。エリアナの顔が近い。少しだけ疲れた顔をしていた。魔力を使ったからだろう。
さっきの光の玉のことが気になった。でも聞かなかった。棚の奥を見ても、何もない。
「今日はここまで。明日も同じ時間に来なさい」
「はい。……ありがとうございます」
「お礼は大金貨で受け取ったわ」
商人に戻っていた。
二日目。
同じ部屋。同じ姿勢。エリアナが魔力を流す。
昨日より鮮明だった。手から入ってくるエリアナの魔力が、体のどこを通っているか分かる。腕の内側。肩の付け根。胸の真ん中。
エリアナが流す量を変えた。多くなったり、少なくなったり。流れる速度も変わる。速くなったり、ゆっくりになったり。
「量と速さの違い、分かる?」
「……分かります。今、少し多くなりました」
「正解。感覚が鋭くなってきたわね」
エリアナの魔力が引いた後、体の奥にほんのりと残るものがあった。昨日は気づかなかった。でも今日は分かる。エリアナの魔力が通った後に、別の何かが残っている。
微かで、静かで、ずっとそこにあったもの。
自分の魔力だ。
「エリアナさん。今、何か残ってます。エリアナさんのとは違う」
「自分の魔力が分かったのね」
「これが……僕の」
「ええ。ずっとそこにあったの。あなたが気づかなかっただけ」
何ヶ月も探していたもの。毎朝毎晩、目を閉じて感じようとしていたもの。ずっとそこにあった。エリアナの魔力を体験して、初めて「自分のもの」と「他人のもの」の違いが分かった。比較対象があったから見つけられた。
独学では、たぶん無理だった。
三日目。
エリアナの魔力を流してもらいながら、同時に自分の魔力を感じる練習。
外から来るものと、中にあるものを同時に意識する。最初は混ざってしまう。でもエリアナが量を調整してくれる。多くしたり少なくしたり。外の流れが変わると、中の存在が際立つ。
「コツが分かってきたわね」
「はい。エリアナさんの魔力が強い時は、自分のが見えにくい。弱い時は、自分のが浮かんでくる」
「そう。だから練習は一人の時にやるのよ。他人の魔力がない状態で、自分のだけを感じる。今のあなたなら、できるはずよ」
四日目。
エリアナが魔力を流す量をさらに減らした。ほとんど感じない程度。その微かな外の流れの中で、自分の魔力を探す。見つかる。前より早く。前より鮮明に。
「次の段階に進むわよ」
エリアナが手を離した。
「今度は自分の魔力を動かしなさい。胸の奥にあるものを、右手の方へ押す。イメージで」
目を閉じたまま、集中する。胸の奥の魔力。それを右手へ。
押す。イメージで。
動かない。
もう一度。押す。
動かない。感じてはいるのに、動かせない。見えているのに触れない。
「力みすぎ。呼吸と一緒に。吐く時に、右手へ流すように」
吐く。右手へ。
……微かに。
何かが動いた気がした。自分では分からない。でも。
「少しだけ動いてるわ。微かだけど」
エリアナが言った。
「本当ですか?」
「嘘は言わないわよ。商人だもの」
僕の感覚では分からないレベル。でもエリアナの魔力感知には映っている。動いている。微かに。
「方向はいいわ。もう少し強く押しなさい。でも力まないで。呼吸と一緒に」
具体的なフィードバック。自分一人では絶対に分からない情報。「動いているか動いていないか」を外から見てもらえることの価値が、今ならよく分かる。
大金貨一枚。高いと思っていた。
安いくらいだ。
五日目が終わった。
「指導はここまでよ。あとは自分で練習しなさい」
「はい」
「毎日の訓練で、自分の魔力を感じて、動かす。朝と寝る前。前と同じ」
「でも、前とは全然違います」
「そうね。入口には立ったわ」
エリアナが少しだけ微笑んだ。
「たまに来なさい。魔力感知で見てあげるから。動きを確認する程度なら、お代はいらないわ」
「……サービスですか?」
「お得意様だもの」
商人の笑顔だった。でも嫌な笑顔じゃなかった。
店を出た。午後の日差しが眩しい。
体の奥に、自分の魔力がある。今ならはっきり分かる。ずっとそこにあったのに、気づけなかった。何ヶ月も目を閉じて探し続けて、見つけられなかった。
エリアナの魔力を直接流してもらって、初めて分かった。「これが魔力か」と体が知った。比較対象がなければ見つけられなかった。
前の人生で言えば、仕様書だけ読んで一年悩んでいた新人が、先輩にペアプロしてもらったら一週間で動くようになった、みたいなものだ。独学の限界。誰かに見てもらうことの価値。
ふと思った。エリアナは他人の体に魔力を流せる。魔力感知で相手の魔力の動きが見える。あれは普通の商人の技術じゃない。
それに、初日に見えた光の玉。目を閉じていたのに見えた。あれは何だったのか。エリアナは「気にしないで」と言った。何かがあの店にいる。
でも聞かない。聞いても答えないだろうし、今はそれより自分の練習だ。
帰り道を歩きながら、カイの言葉を思い出した。
「考えたら遅い」
あの言葉の意味が、ようやく体で分かった。頭で理解するのと、体で知るのは全然違う。カイの剣は体が覚えている。僕の魔力も、これからは体で覚えていく。
小屋に帰って寝台に座った。
目を閉じる。背筋を伸ばす。手は膝の上。
体の奥。胸の真ん中。
ある。
微かだけど、確かにある。自分の魔力。ずっとそこにいた。
それを右手へ。吐く息と一緒に。
微かに動く。自分でも分かるようになってきた。まだ不安定。すぐ見失う。でもゼロじゃない。
何ヶ月もゼロだった訓練が、ようやく動き始めた。
あとは毎日やる。カイの素振りと同じだ。体が覚えるまで、繰り返す。
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