第16話 二つの夜
訓練を始めて一ヶ月が経った。
朝と寝る前。毎日。一日も休んでいない。
目を閉じて、背筋を伸ばして、体の奥に意識を向ける。胸の真ん中。何かがあるはずの場所。
何も感じない。
三十日。六十回。結果はゼロ。
カイの「考えたら遅い」を意識して、力まずに待つようにした。「感じよう」と必死にならず、ただそこにある何かを待つ。少しだけ楽になった気はする。
でも、感じたかと聞かれたら、感じていない。
焦らないと決めている。決めているのに、焦る。前の人生の感覚が蘇る。「成果が出ないプロジェクトは打ち切りになる」。上司の顔が浮かぶ。進捗報告。「今週も進捗ありません」。あの空気。
いや、ここには上司はいない。締め切りもない。自分のペースでいい。
でも、エリアナは言った。「途中で諦める人がほとんど」。
諦める人たちの気持ちが、少しだけ分かってきた。
夜勤を中断してから、稼ぎが落ちていた。
配達と2層の魔石だけ。2層の魔石はギルドで普通に売れるけど、安い。
小屋で計算してみた。配達が月に約1,500ロア。2層の魔石がギルドで月に2,000〜3,000ロア。合わせて月4,000〜4,500ロア。生活費を引いたら、貯金は月に1,000〜2,000ロア。50,000ロアまで二年以上。
無理だ。このままでは届かない。
3層に戻るしかない。
配達を終えてからエリアナの店に向かった。裏路地の奥。古い扉。
「すみません」
「どうぞ」
中に入る。いつもの匂い。エリアナがカウンターの奥にいた。
「夜勤、再開します」
単刀直入に言った。エリアナは少しだけ目を細めた。
「訓練と両立できるの?」
「やるしかないです。2層の稼ぎじゃ、大金貨は一生貯まりません」
「一生は大げさね」
「二年以上です」
「そう。計算したのね」
エリアナが帳面を閉じてこちらをまっすぐ見た。
「ねえ、なぜそこまで急いでいるの?」
「急いで……ますか?」
「夜勤を再開してまで大金貨を貯めようとしている。訓練を始めて一ヶ月よ。感じられなくて当然だわ」
「……」
「《魔力操作》は一年以上かかるのが普通なの。一ヶ月で焦るほうがおかしいわ」
一年以上。その言葉が重かった。一ヶ月で成果が出ないと焦っていた自分が、少し恥ずかしくなる。普通は一年。僕はまだ一ヶ月。
「でも、早く覚えたいんです」
「なぜ?」
「一人で生きていくために。もっと強くなりたい。もっと深い層に行きたい。そのために煙を使いこなしたい。全部繋がってるんです」
エリアナが少し黙った。カウンターに肘を置いて、僕の顔を見ている。何かを測るような目だった。
「……真面目ね。あなたは」
「真面目というか、止まるのが怖いんです。前の……昔から、止まると置いていかれる気がして」
言いかけて止めた。「前の人生」とは言えない。
エリアナはそれ以上聞かなかった。聞かない人だ。必要以上に踏み込まない。
「急いでもいいわ。でも、壊れたら意味がない」
声が少しだけ低くなった。
「一日おきにしなさい。毎日潜ったら体がもたない。体が資本よ」
「一日おき……」
「夜勤の日と、休みの日。交互に。それなら回るでしょう?」
「分かりました」
「それと」
エリアナが立ち上がって棚の奥へ行き、しばらく何かを探す音がして、戻ってきた時、手に布の袋を持っていた。
見た目は普通の袋だ。少し大きめで、口が紐で絞れるようになっている。色は濃い茶。使い込まれた感じがある。
カウンターに置かれた袋を手に取ると、鑑定が浮かんだ。
魔法袋(中)
容量:大(部屋半分相当)
重量軽減:あり
「……これ」
「魔法袋よ。部屋半分くらいのものが入る。重さも軽くなる」
部屋半分。この袋に。見た目からは想像できない。
「夜勤を再開するなら、これを貸してあげる」
「貸す?」
「ええ。貸すの。あげるんじゃないわよ。返してもらうから」
エリアナの目が少しだけ鋭くなった。商人の目だ。
「ドロップ品も回収しなさい。今まで魔石だけ持って帰っていたでしょう。牙も皮も殻も、全部売れるの。稼ぎが増えれば、大金貨も早く貯まるでしょう?」
確かに、今まではかさばるからとドロップ品を置いてきていた。この袋があれば全部持ち帰れる。稼ぎが倍近くになるかもしれない。
「……ありがとうございます」
「お礼はいらないわ。あなたの稼ぎが増えれば、うちに入る魔石も増える。私にも利があるの」
先行投資。商人として合理的だ。でも、それだけじゃない気もした。袋を「貸す」というのは、「返しに来い」ということだ。繋がりを切らない。
「体だけは気をつけなさい。あなたが倒れても、私は助けに行かないわよ。商人だから」
言い方はいつも通りだった。でも「気をつけなさい」が先に来た。
「はい」
店を出た。手に魔法袋がある。軽い。中に何も入っていないから当然だけど、部屋半分の容量があるとは思えない軽さだった。
その日から、新しい生活が始まった。
夜勤の日。朝に訓練。午前は配達。午後は寝る。夜に訓練。深夜に3層。早朝に帰る。
休みの日。朝に訓練。午前は配達。午後はダンジョン1〜2層。夜に訓練。ちゃんと寝る。
一日おき。エリアナに言われた通り。
きつい。夜勤の翌日は体が重い。でも一日休めば回復する。十歳の体は、思ったより丈夫だった。五年間毎日走ってきた体力が、ここで効いている。
前の人生の社畜時代よりはましだと思う。あの頃は毎日終電で、好きでもない仕事で、体も心も壊れかけていた。今は自分で選んでやっている。きついけど、意味がある。
3層は魔法袋のおかげで全然違った。
魔石を拾う。ドロップ品も拾う。牙、皮、殻。全部袋に入る。重さも感じない。今まで泣く泣く置いてきた素材が、全部持ち帰れる。
一晩の稼ぎが倍近くになった。魔石だけで400〜500ロアだったのが、ドロップ品を合わせて700〜1,000ロアになる。
50,000ロアまで、約四〜五ヶ月。
長い。でも、二年よりはずっと短い。
休みの日の午後、久しぶりにダンジョンに行った。2層にミニマップで青い点が一つ映った。
ロラだ。
通路を曲がると、青い髪が見えた。ラットを殴り飛ばしているところだった。
「あんた、久しぶり」
「三日ぶりくらいだよ」
「三日も空いたら久しぶりよ」
一緒に回った。前と同じように、ロラが前で僕が後ろ。短い時間だったけど、やっぱり二人だと楽しい。
帰り際、ロラが僕の顔をじっと見た。
「目の下、黒くない?」
「気のせい」
「嘘つき。寝てないでしょ」
「寝てる。少し短いだけ」
「少しって何時間よ?」
「……四時間くらい」
「四時間!?」
ロラの声がギルドの前に響いた。何人かの冒険者がこっちを見る。
「あんたね、四時間って……子供がそんな生活してどうすんのよ!」
「子供って、ロラも同い年だよね?」
「あたしはちゃんと寝てるわよ!」
怒っている。本気で怒っている。でも理由は聞かない。なぜ四時間しか寝ていないのか。何をしているのか。聞いても言わないと分かっているから。
代わりに言った。
「今日は早く帰りなさいよ」
「はい」
素直に答えた。精神年齢四十歳が、十歳の女の子に怒られて従っている。
でも嫌じゃなかった。心配してくれる人がいるのは、悪くない。前の人生では、体調を気にしてくれる人なんていなかった。
その夜。寝る前の訓練。
寝台に座る。目を閉じる。背筋を伸ばす。手は膝の上。
体の奥、胸の真ん中。意識を向ける。
何も感じない。今日も。
目を開けて、深呼吸してから立ち上がった。訓練は訓練。成果が出なくても続ける。それだけだ。
深夜0時。3層へ潜る。魔法袋を肩にかけて入口を降りる。
1層を通過。2層を通過。3層の階段を下りる。いつもの重い空気。暗い通路。
通路の先にミニマップで赤い点が二つ映った。上位ラットだ。
短刀を抜いて踏み込み、二匹同時に相手をして斬った。煙になる。魔石を拾い、ドロップの皮を拾って袋に入れる。
先に進む。
3層にもだいぶ慣れた。ミニマップの線はほぼ埋まっている。敵のパターンも読めている。上位ラット二匹同時でも、今は余裕がある。
余裕がある、ということは。
4層に行けるんじゃないか。
ミニマップの端に、まだ白い場所がある。3層の奥。下へ続く階段があるはずだ。その先が4層。
稼ぎも増える。敵が強くなれば経験も濃くなる。レベルも上がる。
リスクはある。4層の敵が3層とどれだけ違うか分からない。一人で行って対処できなかったら逃げるしかない。でもミニマップがあれば退路は確保できる。
もう少し3層を回って、万全の状態で4層に降りよう。焦らない。エリアナに言われた。「壊れたら意味がない」。
でも、その「もう少し」が、あと何日かだと分かっている。
二つの夜が回っている。
寝る前の訓練。何も感じない暗闇。
深夜のダンジョン。誰もいない3層。そして、その先の4層。
どちらも暗い。どちらも一人。
でも、どちらも止めるわけにはいかない。
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