第12話 夜勤開始
深夜0時。小屋を出た。
夜の街は昼と全然違う。大通りには酒場の灯りが漏れていて、酔った冒険者の笑い声がどこかから聞こえる。商業区の一部はまだ開いていて、夜の商人が店先に立っている。
でもダンジョン周辺は静かだった。
入口の前には誰もいない。見張りもいない。ダンジョンは二十四時間開いている。入ること自体は規則違反じゃない。
3層に行くのが、規則違反だ。
階段を降りた。1層の空気が肌に触れた。昼と同じ匂い。光石の明かりも同じ。ダンジョンの中には昼も夜もない。
ミニマップに白い点がほとんどない。夜のダンジョンには冒険者がいない。
前の人生でいう、深夜のオフィスだ。誰もいない。自分だけの空間。あの頃は嫌だったけど、今は悪くない。邪魔されない。見つからない。
1層を足早に通過する。道は全部覚えている。ミニマップの線が隅々まで入っている。敵は避けた。今日は魔石を拾う場所じゃない。
2層も同じだ。慣れた道を最短で抜ける。ラットが一匹だけ寄ってきたので、走りながら右の短刀で斬った。止まらない。
2層の奥に、下へ続く階段がある。前で足が止まった。
ここから先は規則違反だ。バレたらヨルグに怒られる。煙のときの比じゃない。見習いが単独で3層。処分がつくかもしれない。
でも。
2層で足踏みしている時間はない。
一歩、踏み出した。
階段を下りる。石段が暗い。光石の間隔が広がっている。十段、二十段と下るごとに、空気が重くなる。
3層に降り立った瞬間、分かった。
違う。
2層とは明らかに違う。壁の色が暗く、影が深い。光石の明かりが届く範囲が狭く、通路の幅は似ているのに圧迫感がある。肺に入ってくる空気が、一段濃い。
ミニマップに新しい線が伸び始めた。
白紙の地図。何もない。全部初めての道。
心臓が少し速い。
緊張だ。でもそれ以上に、別のものがある。
興奮。
前の人生では、画面の向こうにこういう場所を作っていた。「未踏のフロア」を設計する側だった。プレイヤーが初めて足を踏み入れる場所。その緊張と期待を計算して、通路の長さや光の量を決めていた。
今、自分がその中にいる。プレイヤーとして、初めてのフロアに立っている。
最初の分岐。左と右。ミニマップには何もない。どちらも白い。
右を選んだ。理由はない。前の人生で「迷ったら右」という癖があった。
通路を進む。足音を抑えながら壁に沿って歩く。
通路の角の先にミニマップで赤い点が一つ映った。
足を止めて距離を測る。近い。動いている。こちらに向かってはいない。通路を横切っているだけ。
角を覗いた。
ラットだった。でも2層のものより一回り大きい。体毛が濃く、爪が長い。目が赤い。上位種だ。
2層の感覚で踏み込んで右の短刀を振ると、速い。
ラットの反応が、2層とは違った。僕の短刀をぎりぎりで躱しかける。爪が壁を引っ掻いた。甲高い音。
でも、僕のほうが速かった。
体を捻って追撃し、右の短刀で首筋を裂いた。ラットの体が煙になって消え、足元に魔石が転がる。
「……強い」
息が少し上がっている。2層では息が上がることなんてなかった。
魔石を拾い上げる。手に持つと鑑定が浮かぶ。
魔石(小)
品質:良
2層のものよりひと回り大きくて、色も濃い。手の中の重さが違う。これだけでも、来た価値がある。
慎重に進む。深入りはしない。初日は地形を覚えることが優先だ。ミニマップに線を引いていく。右の通路、左の分岐、行き止まり、広い空間、狭い抜け道。一歩ごとに白い地図が埋まっていく。
二匹目のラット上位種が通路の合流地点にいた。正面から来る。
今度は最初から速度を上げた。踏み込んで低い姿勢から右の短刀を振り上げると、ラットが横に跳ぶ。左の短刀で追って当たった。腹を裂いて煙になる。
倒せる。でも余裕はない。一匹ずつなら何とかなるけど、二匹同時に来たらきつい。
(スモーク)が使えたら、と思った。片方の視界を切れれば、一匹ずつ処理できる。でも今の僕の煙は形にならない。使ったら自分の視界も切れる。味方を巻き込む煙は、ソロでも邪魔だ。
使えない。まだ。
三匹目、四匹目と倒し、少し奥で五匹目と当たった。そこから先は、慎重に避けながら地形だけ確認した。戦闘を増やしすぎると疲れる。初日は無理をしない。
時間が経つにつれて、3層の空気に体が慣れてきた。最初の重さが薄れる。足が軽くなる。2層が庭になったときと同じだ。何度も来れば、ここも慣れる。
気づけば、だいぶ時間が経っていた。そろそろ戻ろう。
帰り道はミニマップの線をたどればいい。自分で引いた線だ。迷うはずがない。3層から2層へ。2層から1層へ。階段を上がるごとに空気が軽くなる。
地上に出た。
入口付近にはまだ人がいない。夜明け前の薄暗い空。冷たい空気。誰にも会わなかった。
腰の袋には魔石が入っている。数えてみると、十三個。全部3層のもの。ドロップ品も何個か出たけど、牙とか皮とかかさばるものばかりで袋に入らなかった。魔石を優先して、残りは置いてきた。
少し眠い。でも体は動く。
午前の配達をこなす。乾物屋、パン屋、職人通りの奥。いつもの道をいつもの速さで走る。少し眠いけど、五年間走ってきた体が勝手に動いてくれた。
配達を終えてから、エリアナの店に向かった。裏路地の奥。苔の壁。古い扉。
「すみません」
「どうぞ」
中に入ると、いつもの匂い。エリアナがカウンターの奥にいた。
魔石を全部カウンターの上に出した。十三個。3層の魔石が並ぶ。
「あら。もう持ってきたの?」
「はい」
エリアナが魔石を一つずつ手に取って確認する。色、大きさ、重さ。商人の目で見ている。
「3層のものね」
一目で分かるらしい。
「魔石だけ? ドロップ品は?」
「かさばるから置いてきました」
「もったいないわね」
もったいない。分かっている。牙や皮にも値がつく。素材として売れる。でも一人だから持てる量に限界がある。魔石だけで袋がいっぱいだった。
「夜に行ったの?」
「……なんで分かるんですか?」
「顔に出てるわよ。寝てないでしょう?」
全部見透かされている。この人にはかなわない。
エリアナが魔石の計算を終えた。
「全部で420ロアね」
ギルドの買い取り所なら、たぶんもう少し高い。でもギルドに出せないものだ。420ロアは十分ありがたい。
でも、僕が本当に欲しいのは金じゃなかった。
「エリアナさん」
「何?」
「この魔石で……煙のヒント、買えますか?」
エリアナが僕を見た。少しだけ笑った。優しい笑いではなかった。現実を知っている人の笑い。
「無理ね」
「……」
「一流の魔法使いに講師を頼んだら、大金貨一枚でも安いのよ。魔法の制御は技術。技術を教えられる人間は少ない。だから高い。あなたの魔石では、講師の一分も買えないわ」
大金貨一枚。50,000ロア。今日稼いだ額の百倍以上。
重かった。
金で解決できない。自力でも壁にぶつかっている。じゃあどうすればいい。
「……どのくらい稼げたら、ちょっと教えてもらえますか?」
聞いてから、図々しいかもしれないと思った。でもエリアナは嫌な顔をしなかった。指先でカウンターを軽く叩いて、考えている。
「そうね。金貨一枚で次のヒント」
10,000ロア。今日の稼ぎの二十倍以上。かなりかかる。でも、見えない額じゃない。
「特別にちょっとの間だけ見てあげるなら、大金貨一枚」
50,000ロア。初級魔法書と同じ値段。途方もない。
「高いですね」
「安いわよ。一流の講師ならこの何倍も取る。私は商人だから、まけてあげてるの」
まけてあげてる。この人が言うと、本当にそうなんだろうと思えてしまう。
「魔石は貯まるまで預かってあげるわ。うちで保管しておく」
「預かる?」
「毎回換金していたら、小銭ばかり増えるでしょう。まとめて貯めておいたほうが分かりやすい」
「……助かります」
「手持ちが欲しいときは言いなさい。その分だけ換金してあげる」
全部取引だった。全部ビジネス。善意で教えるとは言わない。善意で預かるとも言わない。あくまで商人と客。
でも、そのおかげで目標が見えた。
金貨一枚。10,000ロア。次のヒント。
3層の魔石が一晩で400ロア前後。エリアナの買い取りは相場より安い。でもそれしか道がない。
10,000ロアまで、ざっと二十五日。約一ヶ月。
遠い。でも、見えない距離じゃない。
「ありがとうございます」
「お礼はいらないわ」
立ち上がりかけたとき、エリアナが言った。
「無理はしないでね。死んだら終わりよ」
穏やかな声だった。
ヨルグの「死んだら誰も助けに行けない」と重なった。同じことを、違う言い方で言っている。この街の大人たちは、みんな同じことを知っている。還らなかった人がいることを。
「はい」
店を出た。
午後の日差しが眩しい。少し眠い。でも頭の中で計算が回っている。
10,000ロア。金貨一枚。
毎晩3層に通えば届く。レベルも上がる。魔石も貯まる。煙のヒントにも近づく。全部が同じ方向を向いている。
「それしかない」は「道がある」ということだ。
帰って寝よう。午後は寝る。体力が残っていたら廃墟帯に行く。
夜になったら、また3層へ潜る。
白い地図を埋めに行く。
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