第21話
⸻
夜のアルヴェイン公爵邸は、普段よりも静かだった。
入学式前日。
屋敷の使用人たちは最終確認に追われているはずなのに、不思議と騒がしさはない。皆が「明日」という特別な日を大切に扱っているのが分かる。
リシェリアは自室の窓を開け、夜風を迎え入れた。
春の匂いがする。
新しい始まりの匂い。
「……本当に、ここまで来ましたのね」
自然と声が零れる。
半年前。
前世を思い出した日。
破滅の未来を知り、冷静でいようと決めたはずだったのに——本当は、怖かった。
扉が控えめにノックされた。
「入っていい?」
聞き慣れた声。
「どうぞ」
フィアナが顔を覗かせる。
手には毛布と菓子皿。
「今日は一緒にいようと思って」
「予想しておりましたわ」
「え、分かってた?」
「あなたはこういう日に一人にしませんもの」
フィアナは照れたように笑い、部屋へ入る。
二人は窓辺に並んで座った。
しばらく、何も話さない。
沈黙が心地いい。
「ねえ、リシェ」
「なんですの?」
「もし転生してなかったらさ」
少し迷うような声だった。
「私たち、敵同士だったのかな」
夜風が揺れる。
遠くで鐘が鳴った。
リシェリアは少し考え、首を横に振る。
「いいえ」
即答だった。
「きっとどこかで友人になっていましたわ」
「そんな保証ある?」
「あります」
穏やかに笑う。
「あなたは、人を好きになる才能がありますもの」
フィアナは目を丸くしてから、小さく笑った。
「それ、初めて言われた」
「事実です」
少し間を置いて、フィアナが呟く。
「怖くない?」
「何がですの?」
「明日。原作の始まりの日」
正直な問いだった。
リシェリアは夜空を見上げる。
星が静かに瞬いている。
「以前は怖かったですわ」
本音を口にする。
「ですが今は違います」
視線を隣へ向けた。
「未来は、もう決まっていないと知っていますから」
フィアナが頷く。
「うん。私も」
二人の肩が軽く触れた。
それだけで安心できる。
⸻
同じ頃。
王宮の一室。
アルヴィンは書類を閉じた。
机の向かいにはセシル。
「本日はこれで終わりにしましょう」
「まだ残っている」
「明日寝不足で入学式に出席なさるおつもりですか?」
静かな圧だった。
アルヴィンはわずかに沈黙し、ペンを置く。
「……合理的ではないな」
「ええ」
セシルは微笑む。
「殿下が楽しみにしている日ですから」
アルヴィンは否定しなかった。
窓へ歩み寄る。
王都の灯りが広がっている。
「すべて準備は整ったか」
「ええ。問題になり得る要素は排除済みです」
社交界。
王族。
学園関係者。
すべて調整済み。
半年間の積み重ね。
「……彼女は安心しているだろうか」
小さな呟き。
セシルは少しだけ柔らかい声で答えた。
「殿下がいる限り」
「そう願う」
それは命令ではなく、願いだった。
⸻
深夜。
公爵邸の庭園。
リシェリアは一人、外へ出ていた。
眠れなかったわけではない。
ただ、確かめたかった。
ここまで歩いてきた時間を。
石畳を踏む音。
背後から足音が近づく。
振り返らなくても分かった。
「眠れないのか」
「少しだけ」
アルヴィンだった。
自然に隣へ並ぶ。
沈黙。
けれど気まずさはない。
「明日ですわね」
「ああ」
短い会話。
だが十分だった。
リシェリアは小さく息を吐く。
「原作では、ここからすべてが崩れ始めました」
「だが今回は違う」
迷いのない声。
「君は一人ではない」
視線が重なる。
その言葉は、何度聞いても胸に残る。
「アルヴィン様」
「どうした」
「もし、未来がまた変わったとしても」
少しだけ言葉を選ぶ。
「私は選び続けます」
彼は頷いた。
「なら私は」
そっと手を取る。
「その選択を守り続ける」
指先の温もり。
約束は、もう言葉にしなくても伝わる。
遠くで夜明け前の鳥が鳴いた。
新しい一日が始まろうとしている。
原作の始まりの日。
けれどそれは、破滅の始まりではない。
選び直した未来の、最初の一歩。
二人は並んだまま、静かな空を見上げていた。




