第15話
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アルヴィン・クラウゼルは、基本的に感情を表に出さない人間だ。
そう評価されることに、異論はなかった。
幼い頃から王族として育てられ、感情より判断を優先するよう教えられてきた。
正しいこと。合理的なこと。国益に沿うこと。
それが常に最優先。
――少なくとも、彼女に出会うまでは。
「殿下、報告書を。」
執務机の前で、セシル・ヴァルディエが淡々と書類を差し出す。
アルヴィンは目を通し、短く息を吐いた。
「……予想以上だな。」
「はい。」
セシルは微笑みを崩さない。
「社交界の噂発生率、約六割減少。特定個人への中傷はほぼ消滅しています。」
原因は明白だった。
リシェリア・フォン・アルヴェイン。
彼の婚約者。
「令嬢一人が社会構造を変えるとは。」
「殿下は驚いていないご様子で。」
「驚いている。」
アルヴィンは書類を閉じた。
「だが、納得もしている。」
彼女ならやる。
理由は単純だ。
彼女は、未来を恐れていない。
未来を――選ぼうとしている。
「……殿下。」
セシルがわずかに声音を変えた。
「最近、表情が柔らかくなりましたね。」
「そうか?」
「ええ。以前なら“政治的成果”と評価して終わっていたでしょう。」
アルヴィンは少し考え、否定しなかった。
確かに違う。
今回の改革を見て最初に浮かんだ感情は、分析でも評価でもない。
――誇らしい。
だった。
「彼女は、自分のためだけに動かない。」
ぽつりと呟く。
「誰も傷つかない方法を探す。」
それは、権力者ほど難しい選択だ。
効率だけを求めれば、切り捨ては早い。
だが彼女は違う。
全員が残る未来を選ぶ。
「だから守りたくなるのですね。」
セシルの言葉に、アルヴィンは即答した。
「違う。」
一拍。
「守る必要がないほど強い。」
それが事実だった。
剣も魔法も使わないのに、彼女は状況そのものを変える。
なら自分の役割は何か。
アルヴィンは立ち上がった。
「外出する。」
「……予想通りです。」
セシルは苦笑した。
「アルヴェイン公爵邸ですね。」
否定しなかった。
馬車が石畳を進む間、アルヴィンは窓の外を眺める。
王都の空気が穏やかだ。
以前より、人々の表情が柔らかい。
噂に怯えない社会。
それは小さな変化のようで、実は大きい。
(君が変えた。)
胸の奥が静かに温かくなる。
公爵邸に到着すると、使用人たちは慣れた様子で彼を迎えた。
案内を断り、庭へ向かう。
そこに彼女はいた。
リシェリアはフィアナと何か話しながら笑っている。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥にあった緊張がほどけた。
――帰ってきた。
ふと、そんな感覚になる。
「アルヴィン様?」
彼女が気づき、目を瞬かせる。
「どうしたの? 今日は予定――」
最後まで言わせず、彼は歩み寄った。
「会いたくなった。」
フィアナが静かに視線を逸らし、さりげなく退場する。
気遣いがありがたい。
「……急ね。」
リシェリアは少し頬を染めた。
「仕事は?」
「終わらせた。」
正確には、終わらせてきた。
彼女に会う時間を作るために。
アルヴィンは彼女の隣に立つ。
春風が髪を揺らした。
「社交界、落ち着いたな。」
「ええ。思ったより早かったわ。」
「君だからだ。」
即答に、彼女が困ったように笑う。
「買いかぶりすぎよ。」
「いいや。」
アルヴィンは静かに首を振った。
「君はいつも、最善を選ぶ。」
少しだけ沈黙。
彼女は視線を落とした。
「……怖くないわけじゃないのよ。」
小さな声だった。
「未来が変わらなかったらって、時々思う。」
その言葉に、彼は迷わず答える。
「変わる。」
断言だった。
「なぜなら、君が諦めないからだ。」
リシェリアが目を見開く。
アルヴィンは続けた。
「もし運命が残っていたとしても。」
そっと手を取る。
「その時は、私が壊す。」
王族としてではない。
婚約者としてでもない。
ただ一人の男として。
彼女の未来を望む者として。
リシェリアはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……ずるいわね。」
「何がだ。」
「そんなふうに言われたら、頑張るしかないじゃない。」
アルヴィンもわずかに笑う。
それでいい。
彼女が前を向けるなら、それでいい。
遠くで春の鐘が鳴った。
学園入学まで、あと少し。
原作では破滅へ向かうはずだった時間。
だが今は違う。
未来はもう、決められたものではない。
選び続けるものだ。
そして彼は知っている。
どんな未来でも――
自分は彼女の隣にいる。
それだけは、絶対に変わらない。




