【第169話 坂本】
200X年。愛知県小牧市。
坂本という五十歳の独身男性が、安アパートの一室で、ただひたすら飢えに苦しんでいた。
「腹が減った……」
声にすらならない呟きが、誰もいない部屋に落ちて消えた。
◆
坂本は高校を卒業してすぐ、誰でも入社できる有名自動車メーカーの季節労働者として、非正規雇用で働き始めた。
高卒で非正規雇用に就くと、当時はそれなりに高待遇で迎えられた。慰労金も満額でもらえ、周りの同級生よりも金の羽振りは良かったくらいだ。成人式にも、少し無理をして買った車で乗りつけた。それくらいには、金にも仕事にも困ったことがなかった。
半年契約を切られても、次の仕事にはすぐありついた。半年働いて、失業保険をもらって、それが切れる頃にはまた次の季節労働か派遣の仕事が拾ってくれる。坂本はそういう生活を、特に疑うこともなく続けていた。
そんな青年期を過ごしていた坂本は、四十歳になる頃、いつの間にか同級生達に年収を抜かれていることに気づいた。それでも、まだ何とかなると思っていた。
だが、四十を過ぎた頃から、坂本は契約が切れるたびに「次の仕事が本当にあるのか」がわからなくなっていった。だから今度は、切れかけの契約を必死に繋ぎ止めるようになった。季節労働や派遣は、勤続年数が増えたところで給料が上がることは滅多にない。気づいた時には、もう手遅れだった。
誰にでも出来る仕事しか、してこなかった。何のスキルも、身につかなかった。
そんな三十年を過ごし、坂本が五十歳を迎えたとき――ついに契約は更新されなかった。
それでも坂本は、まだ焦っていなかった。失業保険を貰いながら、ゆっくり次を探せばいい。そのくらいの気持ちで、坂本はハローワークに通い続けた。
◆
そして、失業保険の最終月。
「坂本さん。今月で失業保険の給付は終わります」
窓口の職員は、事務的にそう告げた。
「は? もう!?」
「はい。次回が最後の給付となります」
坂本はそこでようやく、自分が費やしてきた三十年の意味を、初めて理解した。
その日から、坂本はハローワークにも行かなくなり、安アパートに引きこもった。
「かろうじて貯金はまだある。何とかなる」
そう自分に言い聞かせて、坂本は求人情報誌を頼りに片っ端から派遣会社へ登録した。
だが、坂本のもとに回ってくる仕事は、以前のような工場勤務ではなくなっていた。交通誘導。倉庫の仕分け。日雇いのアルバイトのような仕事ばかりが、細切れに続いた。
そのうち坂本は、仕事にすら行けなくなった。
身体がだるい。布団から出られない。トイレに立つのも一苦労になった。
何かの病に、身体を蝕まれていたのだ。
◆
倦怠感は、二ヶ月も続いた。
手持ちの金は底をついていたが、坂本は銀行に行くことすら出来ず、ただ安アパートの一室で、毎日布団に横たわるだけの日々を過ごした。
二ヶ月も寝たきりになると、まず携帯電話が止まった。次に、電気が止まった。それでも坂本には、寝ていることしか出来なかったので、電気がなくても何とか耐えられた。愛知県小牧市の冬は、電気がなくてもぎりぎり生きていける。
(身体さえ良くなれば、銀行に行ける。貯金は、まだ残ってるはずだ)
そう考えていた矢先、ガスも止まっていることに気づいた。
「クソッ……お湯が沸かせない」
カップラーメンの買い置きは、まだ大量にあった。だがガスがなければ、湯を沸かすことすら出来ない。
せめて、まともな職場に籍があれば――二ヶ月も無断欠勤すれば、誰かが様子を見に来てくれたかもしれない。だが、坂本は日雇いの仕事しかしていなかった。毎日、違う現場。見知った顔は、誰一人いない。坂本が突然消えても、気づく者はいなかった。
◆
飯も食わず、寝たきりのまま、坂本は数日間を過ごした。
ふと、坂本は思い出した。
「あれ……? 俺、ここ数日、水も飲んでないな……」
このままでは死ぬ。そう思った坂本は、布団から起き上がって水道まで這っていこうとした。だが、もう身体は、立ち上がることすら拒んでいた。
「ヤバい……立てない。救急車……」
携帯電話は止められていても、119番と110番だけは繋がると聞いたことがあった。坂本は震える手を電話へ伸ばしたが、充電はとっくの昔に底をついていた。
そこで坂本は、悪あがきをやめた。
(このまま、死のう。明日の朝、目が覚めたら死んでるかもしれない。……こんな孤独死が、俺の死に方には、案外お似合いなのかもしれないな)
その日から坂本は、ただ死を待つだけの、寝たきりの日々を過ごすことになった。
◆
だが、残酷なことに――坂本は、なかなか死ねなかった。
喉の渇きと空腹が、内臓を内側から暴れさせた。眠っていても、目覚めていても、地獄の苦しみだけが延々と続いた。
(そういえば……餓死が、一番辛い死に方だって聞いたことがあったな)
地獄のような苦しみの中で、坂本はこれまでの人生を恨んだ。
(嗚呼……俺は、何も悪いことはしていないのに。どうして、こんな苦しみを味わってるんだ?)
(どこで、間違えたんだろう。……いや、最初からだ。皆が就活だ、進学だって真面目にやってた時に、俺は遊んでたんだ)
(でも……だからって、地獄よりも辛い死に方を用意してくる、この世の中って、一体何なんだ? 政治が悪いのか? 俺が悪いのか?)
誰も恨みきれないまま、坂本は飲まず食わずのまま、約二週間、その苦しみに耐え続けた。
坂本が覚えているのは、そこまでだった。
二週間目には意識を完全に失い、それから三日後――心停止。
誰にも看取られることなく、坂本は独りきりで、その生涯を終えた。
はずだった。
◆
次の瞬間、坂本は見知らぬ母親に抱かれた、赤ん坊の姿に変わっていた。
目の前の母親の乳を、坂本は本能のままに飲んでいた。この頃はまだ、意識はあっても本能には逆らえない時期で、坂本自身、何が起きているのかまるでわかっていなかった。異世界転生した事実にすら気づかないまま、坂本は両親の愛情を一身に受けて、すくすくと育っていった。
それから二年後。坂本はようやく、本能に支配されない精神力を取り戻していた。
(これが……異世界転生ってやつか)
坂本が生まれ落ちたのは、コナ国という、法も秩序もない土地だった。
父親は勇猛な戦士で、いつもどこかから金品や食料を奪って帰ってきた。母親はかつて魔道士だったが、出産後は母親業に専念していた。
(日本とは大違いだ。欲しいものは、力ずくで奪っていい。……悪くないな。これが自然の姿だ。弱肉強食の世界。ここでなら――俺は、今度こそやれる気がする)
坂本は、母親から魔法を学ぶことを決めた。
「ママ、魔法を教えて!」
わずか二歳の坂本がそう言い出したので、母親は感激した。
「僕ちゃん! アナタは天才でちゅか? 魔法を覚えたいの? 良いわよ。私がアナタを、天才魔道士に育て上げるわね!」
その日から、母親は熱心に坂本へ魔法を叩き込んでいった。母親譲りの才能があったのか、坂本は簡単な魔法を、次々と自分のものにしていった。
◆
坂本が生まれた頃のゾーンの地は、第三十四代目のゾーンが亡くなったばかりで、ボスを失ったことで少しずつ領土を奪われている時期だった。
「コナ国は放棄して、魔族領へ移動しよう」
そんな弱気な言葉を、大人達が交わしているのを、幼い坂本は何度も耳にした。せっかく力だけが正義になれる自由な国に生まれてきたというのに――わずか二歳にして、坂本はこの国の先行きの危うさを、知ってしまったのだ。
(この自由な国を脅かす奴らを、俺は許さない)
その日から、坂本はさらに必死で魔法を学び続けた。
月日が流れ、坂本が五歳の頃、妹のカリーナが生まれた。魔法の天才と呼ばれる兄の背中を見て育ったカリーナも、幼い頃から魔法に親しんでいった。MPの総量ではカリーナの方が坂本を上回っていたが、カリーナは兄ほど勤勉ではなかった。使いこなせる魔法の数では、坂本の足元にも及ばない。それでも幼い兄妹は、近所でも評判の天才魔道士として、周囲から一目置かれていた。
◆
そんな順風満帆な天才兄妹に、最大の悲しみが襲いかかったのは、坂本が十二歳、カリーナが七歳の時だった。
戦士タイプだった父親が、エジントン聖教国の聖騎士と揉め事を起こし、捕らえられて処刑された。賞金首だったこともあり、その処刑は公開の場で行われた。
それを知った母親は、父親を救い出そうと処刑場へ乗り込もうとした。それを止めたのは、まだ十二歳の坂本だった。
「母さん、行っても無駄です。……エジントンは、必ず俺が大人になったら滅ぼします」
その場に泣き崩れる母親の姿を、天才兄妹はその日、それぞれの胸に深く刻み込んだ。
それから、坂本はいっそう魔法を極めていった。
十五歳になる頃には、坂本はゾーンの中で最も強い男になっていた。
ゾーンとは、最強の者に与えられる称号だ。
坂本は、すべてのゾーンの民から認められ、第三十五代のゾーンを襲名した。
◆
新たなゾーンとなった坂本は、なぜか、二千年前の天才魔道士ヘブライが遺したと伝わるゲートの研究を始めた。
その研究には、数年の月日を費やした。研究を終えると、ゾーンは今度は北の魔族領にある小さな無人島へ移り住み、新たなゲートの開発に取りかかった。
そして、ついに月へ通じるゲートを完成させると――その日のうちに、ゾーンは月面を完全に支配してしまった。
月は、ゾーンにとって最高の場所だった。時の流れが、ほぼ止まっているのだ。月にいる限り、人は歳を取らない。
肉体はまだ若者のままのゾーンだったが、その精神は、前世の記憶も含めればとうに六十を超えていた。だからこそ、ゾーンは老いを恐れた。それが前世の記憶によるトラウマなのだと自分でもわかっていたが、それでも――老いだけは、どうしても怖かった。
いつしかゾーンは、滅多に下界へ降りなくなった。そして、コナ国にあるゲートの封印を解き、選び抜いた戦士と魔道士を、そのゲートから日本へと送り込むようになった。
それが、今なお続く、ゾーンと異世界ハンター達との因縁の始まりだった。
この日もゾーンは、月面で核ミサイルの到着をただ待ち続けていた。
その核ミサイルで、どこを攻撃するつもりなのか――それすらも、ゾーンは配下の誰にも明かしていなかった。
(第170話へ続く)




