第59話 新たな契約
終礼後のオフィス。
人の気配が少しずつ消えていく中で、キーボードの音だけが残っていた。
カタカタカタ……。
「おい、チル」
低い声が聞こえた。
椅子に座ってパソコン入力しているわたしの後頭部の上のほう。
「何時までやってんだ。早く帰れ」
「は、はい……あとちょっとだけ、あと10分で帰ります」
振り向くと、オクト部長が腕を組んで立っていた。
「1時間前も同じこと言っていたな。お前、スケジュール管理、どうなってんだ。残業は許さん。帰れ」
「はい……すみません」
ヒェ~……
こわっ!
オクト部長が眉をひそめた。
「聞こえなかったのか」
「聞こえました」
「なら帰れ」
「帰ってもいいんですけど……」
ここで、言いたい言葉が出て来ない。
「……何だ」
「帰っても、家でどうせまた会うし……」
「当たり前だ。同居している」
「でも……なんか、その……」
うまく言えない。
胸の奥が、もやもやする。
わたしは、机の端を指でなぞりながら、小さく言った。
「何か……その……、最終試験の報酬ですが……まだきちんといただいていません。そりゃ、試験は取り消してとは言いましたが……。
あ、すみません。今さら言うことじゃないですよね」
「……は? 俺の気持ちと報酬なら、すでに付与済みだが? ほら、屋上で」
「ぜ、全然ですよっ!」
オクト部長の気持ちは、伝わってないとは言わないけど……、
それっぽい言葉が欲しかった。
「好きだ」とか「付き合おう」とか、
漫画や小説にでてくるような、ジュテーム・モード。
そういう言葉を、一度も言ってもらってない。
でも、はっきり部長にお願いするのは、どうかと思うし……。
オクト部長の動きが、ぴたりと止まった。
沈黙。
オフィスの蛍光灯が、じん、と音を立てている気がした。
オクト部長は、しばらく無言だった。
そして――
「……なるほど」
ぽつりと、つぶやいた。
「現状レベルの報酬では生ぬるいということか……」
「え?」
「ならば、信用に足る行いをせねばな」
「また行動が先ですか? 行動よりも……」
次の瞬間、オクト部長はデスクに歩み寄り、書類トレーの中から白い封筒を取り出した。
「結論から言う」
まただ。
この悪魔、また何か始める気だ。
「俺は、お前との関係を継続する意思がある」
「いや、それは……知ってます」
「理由は三つある」
「そこの説明は結構です!!」
わたしは思わず叫んだ。
「そういうのじゃないんです!」
「では、どういうものだ」
「だから……その……」
うまく言葉にならない。
もういいや。
オクト部長は、じっとこちらを見ていた。
そして、ゆっくりと封筒を差し出した。
「……では、新たな契約書を授けよう」
「え? また契約」
オクト部長は、封筒から書類を取り出して、ホワイトボードに貼り付けた。
――婚姻届!
……数秒、思考が止まった。
「契約って言わないでーーー!」
オフィスに、わたしの声が響いた。
オフィスの会議用モニター大画面に、パワーポイントで作った資料が写った。
オクト部長は、机を叩き、気迫を込めて力説した。
ばんっ!
「なお、この契約のメリットはこの通り!
メリット
・アフター5の安らぎ
・人間界での豊かな暮らし(高収入)
・成長できる環境
(永続的に課題と指導が受けられる)
・災害時の生存率100%
(絶対守る)
以上、充実したライフプランを保証する!!」
プレゼン?!
パワポ使って、資料まで準備してたの?
わざわざ、このために……
「最も合理的な形だろう……、どうだ、これで伝わったかな?」
オクト部長の顔は、なんだか照れている。
婚姻届をもう一度見た。
名前欄。
オクト部長の字は、無駄に綺麗だった。
(ま、いっか)
胸の中で、力が抜けた。
(好きって、ひとこと欲しかっただけなのに……)
思わず、クスっと笑いがこぼれた。
目の前の部長は、不器用なりに、全部出してる。
逃げないで、向き合ってくれてる。
それだけで、十分な気がした。
オクト部長らしいなぁ……
「そういうとこ、“割と好き” ですよ」
「え? それって、課題のロジックツリーに……」
「……で、これ、いつ出すんですか?」
オクト部長は、即答した。
「今だ」
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
なんで、部長っていつも急なの?
「印鑑も必要ですし!」
「用意してある」
「用意してるんですか!?」
「当然だ」
「怖いです!!」
オクト部長は、少しだけ口元を緩めた。
ほんの一瞬だけ。
「チル」
「はい?」
「後悔はさせない……絶対に」
その言葉は、まっすぐだった。
わたしは、少しだけ視線をそらした。
顔が、熱い。
「……それ、ずるいです」
「何がだ」
「そういうところです」
オクト部長は、意味がわからないという顔をしていた。
ほんと、この悪魔は……。
でも、いいや。
わたしは、小さく笑った。
「帰ります、部長」
「ああ」
「こんなところに婚姻届貼って帰ったら、翌日大騒ぎですよ……ちゃんと回収してください」
「無論だ」
「でも、今日は出しませんからね!」
「……検討する」
「もう!!」
オフィスの電気を消して、二人で外に出た。
夜風が、少しだけ暖かい。
オクト部長の背中を見ながら、わたしは思った。
言葉なんて、なくても……
じゅうぶん伝わった。
部長は、ちゃんと全部わかってくれている。
だから、あんなプレゼン資料を用意してたんだ。
あはは……
「何をニタニタしている」
「ニタニタなんかしていません」
「していた。どうせまた、今晩のご飯は何がいいかなーだろ」
「違います」
「じゃ、何だ」
「秘密です」
「おい、何だ。隠し事かぁー?」
「さあねー、何でもいいじゃないですか」
わたしは笑いながら、先を急ごうとした。
だけど、後ろからギュッっとハグされた。
え?
部長の声が近い。
「……何でもよくない」
「えっと……」
「早くこうしたかった……。俺が何のために早く帰れと言ったと思ってる? 会社じゃできないだろ」
「え? そういう魂胆?」
わたしの大好きな部長は、言葉より先に、行動で示すタイプだ。
「家に帰ったら、もう一回プレゼンする」
「公私混同ですよ」
「今さら、言うか」
オクト部長の意地悪な視線が、ちょっとかわいいと思った。
「友達契約は終わったが、プライベートでは、ビシバシ指導してやるからな」
「……望むところです!」
わたしたちは、家路を急いだ。
これからも、二人で帰るあの部屋へ。
——たぶん、この先もずっと。




