第55話 出社します
就活していた頃を思い出して足が震えていた。
わたしが、この会社に面接に来た日も緊張で震えて、早く帰りたいと思ったものだ。
今日の緊張は、あの日の面接と違う。
昨日、オクト部長に嫌われて、早く帰れと言われた。
けれども、わたしは出社を選んだ。
ここで休んだら、もう二度と行けなくなる気がしたから……
会社のエントランスロビーで、ゆっくりと一歩を踏み出した。
オフィスの入り口まで来て、ちょっと立ち止まった。
やっぱり怖い。
怖いけど、逃げるのはもうやめる。
そーっと、中をのぞきこんだ。
いた!
いつものストイックな表情で、オクト部長は部下と会話中だった。
わたしは、自分を奮い立たせるように元気な声であいさつした。
「おはようございまーす!」
オクト部長が席を立って、こっちに向かって歩いてきた。
ひぇっ! 何?
また、帰れとか言われるの?
「チル、ちょっといいか?」
「はい」
「昨日、お前の資料をチェックしたが、こことここが間違っている。それに読みにくい」
「はい、すみません」
少し安心した。
ということは、今日は仕事していいらしい。
安心ついでに、わたしは調子に乗ってしまった。
「部長、始業時間の前なので、質問いいですか?」
「質問?」
「ゆうべはここに泊ったんですね」
「バカ、そんなプライベートな質問を……」
「だから、始業前に聞きました。……ですよね」
「なぜ、わかった。そんなに乱れているか?」
オクト部長は、あわてて髪を手で整えた。
「天井ですよ」
「え? 天井?」
オクト部長は、天井を見上げた。
「天井に、部長の靴の足跡が付いてます。あそこで逆さづりになって、寝てたんですよね」
オクト部長は、ふっと視線をそらした。
あれ? おかしい。
いつもならここで、
『よけいなお世話だ』
『小賢しいことを言うな』
『勝手な推論はするな』
と、くどくどとお説教タイムになるのに……。
そこへ、タルト先輩が出社してきた。
「おはようございまーす」
「おはようございます。タルト先輩」
「おはようねー、チルちゃん」
オクト部長のメガネの奥が光った。
「おはよう、タルト。わざわざチルと出勤時間をずらして、出社か」
「部長、何を言ってるのか、ちょっと意味わかんないすけどー」
「ゆうべは、俺の家に泊ったんだろ。忠告したはずだ。チルには手を出すなと……」
オクト部長?
いくら始業前でも、凄―くプライベート過ぎませんか、その話……。
だけど、タルト先輩は全面否定した。
「あの……お言葉を返すようですが、僕、ゆうべ、部長の家に行っていませんよ」
「嘘つけ」
「……まぁ、正確に言うと……行こうとしましたが、Yoshielさんから止められました。チルちゃんをそっとしとけって」
「そうか、……悪かった」
部下を疑った自分が恥ずかしいのか、オクト部長は視線を合わせないまま、
そのまま背を向けて、営業フロアから出て行った。
その後ろ姿を見送りながら、タルト先輩はつぶやいた。
「なんか、様子が変じゃね? 部長、あんな人じゃなかったよね」
「悪魔ですが……」
「あんな悪魔じゃなかったよ」
朝礼の時間になっても、オクト部長は戻らなかった。
営業部のみんながざわざわし始めた。
そこへ、本部長が顔を出した。
「もう、朝礼時刻だよ。ざわざわしちゃってどうしたの? おっと、ここは元々騒々しい部署か」
誰かが、本部長に相談した。
「オクト部長が、さっきまでいたんですが……、席を外してから、まだ戻らないんです」
「ホワイトボードの行動予定表は? 確認したかね?」
わたしは、オクト部長の予定が書いてあるところを読み上げた。
「探さないでください。オクト」
家出の書き置きかよ!
「いやん、これ、ちゃんと今日の日付で書いてあります。朝一番で書いたの?」
動揺するわたしの肩を本部長、ポンポンと叩いた。
「大丈夫、わたしが朝礼するから。それと、朝礼が終わったら、チルさん、ちょっと面談しようか」
「はい……」
怖い。
何気ない、ボディーランゲージ、やめてほしい。
面談って、きのうのコンプライアンス部のことかな。
ああ、これってクビになるって意味?
*昨夜、部長のマンションで
マンションの部屋に、わたしはひとりだった。
いつも、オクト部長は残業で帰りが遅い。
だから、今日もそのパターンだと思っていた。
でも、遅くなりますメールも、終礼の電話も来ない。
「嫌われちゃった……」
今までも、部長が出張中でわたし一人の日はあった。
そんなときは、毎晩必ず電話してくれたのに……。
オクト部長の気配もない部屋。
こんなに広かったっけ……この部屋。
怖いなぁ。
「なんで、嫌うのかな」
わたしのロジックツリー。
“ずっとそばにいたい”=“隣に立ちたい”
無理かと思ったのに、
『やってみろ。お前が本気なら……俺が引き上げる』
そう言ってくれたくせに。
(嘘だったの?)
わたしは、ぼんやりとオクト部長の背中を思い出した。
あの背中についていきたい。
あした、ちゃんと出社しよう。
*そして、現在の小会議室
せっかく、勇気を出して出社したのに……
オクト部長に避けられるわ、
本部長に面談と言われるわ。
終わった……きっと、わたしは魔界で処刑されるんだ。
小会議室で、机をはさんで本部長とわたしは座っていた。
「チルさんね……」
「はい」
「……見つかった?」
「え、何がでしょうか?」
本部長は、私の質問にすぐに答えず、紙袋をゴソゴソさせている。
「自分で選びたいもの」
「はい?……」
「採用面接の時、別に目標は無いって言ってたでしょ。それ、見つかった?」
本部長は、あんパンの袋を開けた。
焼きたてパンの香ばしい匂いが広がった。




