第48話 危機感なしの小動物(オクト)
チルは化粧室から出て来た。
さっき、約束した待ち合わせ場所とは違う場所で、彼女は立ちどまった。
……何やってるんだあいつ。
間違っているのは、お前だ。
声をかけようとして……やめた。
キョロキョロしていて、なかなか面白い。
まるで、落ち着きがない小動物だ。
その様子が可笑しくて、思わず笑いをこらえた。
プッ
……かわいいやつだ。
面白くて、出て行けねー。
あれは、ガゼルじゃない、プレリードッグだ。
ここはサバンナではない、北米の草原地帯だ。
面白れぇ……
チルの様子を楽しんで見ていると。
「?……妙だ」
一瞬だけ、時空が止まった。
「さっきの人の流れ……」
人の流れが止まり、その中から視線を感じた。
ノイズだ。
それは、ひとつではない……。
同じ位置に、ノイズの発信者がいる。
「監視か……?」
数秒後には、人の波が再び流れだした。
元の時空に戻ったのだ。
だが……
さっきまでいた場所に、チルの姿はなかった。
「まずい。見失った!」
もしかしたら、粧室に戻ったと思い、人をかけ分けて中に入った。
「キャー――!!」
「キャー! 変態よーーー!」
「男が入って来たーーー!」
「警察、呼ぶわよー!」
「失礼……」
失敗した。
つい心配で、女子トイレに入ってしまった。
女たちの悲鳴が響く。
急いで俺は、女子トイレから退散した。
ふぅ……
いや、一安心している場合ではない。
チルを探さないと……。
「チル……どこだ」
――視界から外れた。
いや、見失った。
俺としたことが……。
呑気に、チルの様子を見ながら楽しんでいた数秒前の自分を、殴ってやりたい。
全神経をチルの存在を探すために、研ぎ澄ました。
あのとき、人の流れが、途切れた。
……今は、流れが戻っている。
誰かの荷物に、俺の足が当たった。
もしかして、その荷物の中に……
……違う。
そんな単純な話じゃない。
いない。どこにもいない。
なんということだ。
あり得ない。
あいつが、俺の視界から消えるなど……。
待て、落ち着け、俺。
何が起きたのか、物事を順序だてて組み立てるんだ。
その、一瞬の歪み。
そのとき、人の流れが止まったように感じた。
気のせいか?
周りに不審な動きをする者はいなかったか?
……落ち着け。
気のせいじゃない。
あの一瞬の“途切れ”。
あれは、誰かが、意図的に作ったのだ。
マズい。
草原地帯でプレリードッグを見失った……
これも、意図的に操作されていたのか。
俺はふと思い出した。
そうだ。
スマホがあるじゃないか。
これで、電話すればいい!
さっそく、スマホを取り出して、チルを呼び出した。
トゥルルルル……、トゥルルルル……、トゥルルルル……、
3回コールしても出ない……。
おかしい……。……長い。
こんなに長かったか?
「はーい、部長! チルでーす。今、どこにいるんですかぁー?」
呑気なチルの声が聞こえた。
俺は、へなへなとその場にしゃがみこんだ。
「おい、電話は、コール2回以内に出ろと教えたはずだ。3回鳴ったぞ」
「あぁ、えっとー……着メロなんで、何コールかはわからないですー」
「ずいぶんと呑気だな。お前、今、どこにいる」
「ええー? 部長こそどこにいるんですかぁー?」
このプレリードッグ……危機感がゼロだ。
俺が、スマホで話していると、ふと視界の端に100円ショップが見えた。
いた。
100円ショップの前で、
あいつは何事もなかったように立っている。
「もしもーし、部長。今、どこですかー?」
「ここだ。お前の真後ろだ。危機感のない草食動物め、ここで何をしている」
「えええー?! 部長がはぐれたから探してたんですよ」
「100円ショップに、俺がいると思ったのか? 俺のクオリティは100円か」
「えへへへ」
「もう帰るぞ。草原地帯から家に帰る。地上は危険だ。空を飛ぶぞ」
「えええー? もう、帰るんですかぁ? もうちょっといたかったなぁ」
俺だって、このおもしろい小動物を眺めていたい。
だが、確かにここは、危険な匂いがする。
その日の夜、自宅。
新しいメガネをかけてみた。
「うわぁ、部長、素敵! やっぱりそれにしたんですねー」
「お前、鼻血出すなよ。……これが一番いいと思って……お前が選んだデザインだし」
チルは、満足そうな顔でうなずいた。
「あれ? 部長、もうひとつ袋、ありますよ。この紙袋は?」
「ああ、それは……俺がお前に見立ててやった」
「何ですか? あれ、もしかして、リップグロスじゃないですか?!」
「よくわかったな」
「箱でわかります。ひょっとして……これ買いに行って、迷子になってたんですか? 部長」
「バカ、違う! 俺は迷子になってない。これは、お前が化粧直ししている間に……」
「で、でも……」
「なんだ、嬉しくないのか」
「いいえ、嬉しいです。でも、こういうのって、あまりお友達とか、ましてや上司と部下では、贈り物しないですよ」
「ふーん、そうか?」
「そう、普通……彼女とかに贈るものだから、わたしなんか受け取ったら変ですよ。彼女でもないのに……」
「変じゃない!」
「え」
「変じゃない。……それ以上でも、以下でもない。受け取れ!」
「はいっ、ありがとうございます!」
チルは、箱を開けてリップグロスを見ると、顔を輝かせた。
「すてきー! わたしの好きな色です。よくわかりましたね」
「……つけないのか?」
「え? つけていいんですか?」
「貸せ! 俺が塗ってやる……」
以前、遊びでしたように、俺はチルの唇にリップグロスを塗った。
軽く開いた唇に、コーラルピンクのグロスが色っぽい。
「あ、あの、部長……」
「まだ、喋るなよ」
「ん」
とてもきれいなチルに、俺は照れた。
「部長……こういうのもらったら、どうやってお礼したらいいのでしょうか?」
「いい質問だ。一番望ましいのは、そのリップグロスで俺にキスマークつけることだな」
「!!!……し、しませんよっ!」
「ハハハハハ、冗談だ。真に受けるな」
チルは怒って自分の部屋にこもってしまった。
まあ、いいさ。
こうして怒った顔を見るのも面白い。
無事に帰って来たからこそ……だな。
……だが。
あの“途切れ”は、気のせいじゃない。
確実に、誰かがいた。
……“あれ”は、
人の動きじゃない。




