第5話「小さな円環」
朝。
鍋の中でインスタントの味噌汁が湯気を立てる。
静かな台所に、ラジオの雑音混じりの声が流れていた。
『……ザー……本日、東北地方は午後から晴れ……ザー……気温は上昇し、蒸し暑くなる見込みです……』
断片的に途切れる天気予報は、かろうじて“外の世界”がまだ動いていることを知らせてくれる。
テレビは、一日に数回だけ短いニュースや天気予報が映るだけで、あとは砂嵐の画面が続いていた。
紫藤は湯気を見つめながら、ひとりごとのように息を漏らした。
「半年経っても、まだこんな調子か……」
ふと背後に気配を感じて振り返る。
銀髪の少女――しおゆりが、テーブルの椅子に腰を下ろしていた。
首の後ろから伸びたコードはノートPCに接続され、画面には診断ツールのウィンドウが並んでいる。
「うん、今朝も異常なしっと」
しおゆりは無言のまま、じっと紫藤を見ていた。
その瞳は静かで、感情の揺らぎはない。
けれど、不思議と“無関心”には見えなかった。
朝食を終えたあと、紫藤は散らかった書棚の前にしゃがみ込んだ。
昨夜、姉の痕跡を探そうと片っ端から引き出した本が、床に積み重なったままになっている。
「……散らかしっぱなしだな」
ため息をつきながら背表紙を揃え、本を棚に戻していく。
そのとき、ふとページの間から古びたアルバムが滑り落ちた。
手に取って埃を払うと、見覚えのある表紙。
紫藤は胸の奥がきゅっとするのを覚えながら、ページを開いた。
「……昔の写真か。懐かしいな」
気づけば、しおゆりもいつの間にか隣に来て、静かに腰を下ろしていた。
古びたページには、巫女装束に身を包んだ祖母の姿。
古い神社の前で、凛とした目をこちらに向けている。
「……これが、ばあちゃん。昔、近所じゃ“祈り屋”って呼ばれてたらしい」
次のページには、まだ学生服姿の母が写っていた。
柔らかく微笑む表情が、姉の面影にそっくりだった。
「母さんも巫女姿か。やっぱり家系なんだな……」
さらに進めると、親戚一同が赤ん坊を囲んで笑っている集合写真。
「わっ……これ、俺が生まれたときのやつだな。男の子が生まれたってだけで、ちょっとした騒ぎになったらしい。折籠の家はずっと女ばっかりだからさ」
その写真に、しおゆりは指先をそっと置いた。
表情は変わらず、淡々とした声で言う。
「あなたは、この家系において……例外的な存在」
「例外って……“特別”って言ってくれよ」
思わず苦笑しながらページをめくる。
しおゆりは無言でこちらを見つめ返した。
そこには感情の揺れはない。
けれど、不思議と“拒絶”でもなかった。
ただ静かに、紫藤の言葉を記録するように目を閉じた。
昼下がり、庭の花壇にホースを向ける。
真っ白な百合が揺れていた。
(……姉貴だろうな、これ植えたの。戻って来るまで俺が面倒みなきゃな……)
紫藤は水を注ぎながら、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
真っ白な花弁が夏の光を受けて揺れる様子は、どこか懐かしくて胸が締めつけられる。
気づけばしおゆりが静かに紫藤の隣に歩み寄ってきた。
「……母さんも、姉貴も、この花が好きだったんだ」
そのとき、ブゥン……と羽音が近づいた。
一匹の蜂が花へと舞い降りようとした瞬間――
しおゆりが素早く手を伸ばし、掴み取っていた。
「なにやってんだよ!」
紫藤は思わず声を荒げた。
「生き物を無闇に殺しちゃダメだ!」
しおゆりは小さく首をかしげる。
「……害虫では? 大切な花に損害が及ぶのでは──」
「違う。蜂だって、世界を巡らせる円環の一部なんだ」
少し熱を帯びた声で言った。
「蜂が蜜を吸うだろ。そうすると花粉がつく。そのまま別の花へ行って……また新しい命を生み出す。
花も蜂も人も……全部、共存しながら生きてるんだよ」
しおゆりは拳を開いた。
蜂は羽音を立てて飛び去り、百合の花に戻っていった。
「……はい。シドウ様……理解、してみようと思います」
「だから“様”は要らないって。俺のことは紫藤でいいよ。敬語もいらない、友達みたいに気楽に話してくれ」
短い沈黙ののち――しおゆりが口を開いた。
「……わかり、わかったわ。シドウ」
その瞬間、彼女の口元にわずかな弧が浮かんだ。
ずっと無表情だったその顔が、不思議と……誰かに似ているように見えた。
「……え?」
紫藤は思わず目を見開いた。
ずっと無表情だったはずのしおが、今、確かに笑った。
その笑みは一瞬で消えた。
けれど胸の奥が、じんわりと温かく満たされていくのを感じていた。
翌日。
冷たい風が吹く海辺を、紫藤はしおゆりと並んで歩いていた。
曇天の下、海は静かにうねり、遠くで白い波が崩れている。
「しおはさ……あのあたりで見つけたんだ」
鳥居が立つ砂浜を指さしながら、紫藤は口を開いた。
「いったいどこから流れてきたんだ?」
しおゆりは少しだけ首を傾げた。
「……覚えていない」
「だろうな。きっと、ここまで運んできたのは――姉貴だ」
思わず苦笑しながらつぶやく。
「ったく、全然連絡もよこさねぇで……どこで何してるんだか」
防波堤に腰を下ろし、水平線を見つめた。
幼い頃から何度も聞かされてきた話を思い出す。
「……俺の母さんが子供の頃、この辺一帯が津波でめちゃくちゃになったんだ」
「津波……」
しおゆりは小さく繰り返す。
「ああ。でも、その日はばあちゃんが“今日は海に近づくな”ってしつこく言ったらしくてさ。母さんはおとなしく家にいた。……おかげで助かったんだ」
紫藤はふっと笑う。
「ばあちゃんの直感には、今でも感謝してる。……あの人は毎日俺たちのこと、祈ってたからな」
しおゆりは黙って水平線を見つめていた。
長い沈黙のあと、ぽつりと口を開く。
「……少し、回収は困難ね」
「……は?」
意味が分からず聞き返すと、彼女は何も答えず、ただ海の彼方を見ていた。
紫藤は深く追及せず、立ち上がって潮風を浴びた。
「さて、そろそろ帰るか」
しおゆりは最後にもう一度海を見つめてから、静かに紫藤の後を追った。
家に戻ると、いつも通りの静けさが広がっていた。
夕暮れの光が差し込み、机の上のノートPCが淡く点滅している。
そのとき――ポン、と携帯が小さく震えた。
半年ものあいだ沈黙を続けていた通知音に、紫藤は思わず手を止めた。
「……え?」
画面には見慣れないアイコンと文字列。
《ANPI:新規メッセージがあります》
震える指で開くと、短い文が表示された。
――『紫藤くん、ANPIが繋がったよ! 少しずつ街も元気を取り戻してる。そっちはどう?お姉さんと会えた?』
差出人は、東京にいる柊子だった。
胸の奥が熱くなる。
久しぶりに届いた、たった数十文字の文字列。
けれどそこには、確かに“世界がまた動き出している”証があった。
「……少しずつ世の中が回復している」
思わず声に出していた。
視線を上げると、ノートPCのモニターにシステムログが浮かんでいた。
《SIDOサーバー:一部回復》
淡く点滅する緑のゲージが、規則正しく脈打っている。
隣に立つしおゆりは、画面を見つめながら小さく呟いた。
「……途切れていた円環が、また動き出したのね」
その声は淡々としていた。
けれど、その奥にほんのわずかな温もりが宿っている気がして――
紫藤は黙って頷いた。