第4話「彼女はしおゆり」
夜の闇を抜けて辿り着いたのは、祖母宅だった。
母・眞百合の実家であり、紫藤や砂百合が幼いころによく泊まりに来た場所。
祖母・陽百合が会津へ移ってからは無人になったはずだが、砂百合が研究の拠点として整備し直したと聞いている。
(これって 偶然……じゃないよな)
拾ったコアが、この家のすぐ近くの海岸で見つかったことが胸に引っかかっていた。
まるで導かれるように――ここへ辿り着くことが最初から決められていたように思えた。
門をくぐり、玄関の前に立つ。
ポストの上蓋をそっと開けると、裏に古い粘着テープが貼られており、そこに小さな鍵が守られるように隠されていた。
子供の頃、祖母から「困ったときはここにあるから覚えておきなさい」と教わった場所だ。
まさか十数年経っても、まだそのまま残っているとは思わなかった。
鍵を差し込み、戸を開ける。
「……ただいま」
小さく呟いた声は、自分の耳にさえぎこちなく響いた。
室内は驚くほど整っていた。
ちゃぶ台の上にはランチョンマットが敷かれ、壁際の棚には祖母が使っていた茶碗が並んでいる。
冷蔵庫の上には、姉が愛用していたマグカップがそのまま置かれていた。
まるで今にも「しぃくん、ただいま〜」と笑顔で姉が帰ってきそうな気配が漂っている。
時計の秒針がカチ、カチと響く。
電気はまだ生きており、スイッチを押すと蛍光灯があたたかな光を灯した。
畳の香りが鼻をくすぐり、足の裏に懐かしい感触が広がる。
(……姉貴、やっぱりここにいたんだな)
コアを胸に抱きしめながら、紫藤は奥の部屋――研究ラボへと続く扉を見つめた。
その先に、きっと答えがある。
障子戸を開けると、そこはもう「居間」ではなかった。
畳はフローリングに変えられ、机の上には端末や計測器、整然と並んだパーツが光を反射している。
祖母の家の面影は消え、ここは完全に研究ラボになっていた。
机の中央にはノートPCと手帳が置いてあった。
置かれた薄い手帳を手に取ると、最初のページに小さな走り書きが残されていた。
「しぃくんへ。クロアに反応が出たら必ずそれを探して!
起動方法はPCにある手順書を読むこと」
PCの電源を入れると、静かなファンの音が部屋に広がる。
デスクトップ画面には砂百合が残したファイルがいくつも並び、その中に目を奪うタイトルがあった。
《しおゆり起動プロトコル》
フォルダを開くと――画面に《生体認証を開始します》の文字が浮かび上がった。
ノートPC上部の小さなカメラが赤く点灯し、紫藤の顔をじっとなぞる。
【FaceID:照合率 93.8% / 閾値 90% → 許可】
続いて、マイクのインジケーターが点滅した。
紫藤は息を整え、小さく名を告げる。
「……折籠 紫藤」
【VoiceID:一致率 97.2% → 許可】
ロックが解け、画面に《しおゆり起動プロトコル》の手順書が開かれる。
コアの接続方法、給電の順序、エラー回避のための注意事項……一つひとつが几帳面に書かれていた。
胸の奥が熱くなる。
(……姉貴、やっぱり俺に託してたんだな)
ノートPCの背面から伸びたLANケーブルは、机の下のルーターに繋がっていた。
その小さなランプが、規則的に明滅を繰り返している。
「……いまどきLANて」
思わず口にしてから、胸の奥がざわついた。
(姉貴は、ORIITOが消失することを知っていた?──だからわざわざ有線で)
「……まさかな」
紫藤はコアを机に置き、給電ケーブルを繋いだ。
スイッチを入れると「カチリ」と乾いた音がして、端末のランプが明滅する。
次の瞬間、コアの表面に淡い光が走り、ノートPCの画面には新たなログが流れ始めた。
机の上のコアが淡く脈を打つたび、室内の空気が揺らぐように感じられた。
ノートPCの画面には文字列が浮かび上がる。
【しおゆり起動プロトコル:給電開始】
【SIDO-LINK:Handshake …… Complete】
【ユニット状態:スタンバイ】
【現在位置:地下格納庫】
「……地下?」
その瞬間、家全体がひそやかに呼吸を始めたかのように、床下から低い響きが伝わってきた。
やがて、ノートPCのスピーカーから微かな囁きが漏れる。
『……認識完了。接続を確認』
その音声と同時に、画面には起動ログが流れる。
(……応えてる)
胸の奥が熱く震え、手に抱えたコアがわずかに温もりを帯びる。
偶然でも錯覚でもない。
確かに、何かが目を覚ました。
紫藤はコアとPCを抱え、慎重に地下倉庫へ降りていった。
階段を下りるたびに、空気がひんやりと肌にまとわりついた。
地下倉庫の扉を押し開けると、かつて米俵や保存食を置いていた空間はすっかり姿を変えていた。
壁には配線とラックが並び、蛍光灯の白い光に鈍い輝きを放っている。
その中央に――
銀糸のような髪を垂らした少女のボディが、椅子に腰かけて静かに眠っていた。
白い肌は透き通るようで、胸元からは淡い光がこぼれている。
ただの機械のはずなのに、そこに漂う空気は“人の気配”をまとっていた。
息を呑み、紫藤は一歩、また一歩と近づく。
足音が響くたび、室内全体が呼吸するように揺らめく。
やがて、閉じられていた瞼がかすかに震え――ゆっくりと開いた。
淡い水色の瞳が光を帯び、まっすぐに紫藤を捉える。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしいと感じた。
そして、ずっと護られてきたような安心感が全身を包み込む。
理由はわからない。ただ、その視線に触れた瞬間、心の奥底が静かに震えた。
『現在の状態:仮起動。記憶領域、重大な欠損。……自己認識モード、制限中』
声は無機質に響いたが、不思議と耳の奥に残り、祈りの残響のように染み入っていく。
『この状態は仮起動です。完全動作には、コアの本体装着が必要です』
『要請:コアを指定位置に装着してください』
瞳は微動だにせず、ただ紫藤を映していた。
だがその凝視は単なるセンサー反応ではなく、言葉にならない“何か”を訴えかけているように思えた。
「……しおゆり……」
思わず零れたその名は、地下の空気に溶け、静かな光の揺らめきと共鳴するかのように広がった。
「……まずは、コアを入れる胸部パネルを開ければいいんだな」
紫藤は手順書を何度も見返しながら、小さく呟く。
震える手で、胸部中央のくぼみに触れた。
「カシン」と乾いた音が響き、外装が円を描くように開いていく。
そこに現れたのは、楕円形のコアを収めるスペース――その周囲には数十本の細いケーブルが垂れ下がっていた。
それはまるで人間の神経束のように、かすかに脈動しながら微かな光を帯びている。
「次は……ケーブルをコアに繋ぐ。だな」
砂百合のメモには“間違わないよう慎重にね”の補足付き。
(ミスったら爆発とかしないよな?)
ケーブルの配置とコアに小さく刻まれた番号を確認しながら、一本ずつ慎重に差し込んでいく。
「視覚回路リンク、確認」
「触覚回路リンク、確認」
モニターに次々と表示されるログ。
ケーブルを接続するたび、ボディの指先や瞼がわずかに震え、息を呑む。
最後の一本を接続し終えると――
『生体感覚回路を含む全系統、同期完了』
全センサーの接続完了を告げるメッセージが画面に表示される。
コアが自らを引き寄せるようにしてハウジングへ滑り込み、「カチリ」と確かな音を立てて固定された。
次の瞬間、胸部全体に光が走り、幾何学模様の紋様が花のように広がる。
光の紋様が鼓動のように脈動し、やがて収束。
胸部の外装が静かに閉じ、少女の身体に淡い残光が残った。
紫藤は息を整えながら、その光景から目を離せなかった。
それは、科学の産物でありながら、まるでなにかの儀式のように荘厳だった。
「……はじめまして。わたしはしおゆりです」
椅子に腰かけた少女の口が動いた。
その声は人間を模した柔らかさを持っていたが、感情の色は一切なく、淡々としていた。
淡い水色の瞳が光を宿し、まっすぐに紫藤を映す。
「お、お前……ほんとに、しおゆり……なのか」
「はい。わたしの名前は“しおゆり”です。──あなたのお名前を教えてください」
喉が渇き、声が震える。
紫藤は息を整え、答えた。
「……しどう。折籠 紫藤」
「オリカゴ……シドウ様ですね」
淡々とした返答。だが確かに彼女は、紫藤を認識した。
紫藤は身を乗り出す。
「姉貴は……砂百合はどこにいる?無事なのか?!」
間髪を入れず問い詰める。
しおゆりは、わずかに首を傾げてから答えた。
「……不明です。記録領域に欠損。所在、安否、いずれも確認できません」
「なっ……」
血の気が引くのを感じた。
「じゃあ……じゃあなんでお前のコアが浜辺に落ちてたんだ!?
誰が運んだんだよ! ……姉貴が、お前を作ったんじゃねえのかよ!」
拳を机に叩きつける。
「GPSとか!追跡機能とか!なにかあるだろ!?
姉貴の痕跡くらい拾えるだろっ!!」
声が掠れ、目尻が熱くなる。
静まり返ったラボに、荒い呼吸だけが響いた。
しおゆりは表情を変えず、ただ静かに答えた。
「……申し訳ございません。該当データは消失しています。
ただひとつ――」
瞳の奥が一瞬だけ揺らぎ、淡い光を帯びた。
「“しぃくんを護って”。それだけは、私の記憶領域に残っています」
その言葉に、紫藤の拳が机から力を失う。
荒い呼吸を整えようとするが、喉の奥が詰まり、声にならなかった。
紫藤の胸が締めつけられる。
姉の声が、そこに確かに生きている気がした。
「……そうか」
その夜、紫藤はラボの机や棚を漁り、砂百合の痕跡を探し続けた。
ノート、メモ、端末の中身をひとつひとつ確かめても、決定的な手がかりは見つからない。
「……どこ行ったんだよ、姉ちゃん……」
呟きは、無機質な機器に吸い込まれて消えていく。
一方のしおゆりは、椅子に座ったまま静かに自己修復を行っていた。
瞳を閉じ、胸部のパネルから微かな光を漏らしながら、充電状態で夜を越えていく。
無機質なはずなのに、その姿は祈る人間のように見えた。
疲れ果てた紫藤は、ノートを広げたまま机に突っ伏し、深い眠りに落ちた。
――潮風が吹いていた。
髪が揺れ、頬を撫でる冷たさに、思わず目を細める。
少女の手を引く白衣の女性。
ふたりは海辺に立っていた。
『しお。……この名前、あなたにあげるね』
やさしく、どこか寂しげな声。
少女は小さく頷き、ぎゅっと手を握り返した。
遠くで、波の音がした――。
*
ラボの椅子に座ったまま、しおゆりの身体がわずかに痙攣した。
閉じられた瞼の奥で目が揺れ、微かな嘆き声が漏れる。
その隣で机に突っ伏して眠っていた紫藤が、はっと顔を上げた。
「……しおゆり!? 大丈夫か!」
慌てて肩を揺さぶると、しおゆりの瞼がぱちりと開き、水色の瞳が光を帯びる。
「……夢を見ました」
「夢?」
「はい。どこかの海辺で、私は女性と手を繋いでいました。
その人は、私を“しお”と呼んでいました」
「アニマロイドって夢もみるのか?」
「記録にはありません。映像とも異なります。……定義不能な“感覚”です」
紫藤の心臓が跳ねた。
「……“しお”、か」
しばし沈黙したのち、勇気を振り絞るように口を開く。
「じゃあ……俺も“しお”って呼んでいいか?」
しおゆりは瞬きをひとつ挟み、淡々と答える。
「……はい。かまいません」
その声は依然としてフラットだった。
けれど紫藤には、ほんのかすかに揺らぎのような温度が混じった気がした。
PCの監視モニターには、停止していた感情演算モジュールのゲージが、かすかに点滅を始めていた。
それは、彼女の“心”が動き出した兆候だった。