第3話「道しるべ」
クロアが不意に震えた。
半年近く沈黙していたそれが、唐突に脈打ったのだ。
「……なんだ、これ」
紫藤の小さな声が、ふたりきりの構内ラウンジに響いた。
近くに座っていた結城柊子が気になったのか、身を乗り出して画面を覗き込む。
「SIDO? なにそれ?ゲーム?」
「……違う。たぶん、姉貴からの信号かもしれない。
これ、前に姉貴が作ったアプリでさ。非常時用に入れときなって、そう言われてたんだ」
柊子は真剣な顔で画面を見つめ、眉をひそめた。
「じゃあ、この数字がお姉さんのいる場所ってこと?」
「たぶん。けどクロアの地図は真っ黒だし。座標だけあっても、どこに行けばいいのか分からない」
「……どうする? 大学の図書館なら緯度と経度が入った地図があるかもしれない」
柊子が言った。
「……そうだな。行ってみるか」
埃をかぶった大判の地形図を机に広げ、紫藤は鉛筆を握った。
「北緯三十六度……東経百四十度……この辺か」
定規を当て、線を引こうとした瞬間――
「待って、紫藤君!」
柊子が慌てて彼の手を押さえた。
「直接書いたら、絶対バレるって! 図書館の本だよ?」
「うん、だよな……」
「コピー機あるでしょ。あれコイン式だから、ORIITO関係なくまだ動くはずだよ」
柊子はポケットから小銭をじゃらりと取り出して笑ってみせた。
「ごめん……助かった。俺、焦ってたな」
「でしょ? やっぱり私がいないとダメなんだから〜」
彼女は軽口を叩きながらも、素早く地図を抱えてコピー機の方へ歩き出した。
その背を見送りながら、紫藤はもう一度クロアの画面を握りしめる。
座標データは、確かにそこに灯り続けていた。
翌朝。
俺はガソリン携行缶と簡易工具を積んで、姉が残してくれたバイクに跨がった。
クロアの画面には、まだ座標データが点滅している。
コピーした地図に鉛筆で引いた線。その交点は――福島、勿来海岸。
エンジンをかけると、かすかな排気音が静まり返った路地に響いた。
かつては車の列が絶えなかった通りも、今は人影がまばらだ。
コンビニの窓には「品切れ」の貼り紙。店内は暗く閉ざされたまま。
街全体が呼吸を止めているようだった。
しばらく走ると、道路を封鎖する検問に行き当たった。
迷彩服の自衛隊員が数人、バリケードの前に立っている。
「通行先はどちらですか?」
「……福島の実家です」
「了解しました。クロアが止まっているので……こちらの用紙に氏名と個人ID、それと目的地を書いてくれますか?」
「……はい」
差し出された台帳に鉛筆で書き込む。
自衛隊員は礼儀正しく頷き、道を開けてくれた。
それでも、俺の手はかすかに震えていた。
郊外に出ると、風が一層冷たくなる。
公園の隅には、清掃ロボが立ち尽くしたまま沈黙していた。
誰にも片付けられず、風雨に晒されている。
その真上を、自衛隊の監視ドローンが低く旋回していた。
動かなくなった街の機械とは対照的に、赤い照射光だけが規則正しく地面をなぞっている。
ふいに光が俺のバイクを捉え、全身を舐めるように赤外線スキャンのような光が走った。
反射的にスロットルを緩める。
背筋に冷たい汗が伝う。数秒後、短い電子音を残してドローンは飛び去っていった。
「……なんで、こいつらだけ」
胸の奥にざらついた違和感が残った。
さらに進むと、道路脇には長い列ができていた。
配給を待つ人々だ。自衛隊車両が荷台から米や缶詰を降ろすたび、列のあちこちで小さな声が漏れた。
「これじゃ家族分は足りないかもしれないな……」
「また明日も並ばないとダメか」
子どもを抱いた母親が、前に立つ隊員に声をかけていた。
「すみません、子どもに優先してもらえませんか……」
誰も大声は出さなかった。ただ、押し殺した不安と苛立ちだけが、列全体に重く漂っていた。
空になったトラックが走り去ると、ただの埃っぽい空気だけが残る。
誰も笑っていなかった。
バイクの振動とエンジン音だけが、心臓の鼓動と重なり続ける。
俺はひたすら前を見据え、ハンドルを握り直した。
(待ってろよ……姉ちゃん)
◇
バイクを停めると、潮の匂いが一気に押し寄せた。
遠くに、朱塗りの鳥居がひとつ。
夕暮れの海に赤く浮かび上がるその姿に、俺は思わず声を張り上げていた。
「姉ちゃーーん!!」
「どこにいるんだよ!!」
波音にかき消されるように、声は虚しく散っていく。
鳥居の周辺を走り回り、砂浜を踏み荒らす。
けれど、どこにも人影はない。
胸の奥がきしむ。
「……やっぱり、いないのか」
それでも諦めきれず、何度も辺りを探し続けた。
やがて空は群青に沈み、海岸には闇が降りてくる。
俺はリュックから懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。
乾いた光が砂浜を切り裂き、漂着物や貝殻を照らす。
そのとき――光が、黒い破片のようなものに反射した。
砂に半ば埋もれ、潮に洗われた楕円形の物体。
「……これ……?」
しゃがみ込み、指で砂を掻き分ける。
拳ほどの大きさの楕円形コアが現れた。
表面には微細な回路が浮かび、中央に淡いスリット。
まるで“目”のように俺を見返していた。
指先が触れた瞬間、かすかな電子音。
胸ポケットのクロアが震え、画面に文字が浮かぶ。
【SIDO SYSTEM …… CORE LOCATED】
【Security Interface & Defense Operator システム起動準備完了――】
次いで、短いメッセージが表示された。
『しぃくんへ。心配しないで。この子“しおゆり”が、あなたを守ってくれるわ』
姉の声がそこにある気がした。
込み上げるものを抑えきれず、俺は震える唇でその名を呼んでいた。
「……しおゆり」
その瞬間、胸の奥で何かが脈打った。
懐かしさでも、戸惑いでもない。
ただ――確かに何かが、繋がった気がした。