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第28話「異常領域」

ココロはゆっくりと呼吸を整えていた。

胸の奥で波打つ思考をひとつひとつ沈めていく。



──状況は最悪に近い。


紫藤はすでに組織の手中にあり、その背後には防衛省や警察内部に潜む敵がいる。

正面から動けば確実に潰される。



「……ですので、救出には念入りな準備を要します」


目の前に立つあまゆりが強く頷く。


「うん。しどぉを取り戻すためなら、何だってするよ!」


「周辺警戒はユカリにお任せくださいませぇ」


最初にやるべきことはすでに決まっている。ユユのコアシステム内部に潜んだバックドアの撤去とウイルス除去だ。





その夜、ココロたちはガレージに集合した。

作業台には球体を固定させるためのドーナツ型パーツ。その上にはユユがぴったりと嵌っている。


ユユは目を閉じ、休止状態になるためのシステムクローズを進行中。

ココロはゆっくりと手を伸ばし、その表面に触れる。


「おやすみなさい、ユユさん」と語りかけ優しく撫でた。



ふと、先ほどのやり取りが蘇る。

ココロの祈因層で交わした短い打ち合わせ。


「通常起動状態では内部への干渉が検知される可能性があります。つまり、完全に機能を停止させた状態で処置を行いますわ」


「承知したでアリマス」


「ただし、停止状態は監視側に異常として検知されるリスクもありますわね……“正常稼働中”の偽装を同時に行います」


その結論に迷いはなかった。

あの時は。



ココロは作業台の前に立ち尽くしていた。

その表情はいつも通り静かで、感情の揺れは外からは読み取れない。しかし、内心では緊張と恐怖が静かに積み重なっていた。


(……誤差は許されない)



この処置は単なるウイルス除去ではない。

コアの深層へ干渉する以上、ユユという存在そのものに影響が及ぶ。


構造を誤れば、記憶は断裂し人格は崩壊する。


最悪の場合──


<ユユだったもの>だけが残る。



命令には従う。応答も返す。だがそこにはユユ自身の意思は存在しない。その可能性がゼロではない。

否、わずかながら確実に存在している。



ココロはゆっくりと息を吐いた。


思考を整理する。不要な感情を切り離し、必要な要素だけを残す。それは彼女がこれまで繰り返してきた演算の前準備と同じ行為だった。

だが、今回に限ってはそれだけでは足りなかった。


(これは選択ですわ。そしてその選択は、取り返しのつかない結果を生む可能性を孕んでいる──)



「……ココちゃん」


あまゆりの声が静かに響いた。

ココロは視線を向けないまま小さく応じた。


「大丈夫ですわ」


「周辺、異常なしですぅ。外部からの接近反応は確認されておりません」


ココロの首元のロックが解除され、細いケーブルが展開されていく。先端の端子を手に取り、ユユのインターフェースポートへと差し込む。

カチリと小さな音と同時に接続が確立される。


準備は整った。

そして、ユユのステータスランプがオレンジ色に変わり、放熱ファンの音が静かになる。


「……それでは開始します」


ココロは静かに告げた。



≪EXTERNAL HOST LINK:ESTABLISHED≫

≪POWER ROUTE:KOKORO CORE >>> YUYU INTERFACE≫

≪PRIMARY CONTROL:OVERRIDE≫

≪SYSTEM MODE:MAINTENANCE / ISOLATION≫


ココロのコアから供給された電力が、ユユの内部へと流れ込む。

彼女の瞳の色がわずかに変化した。


≪DUMMY SIGNAL GENERATION:START≫

≪HEARTBEAT:NORMAL RANGE≫

≪VISUAL FEED:SIMULATION≫

≪AUDIO LOG:LOOP OUTPUT≫



「視覚、聴覚、内部ログ──すべてこちらで上書きします」


それは単なる隠蔽ではない“存在しているはずのユユ”を完全に再現するための偽装だった。

あまゆりが小さく息を呑む。


ココロはゆっくりと目を閉じた。外界の感覚が静かに遠ざかっていく。意識を深層へと沈める準備を整えながら、最後にひとつだけ思考が浮かんだ。


「……最悪の場合でも、ユユさんは守ってみせます」


そして次の瞬間、ココロの意識は静かに深層へと沈んでいった。





視界に飛び込んできたのは無限に広がる白い雲海だった。


ココロは、果ての見えない空の只中を真っ逆さまに引きずり込まれていた。

理解が追いつくよりも先に、風圧が容赦なく全身を叩きつける。髪が激しく逆巻き、衣服が裂けそうなほどに震え、頬の皮膚が波打ちながら揺れるたびに、呼吸が乱れて肺にうまく空気が入らない。


制御されていたはずの思考があっけなく崩れ去っていく。



「い……っ、いやぁぁああーーー!!」


その声は明らかに想定外だった。

解析も判断も間に合わず、ただ本能に押し流されるまま恐怖だけが表層を満たしていく。

どれだけ姿勢を変えようとしても、どれだけ手足を動かそうとしても落下の勢いは一切衰えない。ただ、落ち続けているという事実だけが押し寄せてくる。


──その最中で、ほんの僅かな違和感が脳裏をかすめた。


風の音があまりにも静か過ぎる。身体にかかる圧力と視界の移動速度が完全には一致していない。そして何より、これほどの速度で落ちているはずなのにどこか“実感”が希薄だった。まるで落下という現象そのものが、外側から貼り付けられた演出であるかのように。


その違和感を掴み取るよりも早く、聞きなれた声が意識の奥に差し込まれる。



「落ち着いて」


黒の声だった。


「ここは現実じゃない。コントロール出来るはずでしょ?」


その一言が強制的に思考を引き戻す。ココロは息を詰め、乱れていた意識を無理やり収束させた。

風も、重力も、落下という現象すらも──これは物理ではない。すべては演算によって再現された状態に過ぎないのであれば、制御不能であるはずがない。



「……少々、驚きましたが」


かすかに乱れた呼吸を整えながら声を取り戻す。


「問題ありませんわ」



意識を一点に集約し、落下という現象を“外的要因”ではなく“内部パラメータ”として再定義する。

速度・方向・加速度。すべてを数値として再構築し、自身の制御下へと引き戻した。全身を叩いていた圧力が嘘のように消え、落下速度が滑らかに減衰していく。



「黒。出てきてくださいまし」


静かにそう告げると、隣の空間がわずかに歪み、黒を基調とした衣装を纏い、同じ顔立ちでありながらまるで温度の違う存在。

もうひとりの彼女が形を成した。


黒は何も言わずに手を差し出してその手を取った。空間そのものの制御権が完全に手中へ収まる感覚があった。

ふたりの身体は、重力という概念から解放されたようにゆっくりと浮遊を始める。


視界を広げると、そこに広がっていたのは一面の青い海。

だがそれは、本来の海が持つべき揺らぎも音も一切持たず、風に触れているはずなのに波ひとつ立たず、ただ鏡のように空を映し込んでいるだけの異様に静止した水面だった。


耳を澄ませても、そこには水の気配すら存在しない。自然ではない。これは海を模した構造でしかない。



「静寂ですわね」


ココロが呟くと黒が短く応じる。


「ええ、気持ち悪いくらいに」


その視線の先にひとつだけ明確な異物があった。


青一色の世界の中で、そこだけが鮮烈な赤を帯びている。海面の上に支えもなく立つ鳥居。

その存在はあまりにも不自然でありながら、この空間の中心として配置されているかのような確かな重みを持っていた。


「……あそこですわね」


言葉と同時に、ふたりの身体は滑るように移動を開始する。

空間を飛ぶというより、座標そのものを書き換えていく感覚だった。距離が一気に縮まり、鳥居の下に“それ”がいるのが見えてくる。


白と黒の球体。見慣れたシルエット。


「あれは……ユユさん?」


「断定はまだ早い。警戒して」

黒の声が低く落ちる。


ふたりは静止した真っ平らな海面へ静かに着地した。

やがて完全に視界へ収まったその存在は、ゆっくりとこちらへ向き直った。



「ココロさん、お待ちしておりました」


その声はユユと同じ声質だった。だがいつもの語尾も抑揚もない。


ココロは胸騒ぎに似たノイズを感じていた。

理屈じゃなく本能が警告している。

そして、その予感は的中した。


解析が通らない。識別コードが取得できない。構造が参照できない。それは異常ではなく、むしろ“定義されていない”という感覚だった。

(……これは、SIDO由来の構造ではありませんわね)


確信に近い違和感が静かに浮かび上がる。その刹那、耳元で囁くように黒が言った。


「顔に出てる」


ココロはそっと目を閉じて呼吸を整える。そして何事もなかったかのように表情を作り直す。


「お出迎え、ありがとうございます」


穏やかな声で応じる。

その呼びかけに、相手は完璧な動作で一礼した。


「外部からの侵入経路と、内部に残存する異常領域へご案内いたします」


その存在は静かに鳥居の内側へと身体を向ける。


「──こちらへ」



赤い鳥居の中央は、まるで空間そのものが歪んでいるかのように揺らぎ、その奥の景色を一切映さなかった。

ユユの姿をしたその存在は、躊躇う様子もなくその揺らぎの中へと滑り込むように飲み込まれていった。


ココロが隣の黒へと視線を向ける。言葉を交わさずとも互いの思考はすでに共有されていた。

ここから先は未知領域であり、同時に引き返す選択肢も存在しない。


ふたりは小さく頷き合い、鳥居の中へと踏み込んだ。




鳥居を通過した瞬間、空気が変わった。


音が一瞬だけ完全に消失し、鈍く濁った空気が身体を包み込んだ。

先ほどまで感じていた広がりは消え、代わりに閉じた空間へと引き込まれる感覚があった。


そこは薄暗く全体が曖昧な空間だった。壁とも天井ともつかない境界がぼんやりと存在し、遠近感が定まらない。だが完全な暗闇ではなく微かな光がどこからともなく漂い、足元の構造だけはかろうじて視認できた。


ユユの姿をした正体不明なそれは、一定の速度で前進している。その動きは無駄がなく迷いもない。



「……あなたは、ユユさんであってますの?」


後を追いながらココロは声をかけた。問いかけは自然な調子を装っていたが、その内側ではすでに警戒が最大限に高まっていた。



「わたしは防疫システムの一部として、このコアに常駐しています」


その内容は、明確に“ユユではない何か”を示している。


「では、なんとお呼びすればよろしいのかしら」


ココロの問いにわずかな間があった。


「……名称は定義されていません。識別の必要はありません」


無機質な返答だった。


その横で黒が小さく鼻で笑う。


「じゃあ球っころでいいでしょ」


「……では、“ジュジュ”さんとお呼びしますわ」


ココロの一言でそれは決定された。ジュジュは肯定も否定もせず、そのまま歩みを続ける。



やがて空間の様相が変化し始めた。

暗闇の中に無数の細い線が浮かび上がる。それらはまるで夜の都市を縫う電線網のようでもあり、あるいは地下に張り巡らされた路線図のようにも見えた。


線の交差点には小さな光点が脈打ち、一定のリズムで明滅を繰り返している。その光は完全に同期しているわけではなく、僅かなズレを伴いながら伝播していく。


パチッ、と小さな音が弾けた。ひとつの光点が強く瞬くと、そこから細い線を伝って光が走る。遅れて周囲のノードが連鎖的に点灯していく。その様子はまるで神経信号が伝達されていく過程を視覚化したかのようだった。


「……これは、神経回路?」


ココロの呟きにジュジュは振り返らずに答える。


「内部伝達経路です。まもなく目的地へ到達します」



しばらく進むと、前方にぽっかりと空いた黒い穴が現れた。それは洞穴のような形状をしていたが、周囲の整然とした構造とは明らかに異質で、まるでそこだけが削り取られたように歪んでいる。


「ここが侵入経路です」


ジュジュが静かに告げる。


洞穴の奥は光を一切拒むように暗く、内部構造は視認できない。だがそこから流れてくる空気はわずかに湿っており、生温かさを帯びていた。

電子空間であるにも関わらず、その感覚は明らかに生物的だった。



ココロが一歩前へ出る。


「あなたは周囲の警戒を」


黒へ短く告げたその時、洞穴の奥から音がした。乾いた足音。

それが一つではないと気づくまでに時間はかからなかった。


次の瞬間、闇の中から一斉に影が飛び出す。四足で駆ける無数の機体。それは軍用ロボットに似た構造をしていながら、関節の動きが不自然に歪んでおり、時折、脚が逆方向へ折れ曲がる。

装甲は黒く侵食され、表面にはノイズのような歪みが走り続けていた。



「警告します」


ジュジュの声が淡々と響く。


「あれはウイルス感染により変異した、元防疫システムです」


言葉が終わるよりも早く群れが一斉に跳躍した。


「──殲滅しますわ」


ココロが両手を地面へと叩きつける。足元に複雑な幾何構造が展開され、円環状のコードが幾層にも重なりながら輝きを放つ。それは魔法陣のように見えながら、その実体は明確なプログラム構造だった。


稲妻のような青白い光が網目状に広がりながら地面を走る。その雷光は瞬時に洞穴内部へと流れ込み、変異体を次々と捕捉していく。

光に触れた変異体は、強力な磁力で足と地面がくっついたように硬直し、目や口からは光が漏れ出した。やがてその構造を維持できなくなると、粒子のように崩壊していった。


しかし、すべてが同じように消えるわけではなかった。

変異体の一体がわずかに遅れて動きを止め、跳ねるように軌道を変えて回避した。


「……学習している」


黒が低く呟く。


それを皮切りに群れの動きが一変した。空中へと浮遊する者、壁面を走り天井を逆さに駆ける者。経験を学習し情報を共有する変異体が現れた。


単純な殲滅では追いつかない。

黒は即座に踏み込み、両腕に展開したコードシールドで突進してくる変異体を弾き飛ばす。

そのまま拳を叩き込むと、接触した表面にコードが弾け、変異体は内側から崩壊する。


後方で観察していた一体が異様な動きを見せた。口部が裂けるように開き、その奥から黒い糸の束が射出される。それは直線ではなく空間そのものを歪めながらココロへと迫った。


回避が間に合わない。


その時、ジュジュが一歩前へ出た。黒い糸はそのままジュジュへと巻き付き拘束される。


「ジュジュさん!」


ココロが反射的に駆け寄ろうとした瞬間、静かな声がそれを止める。


「接触してはいけません」


落ち着き払った声音だった。


「当該コードは感染性を有します」


糸はジュジュの身体に絡みつきながら内部へ侵入しようと蠢いている。それでも彼は動じない。


「わたしは防疫システムです。この程度では完全感染には至りません」


その言葉に迷いはなかった。

黒が一瞬で距離を詰め、糸を放っていた変異体を殴り砕く。衝撃と同時に糸は力を失い、灰のように崩れて消えていった。


静寂が戻る。


残っていた変異体もすべて消失していた。




最後の変異体が崩れ落ち、空間に満ちていたノイズが嘘のように消えたあともココロはすぐには動かなかった。

わずかに残る残響のような違和感を確かめるように、足元へ展開していたコードの円環を収束させながら、視線だけを洞穴の奥へと向ける。

そこは依然として不気味な闇が静かに口を開けていた。


「……今のでラストですわね」


小さく息を吐きながらそう言うと、隣に立つ黒が肩を鳴らす。


「ええ、反応も消えた。なら──」


黒は一歩前へ出て洞穴へと手をかざす。その掌に鋭く圧縮されたコードが集束していく。

破壊用に最適化されたアンチウイルスの塊。放てばこの侵入経路そのものを根本から断ち切ることができる。


「それじゃ、さっさと壊すわ」


迷いのない声音だった。

だがその時。


「……推奨できません」


静かなジュジュの声がそれを制した。


「当該経路の消失は、外部監視側へ異常として検知される可能性があります」


黒の手がわずかに止まる。


「……あんた、このまま放置しろって言ってんの?」


「はい。現状、この侵入経路は正常状態として観測されています」


抑揚のない声。それでもその内容は明確だった。


ココロの思考が瞬時に組み立てられていく。

外部からの侵入は完全な突破ではない。あくまで継続的に利用されている経路として維持されている状態。つまり──


「……破壊すれば、途絶として検知される」


小さく呟いた言葉にジュジュが応じる。


「はい。外部側は、当該経路を通じた通信を継続的に確認しています。消失は即座に異常として記録されます」


ココロは目を閉じて呼吸を整えた。

単純な選択ではない。この経路は敵の侵入路であると同時に、こちらの監視対象でもある。切断すれば安全は確保できるが、同時に“気づかれた”という事実を与えることになる。逆に残せば、再侵入のリスクを抱えることになる。

その両方を避ける方法は──ひとつしかない。


ココロは静かに目を開く。


「……破壊はいたしません」


その決断に黒が眉をひそめた。


「は? それ、本気?」


「ええ。本気ですわ」


 ココロが前へ出ると、洞穴の縁へと手を触れた。内部から流れ込んでくる微かなノイズ。その構造を読み取りながらゆっくりと言葉を続ける。


「この経路は残します。その代わり──」


指先から細いコードが広がっていく。洞穴の縁をなぞるように展開され、内部構造へと侵入していくそれは破壊ではなく書き換えのためのものだった。


「外部からの入力はすべてこちらで遮断し、再構築いたします」


黒が小さく笑った。


「……つまり、偽物を返すってことね」


「ええ。正常稼働中のユユさんを演じ続けますわ」


洞穴の奥でわずかに光が揺らぐ。それは外部から送られてくる微細な信号だったが、ココロの展開したフィルタに触れた瞬間、その構造を変えられ別の情報へと書き換えられていく。


「侵入は許可されていると誤認させる。ですが、実際には本体へは一切到達できない」


ジュジュが続ける。


「その選択は正しいです。観測者は異常を検知できません。通信は正常に維持されていると判断されます」


黒は一度だけ洞穴を見つめ、それから肩をすくめた。


「……いいじゃない。餌にするってわけね」


「ええ。こちらからも観測できますわ」


ココロは静かに頷くと、最後のコードを打ち込み、侵入経路の表層だけを残したまま内部構造を完全に切り離した。


「これでこの経路は我々の管理下に入りました」


ゆっくりと手を離す。

洞穴は先ほどと何一つ変わらない姿を保ったまま、そこに存在している。

だが、その内側はすでに別のものへと書き換えられた。


ココロはその奥を見据え、静かに告げる。


「……次へ進みますわ。異常領域へ」





ジュジュの背を追い、ココロと黒は崩れかけた伝達経路の奥へと踏み込んでいった。先ほどまで脈動していた神経回路の光は徐々に減衰し、やがて完全に途切れると、空間そのものがゆっくりと反転を始める。

足元の感触が曖昧になり上下の感覚が揺らぐ。どこが地面でどこが天井なのか、その基準が静かに崩されていく。


ココロの足が突然止まった。


まるで海中に沈み込んだかのように重く、圧し潰されるような空気の中に立たされていた。肺に空気は入っているはずなのに、呼吸がわずかに遅れる。

身体の内側にまで染み込んでくるような圧迫感が意識を鈍らせていく。


ココロは小さく息を詰めた。

この圧力は物理ではない。情報密度──いや、呪詛の濃度そのものだと直感的に理解する。


ココロの足元には青い海面が広がっていた。

見覚えある景色がその真下に。


青い空と赤い鳥居。


ココロがジュジュと最初に出会った鳥居のある場所が、鏡の反射のように足元へと透けて見えている。

逆さに映っているわけではない。正しい向きのまま、ただ下にあるもうひとつの世界。


ココロはゆっくりと足を動かした。


靴底が接地する感覚はある。だが同時にその下に映る“もうひとりの自分”の足とも、ぴたりと重なっているのが見えた。まるで鏡の中の自分と足裏同士を合わせて立っているかのような奇妙な一体感。


「……これは」


ココロの声が二重に響いた。

ひとつは自分の声。もうひとつは下からの声。


ココロはゆっくりとしゃがみ込み、足元へ手を伸ばした。指先が海面へと触れるが水ではない。押し込もうとすると強く弾かれるような抵抗が返ってくる。

だがその境界の向こうには、はっきりと“別の世界”が存在している。青い空が揺れ、赤い鳥居が静かに立っている。

この境界がそれらすべてを隔てていた。


ココロはゆっくりと視線を上げると、上下対称の鳥居が立っていた。

だがそれは、先ほど見たものとは明らかに異なる。形は同じ。構造も同じ。だが色が違った。

焼け焦げたような黒ずんだ色。ところどころが腐食し、表面が剥離したように崩れている。まるで長い時間をかけて侵食され続けたかのような歪んだ門。


あちらが本来の層。ならばここは──

ジュジュの淡々とした声が響く。


「ここが異常領域です」


その時、聞きなれた声がココロの耳に届いた。


「……ココロ殿?」


ココロは思わず声のした方へ視線を向ける。

白に黒のラインが入った球体──

いつものユユの姿だった。


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