第29話「浸蝕」
「……ココロ殿?」
ココロは思わず声のする方へ視線を向けると、いつもの見慣れた白に黒のラインが入った球体──
目をパチパチするユユの姿があった。
「……ユユさん、ですの?」
呼びかける声にわずかな戸惑いが混じる。
先ほどまで感じていた空間の圧迫感や歪みが、この存在の前だけほんの少し薄らいだような気さえした。
「ユユは防衛用小型機構体ユニットのユユでアリマス!」
明るく張りのある声が返ってくる。
抑揚も語尾も言葉の運び方も。これまで記録してきたユユの発話パターンと一致している。
ココロの思考がわずかに緩む。
(……間違いありませんわね)
反応速度、受け答えの間、状況認識。いずれも自然で異常と断定できる要素は見当たらない。視認情報も一致している。目の前にいるのはいつものユユだった。
「ここで、何をしてますの?」
ココロは一歩踏み出しながら問いかける。
「待っているでアリマス!」
即答するユユの返答はいつも通りで迷いがない。
「ご主人の指示を待っているでアリマス!」
その言葉がわずかに引っかかる。
しかし、ココロの足はお構いなしにさらに一歩前に出た。
「──待って」
低く抑えた声が差し込まれるのと同時に、黒の手がココロの肩を掴んだ。
「それ以上近づかないで」
その声にはいつもの軽さはなく、明確な拒絶と警戒を出していた。
ココロは動きを止めて振り返る。
「……どういう意味ですの?」
黒は無言のままじっと前方を見据えていた。
微動だにせずユユはそこにいる。再び同じ声が響く。
「……ココロ殿?」
何もおかしくはない。おかしくないはずなのに、ココロの感情演算が微かな異常値を返し続ける。
その数値はやがて無視できない違和感へと変わり、胸の奥で静かに広がっていった。
「見えてるでしょ?それ」
「ええ。ユユさん、ですわ」
即座に返したその言葉に僅かな迷いが含んでいた。
「はぁ?」
黒の声にわずかな苛立ちが混じり
「ですから、ユユさんですわ。何を──」
そう言いかけたところで
「違うでしょ!」
ココロの言葉を遮るように黒が口を挟み、そのまま視線を外さずに続けた。
「あんなの、球っころじゃない」
場の空気がわずかに軋み、ココロの思考が一瞬だけ停止した。
「……何が、違うと?」
静かに問い返すと、黒は淡々と確信を持って言った。
「黒いのよ、全身が! 呪詛で覆われてるし、腹の中にうねうねした影も見えてる……」
その説明はココロの認識とは一切一致しない。
「わたくしには……見えていませんわね」
わずかな間を置いて答えながら、ココロは自身の視覚情報を再確認するが、そこにあるのはやはり白と黒の球体──損傷のない通常のユユの外装だった。
「白と黒の球体。通常の外装。損傷なし。挙動も正常ですわ」
冷静な分析結果を述べると
「……やっぱり、既に食われてる」
黒の呟きが低く落ちる。
「……食われてる?」
その言葉の意味を捉えきれず、思わず隣のジュジュへ視線を向けた。
この状況を正確に把握できる存在。この認識の食い違いに対して何らかの判断を示してくれるはず。
しかし、ジュジュは何も答えてはくれなかった。ただ静かにその場を見つめているだけで、その視線がほんのわずかに逸らされたような気がした。
その沈黙がココロの中にさらに違和感を落とした。
「ココロ殿、ここは安全でアリマス」
不意にユユの声が割り込む。
「ここでユユと一緒にご主人を待つでアリマス」──キィィィン
その言葉の最中、金属を引き裂くような鋭いノイズが重なった。
(?……今の……)
その発生源を捉えようとした時には既に金属音は消えていた。何事もなかったかのように静寂が戻る。
一瞬の思考が遅れた隙に、ユユがココロの方へ接近してきた──
「紫藤はここには来ないわ」
牽制するように黒が告げた。
その言葉に対してユユはわずかに首を傾げるような仕草で黒を見上げる。
「シドウ?」
ほんの一瞬の沈黙。そして、何の迷いもなくユユは続けた。
「それは誰でアリマスか?」
ココロの心拍が跳ね上がった。
(──違う)
それは疑うまでもなく確信だった。
(……黒は、最初から見抜いていた)
ココロはわずかに視線を伏せたままそう結論づける。目の前にある存在をユユではないと黒は断じていた。
そこに迷いはなかった。躊躇も再確認もなく、ただ見たままをそのまま口にしていた。
(干渉を受けていない……いえ、違いますわね)
受けていないのではない。通用していなかった。
その違いがココロの中で静かに重みを持つ。
ココロはゆっくりと黒の方へ視線を向けた。
言葉は交わずとも、交差した視線の中で互いの思考が触れ合う。
(……なぜ、あなたは影響を受けていないんですの?)
黒の瞳がわずかに細められる。
(気づかない?あの呪詛……真白のものよ)
淡々とした応答。
(それより、今はそっちじゃない)
その一言で意識が引き戻された。
ココロは小さく息を吸い、目の前の存在へと向き直った。
「紫藤様は、ユユさんのご主人ですわ」
静かに、けれどはっきりと告げる。その言葉をユユは黙って受け止めた。
「……欠落データを確認するでアリマス」
ユユはゆっくりとその場で向きを変え、すぐ傍に立っていた鳥居へと何の躊躇もなく噛みついた。
「……っ」
ココロの呼吸がわずかに止まる。
ガジ、ガジ、ガジ──
木を噛み砕く乾いた音が響く。
その動作には感情がまるでない。ただ処理として必要な動作を実行しているだけのように見えた。
噛みつくたびに鳥居の表面に走っていた黒い染みのようなものが剥がれ落ち、同時に内部からじわりと腐食が広がっていく。
ミシミシと軋む音。
崩れかけた木片がぱらぱらと地面へ落ちていく。
(……情報を、食っている)
黒の中にその理解が浮かび上がる。
「離れて」
黒がココロの前へと一歩踏み出す。
その背中が明確に壁として立ちはだかる。
やがてユユは噛みつくのをやめ、ゆっくりと顔を上げた。
「……データ同期完了でアリマス」
その声は先ほどまでと何も変わらない。
しかし、その中身が変質していることを二人はすでに理解していた。
「織籠紫藤」
一語ずつ区切るように発せられる。
「ご主人の標的」
「コードネーム:シロカラス」
「計画失敗、別ルートで調査続行」
「現在拘束中」
その情報はあまりにも整然としていて、だからこそ現実味を帯びていた。
(……拘束)
その単語がココロの内部で静かに反響する。
「あなたの……ご主人の名前は?」
ココロはゆっくりと問いかけると、ユユの動きがわずかに停止した。
「ユユのご主人の名前は──」
──キィィィィン
先程よりも鋭く耳の奥を引き裂くような金属音が言葉の核心を塗り潰した。
ノイズが消えたあとには、何事もなかったかのように後半だけが継ぎ足される。
「……でアリマス」
ココロは険しい目つきになった。
(意図的に……遮断されていますわね)
その理解と同時にユユの視線がゆっくりと持ち上がり、まっすぐにココロと黒を捉えた。
「対象確認」
その声には先ほどまでの揺らぎがない。感情の層だけを削ぎ落とされたような平坦で乾いた響き。
「ご主人の計画に障害となる対象AI」
「認証一致」
そして──
「排除するでアリマス」
その宣告と同時に、ココロの視界に張り付いていたものが剥がれた。
網膜に重ねられていた擬装フィルターが、危機信号に反応するように解除された。
目の前にいた白と黒の球体は、本来の姿としてココロの網膜に入り込んでいく。
全身黒い毛で覆われた外殻と体内で蠢く影像。デジタル情報であるはずのそれは、まるで生き物のように歪んでいた。
(……認識擬装。そういうことですのね)
ココロは静かに目を細める。
──既に食われてる。
黒の言葉がようやく現実として結びついた。
同時に空間の圧がわずかに沈み込む。
見えない重みが場を押さえつけ、逃げ場そのものを閉じていくような感覚がココロを襲う。
ユユの胴体中央が音もなく裂けた。
口のように大きく開いたその奥は、光を吸い込むように暗く何かが蠢いていた。
そこから吐き出されたのは黒い束だった。
一見すれば黒いワイヤーのように見えるが、その実体は無数の細い繊維。髪の毛のようなものが雑に撚り合わされた集合体であり、一本一本に瘴気が絡みついていた。それが一直線に向かって伸びた。
「……っ」
反応する間もない速度で迫る。
ココロが息を呑んだ瞬間、二人を遮るようにジュジュが割り込み、その小さな球体がすべてを受け止めた。
「ジュジュさん!?」
ココロの声が跳ねる。
ジュジュは回避も防御も取らず、迫り来るそれを観測するように静かに受け入れた。
黒い束が螺旋を描きながら巻き付き、その小さな球体を一瞬で拘束する。
ギリッと軋む圧がかかり、締め付けが一段階強まった。
ワイヤーを伝って何かが流れ込んでくる。
それは呪詛とウイルスが合成された浸蝕コード。
ジュジュの外殻に触れた瞬間から内部へと浸透を開始していた。
それでもジュジュは抵抗もせず、むしろその侵入を受け入れるかのように静かに停止していた。
まるで最初からそれを待っていたかのように。
その時、ジュジュの白い外殻の表面に微細な光が走った。
ジュジュがとった行動は、侵入経路の特定であり浸蝕コードの解析だった。
その構造が分解され、再構築のための演算が連鎖的に立ち上がる。
「──灰燼浄化プロトコル、起動」
ぽつりと落ちた声と同時に、ジュジュの内部から蒼い光が滲み出た。
それは存在の定義を書き換える蒼い炎。バチバチと破裂音が弾け、黒い束が内側から崩壊を始める。
炎は瞬時に全体へと伝播し、そのまま逆流するようにユユへと駆け上がった。
「……ァ……リ……」
引き裂かれたような声がかすかに漏れ、ユユの姿が静かに地面へ沈んでいく。
「……っ」
ココロは視線を走らせるがどこにも反応がない。
音も気配もその残滓すらも。
ただ張り詰めた静寂だけがその場に残されていた。
(……どこから来る)
ココロの思考が張り詰めたそのとき、ジュジュがわずかに顔を上げた。
視線は上空。
ゴオォォォォォ──
空間そのものが裂けるような低い轟音が響いた。
「……上ですわ!」
ココロの叫びと同時に空が歪んだ。黒い影が急速に膨張しそれは落ちてくる。
隕石のような質量を伴い、真っ赤な炎を帯びて一直線に降下するのは巨大化したユユだった。
「そこを動かないでください」
ジュジュは二人へそう告げると、その小さな球体が唸るように高速回転を始め、地面を滑るように加速した。
その軌跡が光を残す。
一本の線。二本。三本。
描かれた光が交差し、やがてココロと黒を中心に六芒星が形成された。地面に描かれた光が立体へと拡張され、空間そのものを包み込む結界へと変わる。
その直後、巨大な火の固まりが激突した。
轟音と重力の負荷が結界全体にのしかかった。光の結界が揺らぎ、全体にヒビが走る。
だが崩れることはなく、結界内側の三人までは衝撃は届かなかった。
「ねぇ……あいつって何者なの?」
黒が呆れたように呟く。
「防疫AI……と自ら言ってましたわ」
ココロの声にも、わずかな迷いが混じる。
「聞いたことない」
「ええ……わたくしたちと構造が違います」
その会話の最中。
巨大な固まりは音を立てて崩れ始めた。
崩れた破片の中からは、元の大きさの球体が顔を出しゆっくりと起き上がった。
その動きには先ほどまでの機敏な動作はなく、重心がずれたかのように傾きながらよろよろ動く。
どろっと黒い液体がひび割れた隙間からこぼれ、そのもたつく足取りはゆっくりと鳥居へと向かっていく。
ガジ、ガジ、と乾いた音が響く。
木を削る音に混じって内部から腐食が広がっていく不快な気配が漂う。
黒く染まった表面が剥がれ落ちるたびに、何か別の層まで削り取られていくような感覚があった。
ミシミシと音を立てながら鳥居全体に亀裂が走る。
そして──
あっけないほど簡単に崩れた。
「……っ」
ココロの喉がわずかに鳴る。
(修復……いえ、補填……?)
その理解が追いついた時には、既に変化は起きていた。
黒い煙のようなものが内部から漏れ出し、外装の壁がぽろぽろと崩れ始めた。それは壊れているのではなく内側から押し広げられていた。
ひび割れた隙間から異様に長い何かが突き出す。それが脚であると理解した瞬間、ココロの背筋を冷たいものが走った。
さらにもう一本。球体だった外装が内側から引き裂かれるように崩壊した。
そこに現れたのは、黒い体毛に覆われた異形の躯。狼のような体躯。だが均衡は崩れている。
四肢は異様に長く、人間の骨格を無理やり引き伸ばしたような不自然さを帯び、口元には剥き出しの牙が並び、その奥で暗い空洞が脈動していた。
まさしく人狼と呼ばれる姿へと変化した。真っ黒なその眼は、焦点が定まらないまま上下左右へと激しく動き続ける。
視線が合った瞬間、身体の自由を奪われるような圧倒的な恐怖を孕んでいた。
「……あれが、本来の姿……?」
ココロの声がかすかに揺れる。
そして──
「ヴォォォォ……!」
低く唸り声を上げた異形が地面を抉るように蹴り上げ、一瞬で姿を消した。
「っ──!」
ジュジュが防壁を展開しようとした、その刹那。
間に合わない。
重い衝撃が直撃し、その小さな球体は弾かれるように宙へ跳ね上がり、そのまま遠くへと吹き飛ばされた。
「ジュジュさん!」
ココロの叫びが響く。
「……かなりまずいんじゃない?」
黒は距離を取るように後退するが、目だけは決して逸らさなかった。
逸らした瞬間、喉笛を食い千切られる確信があった。
ココロはわずかに息を整え前を見据えたまま答える。
「ですが……ここは物理ではありません」
その声にはすでに迷いはなかった。
「データなら──制御してみせますわ」
異形の人狼が唸りを上げ、空間そのものが震えた。
そして再び突進。
「来ますわ!」
ココロは両手を合わせ目を閉じた。思考のすべてを演算へと投入する。
空間座標。衝撃ベクトル。侵食パターン。
それらを瞬時に組み上げながら防壁を展開した。
一層。
二層。
三層。
幾重にも重ねる。
その表面には解呪コードが張り巡らされ、衝突のたびに呪詛そのものを削り取る構造となっていた。
「まだ……ですわ……」
演算は止めない。
その時、空間の歪みとともに人狼が忽然と姿を消した。
「──っ、来ます!」
ココロの意識が極限まで研ぎ澄まされる。処理速度はすでに限界を突破している。
現実のココロの肉体が耐えきれず、鼻先からは赤黒い液体が流れ落ちた。
その頃、ガレージでは──
「えっ……ココちゃん!?」
あまゆりとユカリは、ココロの身体が小刻みに震えていることに気づいた。
「な、なんで!?……鼻からオイル出てる……!」
あまゆりが慌てて顔を覗き込む。指先が頬へ触れた瞬間、反射的に手を引っ込めた。
「熱っ……!?」
「ユカリちゃん、どうしたらいいの!? ココちゃん壊れちゃうよ!?」
蜘蛛型の機体が静かに動く。
(これは……過負荷状態? 演算処理が限界値に達してます……)
『まずは冷却優先ですぅ。外部温度を下げれば少しは回復するかと』
「冷やすもの、冷やすもの……あっ!」
あまゆりは弾かれるように立ち上がりリビングへと駆け出した。
すぐさまガレージへ戻ってきたあまゆりの両手には扇風機。コンセントに電源コードを差し込み、スイッチを押した。
ブンと音を立てて扇風機が回り始める。
さらに近くにあったうちわを掴み、必死に風を送り始めた。
「がんばって、ココちゃん!あまが冷やしてるから大丈夫だよ!」
ココロの視界が歪んでいく。
自身の腕がわずかに崩れていた。表面の質感が消え、輪郭が乱れ、断片的な記号へと変換されていく。
(……処理が追いついていませんのね……)
視界の端で自分自身が消えかかっている。
演算が破綻すれば、この場に存在することすら維持できない。
だが──
ふと熱が引いてきた。
不安定だったココロの輪郭が再び形を取り戻していく。
崩れていた領域が静かに収束していった。
(……外部からの補助ですの……?)
その感覚だけで十分だった。
ココロはゆっくりと息を整えて再び前を見据える。
「──まだ、終わっていませんわ」
視界の中で世界がゆっくりと動き始める。
人狼の姿すら捉えられるほどにココロの思考速度は限界まで加速していた。
その集中を叩き割るように
バリンッ──
最外層の防壁が砕け散る。
二層目、三層目。
衝突のたびに連鎖的に破断しガラスのように割れていく。
同時に人狼の表層からは黒い瘴気が削り取られていた。
防壁に組み込まれた解呪ロジックが接触と同時に侵食コードを分解している。
(……通っていますわね)
しかし、人狼の爪が振り抜かれるたび瘴気が逆流する。
防壁表層に書き込まれたアルゴリズムが侵食され、構造そのものが書き換えられていく。
防御は成立している。だが維持が追いつかない。
ココロの目前、残距離はわずか。
最終層へ到達した時、人狼の爪が突き刺さる。
高密度演算で構築された最内殻。それでも完全には受けきれない。
侵食された構造がひび割れ、長い爪がその隙間を縫って滑り込む。
長く鋭い爪がココロの首元をかすめた。
皮膚が裂け、熱が走る。
それでも──
「……止めましたわ」
ココロの声がかすかに震えた。
だが、人間を丸飲みする程の大きな口を開いた人狼が防壁そのものを噛み砕いた。
「今ですわ!!」
ココロの叫びが空間を裂く。
横合いから影が飛び出した。
一瞬の静止。
黒が全身の力を拳に乗せる。
「どきなさいよぉぉ!!」
解呪コードを纏った拳を人狼の横顔に叩き込んだ。
ぐしゃりと鈍い音だけを残し、頭部は跡形もなく消えた。
首から上を失った人狼の身体がそのまま数歩よろめき、やがて力を失ったように膝をつく。
支えを失った巨体は、前のめりに崩れかけながらぴくりとも動かなくなった。
静寂が時間そのものを押し潰す。
ココロはしばし視線を外さず、演算の残滓を押し殺すようにゆっくりと息を整えたあと、ようやく小さく口を開いた。
「……停止を確認。これで……終わり、ですわね」
声はかすかに掠れていたが、その判断は揺らがない。
残留していた侵食パターンも検出されず、対象は完全に沈黙していた。
隣で黒が肩を回し深く息を吐く。
「……はぁ、やっと終わった? まじでしぶとかったわね」
張り詰めていた空気がほんのわずかに緩む。
戦闘の熱が引き、ようやく終わりという言葉が現実味を帯び始める。
──そのときだった。
崩れ落ちた人狼の指先が、ぴくりとかすかに動いた。
その変化は見逃してもおかしくないほどのものだったが、ココロの演算はそれを異常として即座に拾い上げる。
「まさか、まだ……」
言葉が最後まで形になる前に変化は加速した。
人狼の爪先に付着していた赤い断片がじわりと広がる。
血のように見えるそれは、ココロの構成要素──祈り因子と解呪コードが視覚化された情報の断片。
その断片は引き寄せられるように爪の内部へと吸収される。
まるで捕らえた獲物を取り込むかのように、人狼はそれを自らの内部へと引き込んでいった。
(……適応している……?)
理解が追いつくよりも早く、変化は全身へと波及した。
崩れていた人狼の身体が内側から泡立つように蠢き始める。
筋繊維のように見えていた構造が解け、黒い粒子となって再配列されていく。
消失していた頭部の断面に粒子が集中する。
寄せ集められるように、しかし元の形態をなぞるのではなく、最適化された構造として再構築されていく。
骨格に相当するフレームが形成され、その上を瘴気が覆う。
歪んだ外殻が接合され、最後に顔が形を持つ。
それは先ほどまでのものとは明らかに異質な存在──
進化した再構築。
「……嘘でしょ」
黒が吐き捨てる。
人狼の巨体がゆっくりと起き上がる。
関節の駆動は先ほどよりも滑らかで無駄がない。
その動きは力任せの暴走ではなく、明確な制御を感じさせるものへと変わっていた。
ココロの視線が無意識に自分の首元へと落ちる。指先で触れたそこには、わずかな損傷の痕跡が残っている。皮膚が裂けた感覚と同時に放出されたあの情報断片。
(……あのときの爪)
答えは目の前にあった。人狼はココロの構成情報を取り込み、解呪コードの構造を解析し、それを自らの内部へと組み込んでいる。
その結果──
「……防壁ロジックの挙動、変わってますわね」
ココロの声が低くなる。
人狼が一歩踏み出した。その軌道は無駄がなく、先ほどのような直線的な突進ではない。
最短距離かつ最適な角度、ココロの防御展開を読んだ動き。
それは獣の動きではなくこちらの演算結果を逆算しているかのようだった。
「……は?」
黒の声がわずかに歪む。
人狼の輪郭が揺らいだかと思うと、その巨体が空間を裂くように加速した。
ココロの予測演算が即座に追従する。
だが──
(追いつかない……!?)
数手先の動きがすでに上書きされている。
人狼の口元がわずかに開く。
直後、低く唸るような振動が空間全体へと広がった。
「……っ……広域干渉……!」
ココロの輪郭がわずかに乱れ、表層に展開していた保護層が音もなく削り取られていく。
「……外殻プロテクトが、機能していませんわね」
超音波に近いそれは構造を持つすべてに干渉し、防壁ロジックの基盤そのものを揺さぶっている。
ココロが構え直す。そして同時に理解していた。
これはさっきまでの敵ではない。
「……っ、来ますわ!」
その言葉が空間に響いたときには、人狼はすでに踏み込んでいた。
ココロの予測演算が衝突位置を割り出すよりも早く、距離と位置の基準そのものがずれていることに気づく。
「右ですわ!」
声と同時に黒が身体をひねり、視線ではなく直感に近い反応で回避行動へと移った。
その軌道をなぞるように振り下ろされた人狼の爪が髪先を掠め、同時に黒の拳がカウンターとして人狼の側面へ叩き込まれる。
衝撃は確かに通った。外殻は歪み内部構造が一瞬露出する。だが、その壊れたはずの状態は維持されず、歪みはその場で最適化されるように補正されていく。
「効いてんのに……戻ってんじゃないわよッ!」
黒はその違和感を理解する前に踏み込みを重ね、拳、肘、膝と連続する打撃で人狼の構造を削り取っていく。
しかし破壊は蓄積されない。まるで壊された事実そのものがなかったことにされるかのように、連続攻撃は結果だけを奪われていく。
その間にもココロの演算は止まらない。
人狼の外殻表面へ瞬間的に熱を収束させ、そのまま急冷することで膨張率の差を強制的に発生させる。
「温度差で歪ませますわ」
構造の均衡を崩し内部から歪ませる狙いは成功したが、外殻に微細な亀裂が走る程度でそれすらも学習対象として取り込まれていく。
「まだ、足りませんわね……!」
続けてココロは、空間の一部を一点に押し潰すように圧縮した。
その演算集中によって生まれた一瞬の隙へ、人狼の意識が向いたのを見て黒が強引に踏み込む。
あえて大振りの一撃を叩きつけることで、その視線と意識を自分へ固定した。
「こっち見なさいよ!」
挑発と同時に連続する打撃で距離を詰める。防御も回避も捨てた強引な前進に人狼の対応は黒へと固定される。
ココロはその背後で圧縮を限界まで引き上げる。
空間がわずかに軋み、不可視の圧力が一点へと凝縮していく。
黒はその異常な圧力を背中越しに感じ取っていた。
「──いまっ!!」
叫びと同時に黒の身体が横へと弾けるように飛ぶ。
直後、圧し固められていた空間が一気に解き放たれ、見えない壁のような衝撃が一直線に走った。
その衝撃が人狼へ直撃し、黒の打撃と重なる形で巨体を内側から圧壊するように歪ませる。
外殻は悲鳴のように軋み、各部の接合が強制的にずれていく。
確かに崩壊しかけた。
外殻には無数の亀裂が走り、構造そのものが崩れ落ちかける。
だが次の瞬間には、崩壊した箇所は修復されるのではなく、演算によって再構築されていく。
壊したはずの部位がより効率化された構造へと最適化されていた。
「ねえ、これ……終わりが見えない!」
黒の言葉にココロは頷いた。ただ視線を人狼から外さず、その挙動の変化を追い続ける。
さきほどまでの力任せの突進ではない。踏み込み、重心移動、関節の可動域、すべてが最短かつ最適に収束している。
その変化を確信したときだった。
空間が歪む。
足元の位置感覚がずれ、距離の認識が一瞬で書き換えられる。移動したのではない、自分のいる座標そのものが変更されたのだと理解したときには、すでにココロは人狼の目前に引き寄せられていた。
「なっ──」
防壁展開の演算がわずかに遅れる。その遅延はこれまでなら誤差の範囲だった。しかし、いまの人狼にとっては致命的な隙となる。
大きく開いた顎。
次の瞬間、牙がココロの肩口へ食い込んだ。
「──っ、あ……!」
痛覚はなく、侵入される感覚が神経回路を伝う。外殻プロテクトの内側へ直接何かが流し込まれ、強制的に書き込まれていく。
視界が歪み、思考は乱れ、自己認識の境界が揺らいだ。
「離れてッ!!」
黒の叫びと同時に人狼の身体が反転し、そのまま黒へと襲いかかる。
同じ動き、同じ捕食。
牙が黒の肩へと突き立てられるが、黒は一瞬も怯まずそのまま静止した。
「こちとら……あの子の呪詛には、もう慣れてんのよ!!」
吠えるように吐き捨てながら人狼の頭部を掴み、そのまま強引に引き剥がして拳を叩き込む。
一撃、二撃、三撃と連続する打撃がその巨体を弾き飛ばす。
地面を削りながら転がる人狼から視線を外さず、黒はそのままココロの元へ駆け寄ると、崩れ落ちかけているココロの肩へ口を当て、迷いなく吸い上げる。
「っ……!」
流れ込んだ呪詛を逆流させるように引き抜く。浄化というよりは強制排出に近い荒い処置だったが、ココロの内部で暴走しかけていた侵食が徐々に沈静化していく。
「……はぁ……っ……助かりましたわ……」
「礼はあと、まだ終わってない」
短く言い切る黒の視線の先で人狼がゆっくりと起き上がる。その動きは先ほどよりもさらに静かで、無駄がない。
四足へと姿勢を落とし、低く構えたまま音もなくこちらへと近づいてくる。
ココロの前に黒が一歩出る。
「下がってなさい」
その言葉に従うようにココロがわずかに後退する一方で、人狼は歩みを止めない。一定の距離まで詰めたところでゆっくりと腕を持ち上げ鋭い爪を伸ばす。
その動きには迷いがなく、確実に仕留めるという意思だけが感じられた。
だがそのとき、人狼の動きがぴたりと止まった。
鼻先がわずかに動き、空間を嗅ぐように震える。続いて耳がわずかに揺れ何かを探るように静止する。
──何かがここへ来る。




