第十八章 それでも、名前を呼ぶから
あの夜の記憶を超えて、朝がやってきた。
寮の食堂には、湯気の立つパンとスープの香りが漂っていた。
何も変わらない光景なのに、ユウの心は、少しだけ違っていた。
──彼女の名前を、ちゃんと呼べた。
──自分の気持ちを、少しだけ言葉にできた。
それだけのことが、胸の奥で灯りのように残っている。
ノエルは向かいの席に座り、スプーンを小さく動かしていた。
ふたりの視線が、そっと重なる。
何も言わずに、それだけで通じ合うような空気があった。
──だけど。
それをかき消すように、突然、
建物の外から【警鐘】が鳴り響いた。
「えっ……!?」
数秒の沈黙。
それから、廊下の奥から教師たちの足音が聞こえてくる。
「全員、落ち着いて! いったん食堂に集まって!」
指示の声が飛び交う。
生徒たちのざわめきの中、ノエルが小さく息を飲んだ。
ユウはすぐに立ち上がり、彼女の手を取った。
「大丈夫。俺が一緒にいるから」
ノエルはこくんと頷いた。
だが──彼女の感情の色は、微かに揺らいでいた。
不安と、もうひとつ。
何か、遠くを見ているような。
◇
それからすぐ、学院の中庭に生徒たちが集められた。
教師が一人、前に立ち、告げた。
「学院の結界が、外側から一部だけ、強引に破られました」
ざわめきが広がる。
「誰が……?」
「まさか、外敵……?」
「なんで今、こんなときに……」
教師は重い口調で続ける。
「詳細はまだ分かりません。ただ──この中に、
“その人物を知っている者がいる”可能性があります」
空気が凍った。
視線が、ざらざらと周囲をなぞっていく。
ノエルは、俯いていた。
小さく、唇をかみながら。
「……まさか、君の──」
ユウが問いかけようとした瞬間、
彼女の感情が色づいた。
──それは、「恐れ」ではなかった。
──覚悟、だった。
ノエルは、静かに前へ出た。
その場の教師たちが驚いたように彼女を見つめる。
「……その人に、心当たりがあります」
その一言に、周囲がざわめく。
「わたし、探しに行きます。……あの森へ」
教師が止めようと手を伸ばすよりも早く、ユウが彼女の前に出た。
「一人じゃ行かせない」
ノエルが、はっとしたように顔を上げる。
「──ユウ……」
「名前を呼んだのは、俺だ。だったら最後まで、君の隣にいる」
沈黙。
そして、彼女は深く頷いた。
その目に、確かに「決意の色」が宿っていた。
◇
ふたりは、学院の外へ。
木々がざわめく、かつての“森”へと足を踏み入れた。
そこは、ノエルがかつて閉じこめられていた場所。
記憶を失い、感情も曖昧だったあの時間。
今はもう、恐れはない。
ただ、あの“誰か”に伝えなければいけない。
「──名前を呼ぶことが、ここに“在る”ことの証なんだって」
風が吹き抜ける。
何かが、遠くで気配を揺らしていた。
「ユウ、見える?」
「……うん。感情が……濁ってる。怒りと、喪失感。何か、すごく……」
言葉にできないほどの強さが、向こうにある。
ノエルは震える指を重ね、そっとユウの手を取った。
「行こう。“わたし”が、終わらせなきゃいけない」
それは、名前を取り戻した少女の、はじまりの決意だった。
──空気が、変わった。
森の奥へと踏み込むたび、感情の濃度が増していく。
言葉ではない“気配”が、ユウの胸を締めつけた。
ノエルの手を引きながら、彼は足を止める。
「この先に……いる。ずっと、見ていた」
「……誰?」
ノエルがそう呟いた瞬間、
風の中から現れたのは、一人の少女だった。
白い服。白い髪。
どこか、ノエルに似た雰囲気を纏っている。
──だが、その瞳には色がない。
まるで、感情そのものを失ったような“無”。
ユウはその姿を見た瞬間、確信した。
「“君”が、ノエルの記憶を縛っていた存在なんだね」
少女は答えない。ただ、首をゆっくり横に振る。
「記憶は、奪っていない」
「……わたしは、“守っていた”だけ」
その声は、風に溶けていくように淡い。
「この子が、また壊れないように。誰にも傷つけられないように」
「だから──感情を閉じたの。名前も、言葉も、世界も」
ユウは、黙ってその言葉を聞いていた。
ノエルが小さく震えながら、少女に一歩、近づく。
「それでも……それでもわたしは、思い出したかった」
「わたしの名前を呼んでくれた人がいて、
怖くても、悲しくても、あのときのことを、ちゃんと向き合いたかった」
少女の瞳に、僅かに揺れが走る。
「でも、あの夜、あなたは泣いてた。だから、守ったのに──」
「泣いたっていい。忘れたくなかった。あの涙が、確かに“わたし”だったから」
ノエルの声は、強くはなかった。けれど、確かだった。
──その“揺れ”が、少女の身体を少しだけ軋ませる。
「じゃあ……もう、“わたし”はいらないんだね」
その言葉に、ユウがすかさず声を返す。
「違う。君も、“ノエル”なんだ。心を守ってくれた、大切な存在だよ」
「君がいてくれたから、ノエルはここにいる」
少女がゆっくり顔を上げる。
色のなかった瞳が、ほんの僅かに──薄い青に染まっていた。
「──じゃあ、お願い。
もう一度、“名前”を呼んで。ほんとうの、彼女の名前を」
ノエルは、深く息を吸い込んだ。
世界が、静かになった。
──ただ一つの音だけが、そこに響く。
「……リシア」
その名を呼んだ瞬間、少女の身体がふわりと光を帯びて、
──そして、静かに霧のように溶けていった。
風が止まり、森の中に光が差し込む。
ノエルは、手を胸に添えたまま、動かない。
ユウがそっと隣に立つ。
「大丈夫?」
ノエルは、微笑んだ。
それはこれまでで一番、自然な笑顔だった。
「ありがとう、ユウ。名前を、呼んでくれて」
◇
学院へ戻る道すがら、ふたりは何も言わなかった。
だけど、手はつながれていた。
──名前を呼ぶということ。
それは、相手を“この世界に存在させる”ということ。
感情が見えるこの世界で、
彼女のすべてを“受け止めたい”と思ったから、呼んだ名前。
それが、ユウ自身の“答え”だった。
「ねえ、ユウ」
ノエル──いや、リシアが、ふと口を開いた。
「わたしのこと、全部思い出してくれて、嬉しかった」
「でもね、これからは──“わたし自身”の足で、歩いていきたい」
「……うん」
ユウは迷わず頷いた。
「その隣に、俺もいられたら、嬉しい」
リシアが、小さく頷いて、
そして、またひとつ名前のない笑顔を見せた。




