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第十八章 それでも、名前を呼ぶから


あの夜の記憶を超えて、朝がやってきた。


 


寮の食堂には、湯気の立つパンとスープの香りが漂っていた。

何も変わらない光景なのに、ユウの心は、少しだけ違っていた。


 


──彼女の名前を、ちゃんと呼べた。

──自分の気持ちを、少しだけ言葉にできた。


それだけのことが、胸の奥で灯りのように残っている。


 


ノエルは向かいの席に座り、スプーンを小さく動かしていた。


ふたりの視線が、そっと重なる。


何も言わずに、それだけで通じ合うような空気があった。


 


──だけど。


それをかき消すように、突然、

建物の外から【警鐘】が鳴り響いた。


 


「えっ……!?」


 


数秒の沈黙。

それから、廊下の奥から教師たちの足音が聞こえてくる。


「全員、落ち着いて! いったん食堂に集まって!」


指示の声が飛び交う。

生徒たちのざわめきの中、ノエルが小さく息を飲んだ。


 


ユウはすぐに立ち上がり、彼女の手を取った。


「大丈夫。俺が一緒にいるから」


ノエルはこくんと頷いた。


だが──彼女の感情の色は、微かに揺らいでいた。


不安と、もうひとつ。


何か、遠くを見ているような。


 


 



 


それからすぐ、学院の中庭に生徒たちが集められた。


教師が一人、前に立ち、告げた。


 


「学院の結界が、外側から一部だけ、強引に破られました」


 


ざわめきが広がる。


「誰が……?」


「まさか、外敵……?」


「なんで今、こんなときに……」


 


教師は重い口調で続ける。


「詳細はまだ分かりません。ただ──この中に、

“その人物を知っている者がいる”可能性があります」


 


空気が凍った。


視線が、ざらざらと周囲をなぞっていく。


ノエルは、俯いていた。


小さく、唇をかみながら。


 


「……まさか、君の──」


ユウが問いかけようとした瞬間、

彼女の感情が色づいた。


──それは、「恐れ」ではなかった。


 


──覚悟、だった。


 


ノエルは、静かに前へ出た。


その場の教師たちが驚いたように彼女を見つめる。


 


「……その人に、心当たりがあります」


その一言に、周囲がざわめく。


「わたし、探しに行きます。……あの森へ」


 


教師が止めようと手を伸ばすよりも早く、ユウが彼女の前に出た。


「一人じゃ行かせない」


 


ノエルが、はっとしたように顔を上げる。


「──ユウ……」


「名前を呼んだのは、俺だ。だったら最後まで、君の隣にいる」


 


沈黙。

そして、彼女は深く頷いた。


その目に、確かに「決意の色」が宿っていた。


 


 



 


ふたりは、学院の外へ。


木々がざわめく、かつての“森”へと足を踏み入れた。


 


そこは、ノエルがかつて閉じこめられていた場所。

記憶を失い、感情も曖昧だったあの時間。


今はもう、恐れはない。

ただ、あの“誰か”に伝えなければいけない。


「──名前を呼ぶことが、ここに“在る”ことの証なんだって」


 


風が吹き抜ける。


何かが、遠くで気配を揺らしていた。


 


「ユウ、見える?」


「……うん。感情が……濁ってる。怒りと、喪失感。何か、すごく……」


 


言葉にできないほどの強さが、向こうにある。


ノエルは震える指を重ね、そっとユウの手を取った。


 


「行こう。“わたし”が、終わらせなきゃいけない」


 


それは、名前を取り戻した少女の、はじまりの決意だった。



──空気が、変わった。


森の奥へと踏み込むたび、感情の濃度が増していく。

言葉ではない“気配”が、ユウの胸を締めつけた。


 


ノエルの手を引きながら、彼は足を止める。


「この先に……いる。ずっと、見ていた」


「……誰?」


ノエルがそう呟いた瞬間、

風の中から現れたのは、一人の少女だった。


白い服。白い髪。

どこか、ノエルに似た雰囲気を纏っている。


──だが、その瞳には色がない。


まるで、感情そのものを失ったような“無”。


 


ユウはその姿を見た瞬間、確信した。


「“君”が、ノエルの記憶を縛っていた存在なんだね」


少女は答えない。ただ、首をゆっくり横に振る。


 


「記憶は、奪っていない」

「……わたしは、“守っていた”だけ」


 


その声は、風に溶けていくように淡い。


「この子が、また壊れないように。誰にも傷つけられないように」


「だから──感情を閉じたの。名前も、言葉も、世界も」


 


ユウは、黙ってその言葉を聞いていた。


ノエルが小さく震えながら、少女に一歩、近づく。


 


「それでも……それでもわたしは、思い出したかった」


「わたしの名前を呼んでくれた人がいて、

 怖くても、悲しくても、あのときのことを、ちゃんと向き合いたかった」


 


少女の瞳に、僅かに揺れが走る。


「でも、あの夜、あなたは泣いてた。だから、守ったのに──」


「泣いたっていい。忘れたくなかった。あの涙が、確かに“わたし”だったから」


 


ノエルの声は、強くはなかった。けれど、確かだった。


──その“揺れ”が、少女の身体を少しだけ軋ませる。


 


「じゃあ……もう、“わたし”はいらないんだね」


 


その言葉に、ユウがすかさず声を返す。


「違う。君も、“ノエル”なんだ。心を守ってくれた、大切な存在だよ」


「君がいてくれたから、ノエルはここにいる」


 


少女がゆっくり顔を上げる。


色のなかった瞳が、ほんの僅かに──薄い青に染まっていた。


 


「──じゃあ、お願い。

 もう一度、“名前”を呼んで。ほんとうの、彼女の名前を」


 


ノエルは、深く息を吸い込んだ。


 


世界が、静かになった。


 


──ただ一つの音だけが、そこに響く。


 


「……リシア」


 


その名を呼んだ瞬間、少女の身体がふわりと光を帯びて、

──そして、静かに霧のように溶けていった。


 


風が止まり、森の中に光が差し込む。


 


ノエルは、手を胸に添えたまま、動かない。


ユウがそっと隣に立つ。


「大丈夫?」


 


ノエルは、微笑んだ。


それはこれまでで一番、自然な笑顔だった。


 


「ありがとう、ユウ。名前を、呼んでくれて」


 


 



 


学院へ戻る道すがら、ふたりは何も言わなかった。


だけど、手はつながれていた。


 


──名前を呼ぶということ。


それは、相手を“この世界に存在させる”ということ。


感情が見えるこの世界で、

彼女のすべてを“受け止めたい”と思ったから、呼んだ名前。


それが、ユウ自身の“答え”だった。


 


「ねえ、ユウ」


ノエル──いや、リシアが、ふと口を開いた。


「わたしのこと、全部思い出してくれて、嬉しかった」


「でもね、これからは──“わたし自身”の足で、歩いていきたい」


 


「……うん」


ユウは迷わず頷いた。


「その隣に、俺もいられたら、嬉しい」


 


リシアが、小さく頷いて、

そして、またひとつ名前のない笑顔を見せた。

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