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第十七章 君とまた、名前を


──朝。


空はまだ青く染まりきらず、雲の隙間から細い陽光が差し込んでいる。


その光の中で、少女はぽつんと立っていた。


ノエル──


それが、本当の彼女の名前だった。


 


「昨日の夜、夢を見たの」


 


ノエルは、ユウに向かってそう言った。


「誰もいない真っ白な世界で……わたしは、ずっと何かを探してた。でも、どこにもなくて……」


「……何を探してたの?」


「名前だよ」


 


ユウは、何も言わず彼女の横に並ぶ。


その距離が、今はもう怖くなかった。


 


「でもね、そこでユウが来てくれた。小さい頃のユウだったけど……」


「……」


「そのユウが、わたしに手を伸ばしてくれたの。『君の名前は、ノエル』って言ってくれた」


 


彼女は、そっと胸元を押さえる。


──そこに、まだ鼓動が残っているかのように。


 


「そしたら、目が覚めたら……ちゃんとここにいたの。わたし、まだ消えてなかった」


 


ユウもまた、彼女を見つめていた。


どこか頼りなくて、透明で、でも確かに“そこにいる”存在。


名前があるというだけで、こんなにも彼女が“生きている”ことが証明されるなんて──


 


「……戻ってきてくれて、ありがとう」


「こちらこそ、忘れずにいてくれてありがとう」


 


ほんの短い、けれど深く沈むような静かな会話だった。


そこにあったのは、涙でも、笑顔でもなく。


ただ、失われていたものが“戻ってきた”という、確かな実感だけだった。


 


 



 


学舎に戻ったふたりを、ラナが駆け寄って迎えた。


「遅いよ! 何があったの? こっちは心配して……!」


──ラナは、途中で言葉を詰まらせた。


 


「……え?」


 


彼女の目が、ノエルに向けられる。


けれど、そこには昨日までのミルフィの雰囲気がなかった。


微細な表情の揺れ、佇まいの静けさ、まなざしの深さ。


同じ姿で、まったく違う“誰か”がそこにいる──


ラナは、すぐにそれを察した。


 


「もしかして……名前、思い出したの?」


「うん。ノエルっていうの。……これが、本当のわたし」


 


ラナは、しばらくノエルの瞳を見つめたあと、ふっと笑った。


「そっか。……おかえり、ノエル」


 


それはまるで、ずっと遠くに旅していた友達を迎えるような、あたたかい一言だった。


ノエルは、ほんの少しだけ微笑んだ。


 


「ありがとう」


 


──その横で、ユウは何かを飲み込むように口を閉じていた。


名を与え、名を返され、そして再び隣に立った少女。


でも、それで終わったわけじゃない。


 


彼の中で、なにかが“始まり直そう”としていた。


 


 



 


夕刻。


ユウは一人、寮の中庭に立っていた。


日が落ちる少し前の空気は、すこし肌寒い。


手元にあるのは、ノエルから預かった“ノート”。


彼女が失った時間を記すために、彼女自身が書き残していたもの。


 


(……これ)


 


ページをめくると、そこには誰かに宛てたメッセージが綴られていた。


──「もしわたしが、名前を忘れてしまったら」


──「もし、また“わたし”じゃなくなったら」


──「そのときは、あなたがわたしの名前を呼んで」


 


──「わたしの名前は、ノエル」


 


(……全部、残してたんだ)


 


彼女は、自分が消えてしまうかもしれない未来に備えて、

名前の“居場所”をこのノートに託していた。


 


──それでも。


「こんなふうに、帰ってきてくれるなんて……」


 


小さく、ユウは呟いた。


そして、胸の奥にそっと手を当てた。


名前とは、呼ばれることだけじゃない。


“覚えていてくれる人”がいること──


それが、彼女を彼女に戻したのだ。


 


そして今──


ユウは、もう一度名前を呼ぶ決意をした。


 


「ノエル──」


 


声に出して、空に放ったその言葉は。


ほんの少し、夕焼け色に染まった風に乗って、どこかへ届いていった。


──夜の帳が下りる少し前、

ノエルは静かに、寮の裏庭へと足を運んだ。


薄く風が吹き抜ける草の匂い。

空にはまだ星が浮かばず、空白のような青さが残っていた。


 


ユウは、そこにいた。


灯りもなく、ただ風の音だけがふたりの間を満たしていた。


 


「来てくれたんだ」


「……うん」


 


それだけで、会話の続きを求めず、ノエルは隣に立つ。


しばらくして、ユウはノートを差し出した。


「君が書いてたんだね。……名前を、託して」


 


ノエルは、小さく笑った。


「忘れてしまうのが、こわかったから。

誰かに“わたし”を思い出してもらえるように、残したの」


 


その声に、かすかな震えが混じっていることを、ユウは気づいた。


恐怖が、名の底には眠っていた。


 


「──でも、思い出してもらえた。

 だから、今は……ちゃんと“ここ”にいられる」


 


そう言って、ノエルは小さな手を差し出した。


ユウは、ためらいなく、その手を取った。


 


「……ありがとう。ノエル」


「名前で、呼んでくれてありがとう」


 


ふたりの手のひらが重なった場所から、

見えない何かがゆっくりと“結ばれて”いく。


それはスキルではない。

契約でもない。ましてや魔力でもない。


 


──それはただ、“絆”と呼べるものだった。


 


「……ねえ、ユウ」


「うん?」


「わたし、これから……“感情”をちゃんと見つけていきたい。

 全部、他人の感情だけじゃなくて、自分のも。……忘れないように」


 


「うん、俺も……同じだよ」


 


感情が見えるスキルなんて、最初は重荷だった。


でも、今は少し違う。


「見えた感情が“きれい”だって思える瞬間がある。

 君の名前を思い出してくれたときも。……今も」


 


ノエルは、目を細めて微笑んだ。


そして、小さく──


「──それって、好きってこと?」


 


ユウの瞳が揺れる。


 


「……わかんない。でも、たぶん、きっとそう」


 


その返事に、ノエルは黙ってうなずいた。


何も言わず、手を握る力をすこしだけ強くする。


 


言葉では定義できない。


でも、今、確かにここにある。


それがきっと、“答え”なんだと思えた。


 


 



 


夜が深まり、ふたりは寮へと戻る。


途中で、ラナとすれ違う。


「なんだか……空気が変わったね。ふたりとも」


そう言って笑うラナに、ノエルは静かに頷いた。


「うん。少しだけ、変われた気がするの」


 


「へえ……なんだか、大人みたいじゃん」


そう茶化すラナの声は、どこか嬉しそうだった。


 


──廊下の先で、鈴の音が鳴る。


風に揺れた飾りが、かすかにチリと響いた。


 


 



 


夜。


ユウは、ひとりベッドの中でノートを開いていた。


そこにはまだ、空白のページが残っていた。


その一枚に、彼はゆっくりとペンを走らせる。


 


──「今日、君の名前を呼んだ」


──「君がそこにいてくれたことを、忘れないように」


──「きっと明日も、明後日も、その先も──」


 


書き終えた文字を見つめながら、ユウは目を閉じた。


感情が見える世界に、初めて“自分の感情”を持ち込めた気がした。


 


それはきっと、“心を返してもらった”ような感覚だった。


 


 


──誰かの感情を救うことは、自分の感情を知ることでもある。


──名を与えることは、誰かの存在を肯定すること。


──そして。


──「名前を呼ばれる」ことは、その人がこの世界に“いる”と証明されること。


 


それを、彼は今日、確かに知った。


 


 



 


そして──翌朝。


ユウの部屋の扉を、ノエルがそっとノックした。


 


「ユウ。朝、だよ」


 


カーテンの隙間から陽が差し込んでいる。


まるで、昨日までの夜を照らし返すように。


 


「うん、すぐ行くよ」


 


ユウは立ち上がり、ドアを開けた。


その先で微笑む彼女の名前を、

彼はもう一度、心の中でしっかりと呼んだ。


 


──ノエル。


 


 


ふたりは並んで廊下を歩き、今日という日を迎えに行った。


どこか遠くで、また鈴が鳴る。


 


感情が見える世界の中で、


ようやく“名前のあるふたり”が、同じ場所に立っていた。

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