第十九章 涙を編んだその先に
「──ここに来るの、なんだか久しぶりな気がする」
学院の裏庭、木陰にある静かなベンチに、リシアが腰を下ろした。
夕方の光が差し込む中、彼女の髪が風に揺れる。
もう“ノエル”という仮の名ではなく、本来の自分──リシアとしてそこにいた。
ユウは少し離れた位置から、その姿を見つめていた。
彼女の背中は、どこか遠くを見ているようで、
けれど確かに“今”に在ると感じさせるものだった。
「リシア、調子はどう?」
「うん、大丈夫。なんだか、心が軽くなった感じがする」
ベンチの隣に腰を下ろすと、彼女はそっと目を閉じた。
「……あの子が消えてから、ようやく思い出せたの。
わたしが、どうして泣いていたのか。どうして、感情を閉じていたのか」
ユウは言葉を返さない。ただ、彼女の言葉を受け取る準備だけをした。
「わたしね──昔、家族と離れ離れになったの」
「戦争のせいだった。わたしだけが、取り残されて、
森の奥に逃げ込んで……そこで、“あの子”が現れた」
──もうひとりの自分。無垢で、空白で、優しかった影。
「感情を閉じる代わりに、痛みも消えた。記憶も、名前も、
何もかも、綺麗な箱の中にしまい込んで……ただ、生きてた」
リシアは微笑んだ。
「でも、ユウが名前を呼んでくれて。思い出すのは苦しかったけど、
今は、全部……“大切なわたし”だったんだって、思える」
ユウはゆっくりと頷いた。
「それを教えてくれたのは、リシアの方だよ」
「俺は、感情が見えるだけで……でも、君がその感情を真正面から受け止めた」
リシアの頬に、ほんの少し赤みが差す。
──沈黙が、あたたかく流れた。
そのとき、リシアがふと空を見上げる。
「ねえ、ユウ」
「うん?」
「わたし……“感情が見える”って、どういうことなのか、ようやく少しだけわかった気がするの」
「それって、“相手の痛みを見捨てない力”なんだね」
ユウの目が揺れた。
言われたことのない言葉だった。
「見えるだけじゃ、何も変えられないって思ってた。
でも、ユウは“変えてくれた”。
見たからこそ、わたしを見捨てなかった」
──涙が一粒、彼女の頬を伝う。
それは悲しみではなく、
どこか、心の奥に置き去りにしていた温かい何かだった。
「リシア……」
ユウは、手を伸ばした。
彼女の涙に、触れようとして。
けれど、そこに別の気配が差し込んだ。
──鈍い音。
──空気の重み。
振り返ったユウの視線の先、
学院の石畳の向こうから、一人の人物が歩いてきていた。
「ようやく、見つけた」
低く、どこか機械のように整った声だった。
黒衣の青年。その背には、感情を帯びた奇妙な装置が浮いている。
「“感情感知スキル”保持者──志水ユウ。
そして、“記憶接続者”──リシア・エルフェリア。回収対象だ」
──敵だ、と直感でわかった。
ユウは即座に立ち上がり、リシアをかばうように前に出る。
「誰だ、お前……!」
男は名乗らなかった。ただ、感情の波が、強烈に──ユウの中に流れ込む。
それは、“無感情”ではなかった。
──拒絶。恐怖。怒り。そして、喪失。
「こいつ……感情が、壊れてる……!」
リシアがユウの腕を掴んだ。
「逃げよう、ユウ。今は……!」
「いや。ここで、逃げたら──リシアがまた、何かを失う気がする」
「だから、俺が──このスキルで、守る」
「下がってろ、リシア──これは、俺の戦いだ」
ユウはゆっくりと前へ出た。
手にしたのは、武器でも魔法でもない。
彼の掌に宿るのは、“感情”という名の見えざる剣だった。
黒衣の青年は動かない。
だがその周囲には、まるで空気が揺れるような、
異常なまでの圧力が満ちていた。
──感じる。
この男の中には、感情が“欠落”している。
けれど同時に、それ以上に──
“感情の濁流”が渦巻いていた。
「回収する。お前たちは、この世界に存在してはいけない」
「……存在してはいけない?」
「俺たちは、“感情の均衡”を保つ者だ。
均衡を乱す異常なスキルは、削除対象に分類される」
リシアが小さく息を呑む。
ユウはその言葉に、一歩も退かず答えた。
「……均衡なんてもののために、誰かの想いを切り捨てるっていうのか?」
「感情は、時に世界を破壊する。
お前のような“他人の感情に干渉する能力”は、最も危険だ」
「──だからこそ、向き合うんだよ!」
ユウの叫びと同時に、風が裂けた。
黒衣の男が動いた。手にした奇妙な円環装置から、
淡い光の矢が放たれる。
ユウは飛び込む。
目で追っても間に合わないはずの動き。けれど──
彼のスキルは、“感情”の先を読む。
恐れ。敵意。殺意。
それらの“波形”が来る前に──彼は横に跳び、身を滑らせる。
「くっ……!」
地面を削るような光線が、ベンチを焼き砕いた。
リシアがすぐに結界を張って後退する。
「ユウ、無理しないで!」
「……まだ、大丈夫だ」
ユウは立ち上がる。
だが、呼吸が浅くなっていた。
黒衣の男は、感情の読めない目で彼を見下ろす。
「やはり不安定だな。“感情感知スキル”など──歪みの塊だ」
「違う。“感情”は、歪みじゃない」
「それは、“生きてる証拠”だろ」
一瞬、男の動きが止まった。
そこを、ユウは見逃さなかった。
──この男にも、“過去”がある。
今は壊れているかもしれない。けれど、感情が消えたわけじゃない。
「お前も──誰かの感情を、受け取ったことがあるはずだ」
「忘れてるだけだ。閉じたんだろ?」
「黙れ」
「過去は不要だ」
その声に、かすかに震えが混じっていた。
ユウのスキルが、何かに触れた証だった。
──“喪失”の感情。
──“守れなかった誰か”への記憶。
「誰を、失った?」
「……」
「誰の感情を、閉じてきた?」
男の目が揺れた。
その隙に、ユウは踏み込む。
スキルの核心──“感情の同調”を限界まで引き出す。
「俺は、お前を“壊す”んじゃない」
「お前の“感情”を、“取り戻す”!」
閃光。
ユウの手が、男の胸元に触れた瞬間──
爆発的な“感情の渦”が、世界を覆った。
怒り、悲しみ、絶望、愛情、痛み、後悔、祈り。
まるで嵐のように、断ち切られた心が暴れ出す。
──その中心に、ひとつの記憶があった。
──小さな女の子。
──雪の中で、手を引いていたあの日。
──守れなかった。彼女は消えた。
──だから、自分も“感情を捨てた”。
「……ノア……」
男が、崩れるように膝をついた。
ユウはその肩に手を置く。
「思い出せてよかったな」
しばらくの沈黙。
そして、黒衣の男の目から──一筋の涙が落ちた。
──日が暮れていく。
学院の裏庭は、静寂に包まれていた。
「ユウ、君……無茶するよね」
リシアが苦笑混じりに声をかける。
「でも……あの人、少しだけ救われた気がする」
ユウは疲れ切った表情のまま、頷く。
「スキルなんて、ただの力だ。
でも、誰かのために使えたら──少しだけ、意味がある気がする」
──その時、ユウの視界に、彼女の感情が浮かんだ。
“安堵”。
“慈しみ”。
そして──“小さな恋心”。
「……見えてる?」
「ちょっとだけな」
「……恥ずかしい」
リシアはぷいと顔をそらす。
だが、その横顔は、ほんのりと赤かった。
──感情が見える世界で、
君の気持ちを見つけたことが、何よりの救いだった。




