第十五章 新たな居場所
「……もう大丈夫だ。心配するな」
その声を最後に、セレナの意識は深い闇へと沈んでいった。
どれほど眠っていたのだろう。
次に目を覚ましたとき、彼女の目に映ったのは見知らぬ天井だった。
柔らかな寝台。窓から差し込む朝の光。そして、部屋の隅に置かれた小さな机。
身体を起こそうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
「……っ」
「目が覚めたか」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには一人の男が座っていた。
黒髪に、鋭い眼差し。
先ほど自分を抱えていた男だった。
「あなたは……」
「ゼインだ。森で倒れていた君を見つけた」
「森……そう、私……」
セレナの脳裏に、炎に包まれる村の光景が蘇る。
倒れた両親。
紫色の魔法を見て怯える人々。
そして、自分を殺そうとした教団の兵士たち。
「……っ!」
思わず身を縮めたセレナを見て、ゼインは静かに口を開いた。
「無理に話さなくていい」
「でも……私……」
「今は休め。話は、それからでいい」
それ以上、彼は何も尋ねなかった。
その優しさが、かえってセレナの胸を締めつけた。
誰かに事情を聞かれることも、力を恐れられることもない。
ただ、休んでいいと言われた。
それだけのことが、今の彼女には信じられないほどありがたかった。
「……ありがとう、ございます」
小さな声で礼を告げると、ゼインはわずかに頷いた。
「礼はいらん。まずは身体を治せ」
セレナは再び横になった。
目を閉じても、両親の最期や、クラリスと過ごした日々が頭から離れない。
もう、あの場所には戻れない。
大好きだった友達にも、もう会えないかもしれない。
それでも――。
自分は、まだ生きている。
その事実だけを胸に、セレナは静かに眠りについた。
◇ ◇ ◇
数日後。
ようやく歩けるまでに回復したセレナは、ゼインとともに小さな町を訪れていた。
「これから、どうするつもりだ?」
町の外れを歩きながら、ゼインが尋ねた。
セレナは足を止めた。
「……わかりません」
本当だった。
行く場所もない。
頼れる人もいない。
教団に見つかれば、再び命を狙われるかもしれない。
「私……もう、あそこには戻りたくありません」
震える声で、セレナは言った。
「聖剣教団には……絶対に」
ゼインは彼女の顔を見つめた。
「そうか」
それだけだった。
理由を問い詰めることも、教団に戻るよう説得することもない。
「なら、戻らなければいい」
「……え?」
「行きたくない場所へ、無理に戻る必要はないだろう」
あまりにも当たり前のように告げられ、セレナは言葉を失った。
「だが、この先も一人で生きていくのは簡単じゃない。特に、今の君にはな」
ゼインは町の一角にある家へと視線を向けた。
「少し、付き合ってもらうぞ」
そこには、穏やかな雰囲気の夫婦が暮らしていた。
ゼインとは以前から面識があるらしく、二人は彼の姿を見ると、すぐに家の中へ招き入れた。
「久しぶりだな、ゼイン」
「元気そうで何よりだ」
短い挨拶を交わしたあと、ゼインはセレナを二人に紹介した。
「この子を、しばらく預かってもらえないだろうか」
夫婦はセレナを見つめた。
彼女は思わず俯いた。
また、魔法を見られたら。
また、恐ろしいものを見るような目を向けられたら。
そう考えるだけで、身体が強張った。
しかし、女性はゆっくりとセレナの前にしゃがみ込んだ。
「こんにちは。セレナちゃん、でいいのかな?」
「……はい」
「そう。私はマリア。こっちは夫のロランよ」
隣に立つ男性も、優しく微笑んだ。
「よろしくな」
セレナは戸惑いながら、小さく頭を下げた。
マリアは彼女の表情を見て、何かを察したように微笑みを深めた。
「無理に話さなくてもいいのよ。ここでは、ゆっくり休んでいけばいいからね」
「……どうして?」
気がつけば、セレナはそう尋ねていた。
「どうして、私に優しくしてくれるんですか?」
マリアは一瞬だけ目を伏せた。
「私たちにはね、昔、子供がいたの」
セレナは息を呑んだ。
「でも、病気で亡くなってしまって……もう一年になるわ」
マリアは悲しみを隠すように微笑んだ。
「だからといって、あなたにその子の代わりになってほしいわけじゃないのよ」
その言葉に、セレナは顔を上げた。
「あなたは、あなたでしょう?」
「……っ」
「悲しいことがあったのなら、今は少しでも安心して暮らしてほしい。それだけよ」
セレナの目に、涙が浮かんだ。
両親を失ってから、初めてだった。
自分の力でも、能力でもなく。
ただ、一人の人間として受け入れてもらえたのは。
「……ありがとう、ございます」
声が震えた。
止めようとしても、涙が頬を伝って落ちていく。
マリアは何も言わず、そっと彼女を抱きしめた。
セレナもまた、その胸に顔を埋めた。
ずっと張り詰めていた心が、少しずつほどけていく。
「……うっ、うぅ……」
嗚咽を漏らすセレナの背中を、マリアは優しく撫で続けた。
ロランもまた、何も言わずにその姿を見守っていた。
やがて、セレナの涙が落ち着いた頃。
ゼインが口を開いた。
「二人とも、セレナを頼む」
「ええ。任せてちょうだい」
マリアは力強く頷いた。
「この子は、私たちが守るわ」
セレナはその言葉を聞き、もう一度、深く頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
その声には、ほんの少しだけ、未来への希望が宿っていた。
◇ ◇ ◇
それから、しばらくの時が流れた。
セレナはマリアとロランの家で暮らしながら、少しずつ元気を取り戻していった。
最初のうちは、知らない人の声を聞くだけで身構えてしまうこともあった。
魔法を使うことにも、恐怖が残っていた。
自分の中にある力が、再び誰かを傷つけるのではないか。
その不安は、簡単には消えなかった。
それでも、二人は急かさなかった。
食卓にはいつも温かな食事が並び、夜になれば「おやすみ」と声をかけてくれる。
そんな何気ない日々が、セレナの心を少しずつ癒やしていった。
ある日の夕暮れ。
セレナは窓辺に立ち、空を眺めていた。
茜色に染まる空の向こうに、遠い故郷の景色が浮かぶ。
父と母の笑顔。
クラリスと過ごした時間。
そして、燃え上がる炎の中で失われたもの。
「……お父さん、お母さん」
小さく呟く。
「私……まだ、生きてるよ」
胸元を握りしめ、セレナは目を閉じた。
「……クラリス」
親友の名前を呼ぶ声が、わずかに震える。
もう二度と会えないかもしれない。
それでも、彼女と過ごした日々まで失われたわけではなかった。
一緒に笑ったこと。
泣いたこと。
自分の魔法を恐れず、ありのままの自分を受け入れてくれたこと。
それらは今も、セレナの胸の中に残っている。
「……私、もう少し頑張ってみるね」
涙を拭い、セレナは顔を上げた。
いつか、自分の力を恐れずに生きられる日が来るだろうか。
誰かを傷つけるためではなく、誰かを守るために魔法を使える日が来るだろうか。
今はまだ、わからない。
けれど――。
自分を受け入れてくれる人がいる。
それだけで、前を向く理由には十分だった。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。
その光を見つめながら、セレナは静かに微笑んだ。
彼女はまだ知らない。
この先、遠い辺境の村で、彼女の力を恐れることなく、同じ目線で向き合ってくれる人々と出会うことを。
そして、その出会いが、彼女の運命を大きく変えていくことを。
今はただ、新しい居場所で、一歩ずつ歩き始めたばかりだった。
◇ ◇ ◇
その頃――。
聖剣教団の追っ手から逃れ、遠く離れた土地を歩く一人の男がいた。
かつて教団に仕えた騎士。
今では、村人を虐殺し、村を焼き払った裏切り者として、その名を広く知られる男。
カシアン・ヴェイル。
彼が事件のあと消息を絶ってから、すでに数年の時が過ぎていた。
死んだのではないか。
どこかで野垂れ死んだのではないか。
人々はそう噂し、やがて彼の存在を忘れ始めていた。
しかし、カシアンは生きていた。
教団が隠した真実を、その身に刻みつけたまま。
仲間を失ったあの日。
研究施設で知った、おぞましい計画。
そして、自分たちを消し去ろうとした者たちの正体。
すべてが、彼の脳裏に焼きついていた。
教団は罪を認めるどころか、すべての責任を彼一人に押しつけた。
村人を殺したのも。
仲間を裏切ったのも。
村を焼き払ったのも。
すべてカシアンの仕業だと。
その嘘を信じた者たちは、彼を悪と断じた。
だが、カシアンは弁明しなかった。
真実を知らない者たちに、言葉を尽くしても意味はない。
彼がすべきことは、ただ一つ。
教団が隠し続けている罪を暴くこと。
そして、その裏で糸を引く枢機卿の企みを止めることだった。
カシアンは足を止めた。
薄暗い空の下、彼の手には一本の剣が握られていた。
黒銀の刀身。
その奥底には、禍々しくも静かな魔力が眠っている。
魔剣――《ネメシス》。
復讐と応報を象徴する、始原剣の欠片を宿した特別な魔剣。
カシアンは剣の柄を強く握りしめた。
「……必ず、暴いてやる」
低く、冷たい声が漏れる。
「お前たちが何を犠牲にし、何を企んでいるのか……すべてをな」
その眼差しに、迷いはなかった。
かつて正義を信じた騎士は、もういない。
そこにいるのは、教団の闇を知り、その罪を暴こうとする一人の男だった。
カシアン・ヴェイル。
彼の復讐は、まだ終わっていない。
そして、その先に待つ運命を、彼自身もまだ知らなかった。
第十五章 完




