第十四章 闇に追われた少女
重厚な扉に閉ざされた会議室には、張り詰めた空気が漂っていた。
長い机を囲むように、教団の司祭たちが席についている。その視線は、机の中央に置かれた二枚の報告書へと集中していた。
聖剣グランセリオ。
そして、聖剣アストレア。
どちらも教団が誇る聖剣であり、選ばれた使い手に強大な力を与える存在だった。
だが、現在、その二本からは聖なる力が完全に失われていた。
「……報告は以上です。グランセリオ、アストレアともに聖なる力は完全に消失。剣そのものは残っていますが、いずれも本来の力を発揮できる状態ではありません」
報告を終えた司祭が、重苦しい表情で頭を下げた。
「ほかの聖剣に異常は?」
会議の上座に座る男が尋ねた。
強硬派代表、バルドである。
鋭い眼差しと厳格な顔つき。彼は教団の教義を絶対視し、闇の魔法を危険なものとして排除すべきだと考えていた。
「現時点では、ほかの聖剣に異常は確認されておりません」
「原因は分からない、ということか」
「はい。現在、調査を進めております」
バルドは不快そうに眉をひそめた。
「二本もの聖剣から聖なる力が失われるなど、前代未聞だ。原因を突き止めるまで、聖剣庫の管理を厳重にしろ。何者かが聖剣に干渉した可能性もある」
「承知しました」
司祭が下がると、会議室に再び沈黙が訪れた。
そのときだった。
「失礼いたします」
扉が開き、一人の女性が入室した。
クラリスだった。
彼女は三人の代表に一礼すると、緊張を押し殺した声で告げた。
「ご報告があります。先日の魔剣追跡任務で、セレナと遭遇しました」
その名が出た瞬間、会議室の空気が変わった。
「……何だと?」
バルドが目を細める。
「セレナは生きております」
「馬鹿な。あの娘は死んだはずだ」
「私も、そう聞かされておりました。しかし、間違いありません。本人と直接対峙しました」
クラリスは一度言葉を切った。
「彼女は全属性の魔法を自在に操り、さらに魔力をまとった剣を使用していました。私と騎士と兵士で対処しましたが、止めることはできませんでした圧倒的力でした」
「全属性の魔法……それに、魔力をまとった剣だと?」
バルドの顔から、険しさが増していく。
「やはり、あの娘は危険な存在だったのだ」
「お待ちください」
静かに口を開いたのは、穏健派代表のルシアンだった。
彼は感情に流されることなく、魔法の属性だけで人間の善悪を決めつけるべきではないと考えていた。
「セレナが生きていた。それが今回の報告です。彼女がどのような力を使おうとも、まずは事実を確認し、本人の意思を確かめるべきでしょう」
「意思だと? 闇の魔法を持つ者を野放しにしておくつもりか!」
「彼女が誰かを傷つけたというのであれば、その事実をもとに判断すべきです。闇の魔法を使うというだけで、罪人と決めつけることはできません」
「甘いな。力が強大であるほど、危険も大きくなる」
「その考え方こそが、彼女を追い詰めたのではありませんか?」
ルシアンの言葉に、バルドの眉がぴくりと動いた。
「……何が言いたい?」
「また独断先行するおつもりですか? 前回も教団の正式な決定を待たず、勝手に動いたのではありませんか?」
ルシアンの声が会議室に響いた。
ほかの司祭たちが、互いの顔を見合わせる。
バルドは一瞬だけ口を閉ざしたが、すぐに冷淡な表情を取り戻した。
「教団を守るために必要な判断だった。あの娘を生かしておけば、いずれ取り返しのつかない事態を招いていた」
「それは、あなたの判断にすぎません」
「だから、すぐに処分しておけばよかったのだ」
バルドは吐き捨てるように言った。
その言葉を聞いた瞬間、クラリスの脳裏に、かつて対峙したセレナの姿がよみがえった。
恐怖と怒りを宿した瞳。
そして、今も耳に残る、震えを押し殺した声。
『あなたたちは、また私を殺す気?』
クラリスは思わず唇をかみしめた。
セレナは、今も教団を恐れている。
そして、その恐怖を生み出したのは、ほかでもない強硬派の司祭たちだった。
「……一つ、よろしいでしょうか」
沈黙を破ったのは、中立派代表のノルンだった。
彼はほかの二人と違い、セレナを排除すべきか、保護すべきかという議論そのものに興味がないようだった。
「彼女が聖と闇、両方の魔法を扱えるのであれば、それは教団にとって極めて貴重な存在です」
「何が言いたい?」
バルドが問う。
「排除するにせよ、保護するにせよ、彼女の力を理解してからでも遅くはないということです。あれほど特殊な魔法を使える人間は、そう簡単には見つかりません」
「危険を承知で利用しろと?」
「危険だからこそ、管理する価値があるのです、報告を聞くかぎりセレナの力は魅力的ではありませんか?」
ノルンは淡々と続けた。
「彼女の力が聖剣の異変と関係している可能性も否定できません。もし関係があるなら、なおさら放置はできないでしょう」
「彼女を道具として扱うおつもりですか?」
ルシアンが険しい表情を向ける。
「道具という言い方は適切ではありません。教団にとって有益な存在であれば、その力を活用する。それだけの話ですよ、もしその力を有効に活用出来れば我々教団はさらなる高みに昇ることになるでしょう」
三人の意見は、どこまでも交わらなかった。
排除を主張するバルド。
本人の意思と命を重んじるルシアン。
そして、セレナの力を教団の利益に変えようとするノルン。
その議論を聞きながら、クラリスは思っていた。
バルトとノルン彼らは、セレナのことを本当に理解しようとしているのだろうか。
彼女が何を願い、何を失い、なぜ教団から逃げなければならなかったのか。
誰も、そのことを知ろうとはしていない。
クラリスは静かに目を伏せた。
その心は、遠い過去へとさかのぼっていった。
セレナがまだ、何も恐れずに笑っていた頃へ――。
*
聖剣教団が運営する孤児保護施設。
そこには、親を失った子供や、さまざまな事情で家族と暮らせなくなった子供たちが集められていた。
食事と寝床が与えられ、読み書きや簡単な学問を学ぶ。年長の子供たちは司祭見習いとして、掃除や洗濯などの仕事も手伝っていた。
子供たちにとって、そこは生活を守ってくれる場所だった。
セレナもまた、そんな子供の一人だった。
幼い彼女は、ある日、施設の庭で一人の少女と出会った。
「ねえ、あなたのお名前は?」
声をかけてきた少女が、にっこりと笑う。
「……セレナ」
「私はクラリス! よろしくね、セレナ!」
差し出された手を、セレナは少し戸惑いながら握った。
それが二人の出会いだった。
最初は遠慮がちだったセレナも、クラリスの明るさに触れるうち、少しずつ笑顔を見せるようになった。
二人は一緒に勉強し、庭を走り回り、ときには司祭見習いの仕事をさぼって叱られることもあった。
「セレナ、早く! こっちだよ!」
「待って、クラリス!」
そんな何気ない日々が、セレナにとって大切な時間になっていった。
やがて、施設の子供たちを対象に、魔法の適性を調べる検査が行われることになった。
魔力を測定するための器具が用意され、子供たちは一人ずつ、その前に立たされた。
ほとんどの子供は、魔力を持っていなかった。
魔力が確認された子供は、専門的な教育を受けるため、別の施設へ移されることになっていた。
セレナの番が来たのは、午後のことだった。
「それでは、手をかざしてごらんなさい」
司祭に促され、セレナは測定器にそっと手を伸ばした。
次の瞬間、器具の内部がまばゆい光に包まれた。
「なっ……!」
司祭が目を見開く。
測定器に示された数値は、ほかの子供たちとは比較にならないほど高かった。
「これほどの魔力が……」
司祭の声に、驚きが混じる。
やがて、彼はセレナの頭に手を置き、満足そうに微笑んだ。
「素晴らしい才能です。あなたなら、いつか聖女になれるかもしれませんね」
「聖女……?」
「ええ。多くの人々を救う、立派な存在です」
その言葉を聞いたセレナの顔が、ぱっと明るくなった。
「私も、人を助けられるの?」
「もちろんです」
「じゃあ、私、頑張る! たくさん勉強して、みんなを幸せにする!」
その無邪気な言葉に、周囲の司祭たちも笑顔を見せた。
セレナは魔法の教育を受けるため、専門の施設へと移ることになった。
クラリスとは離れ離れになるはずだったが、幸いにも彼女も魔法の適性を認められ、同じ施設へ移ることが決まった。
「よかったね、セレナ!」
「うん! これからも一緒だね、クラリス!」
二人は手を取り合い、これから始まる新しい生活に胸を躍らせた。
そこには、まだ疑いも恐れもなかった。
セレナは毎日のように魔法の訓練に励んだ。
彼女には聖なる魔法の才能があった。治癒や防御の魔法を覚えるたび、誰かを助けられる可能性が広がっていく。
訓練で傷を負った仲間を癒やし、魔法をうまく扱えずに落ち込む子供を励ます。
セレナは、自分の力を人のために使うことを何よりも喜んだ。
「セレナは本当にすごいね。きっと、本物の聖女になれるよ」
クラリスがそう言うと、セレナは照れくさそうに笑った。
「そんなことないよ。でも、みんなが笑ってくれるなら、私、もっと頑張りたい」
彼女の未来は、明るいものに思えた。
少なくとも、その日までは。
ある日の訓練中、セレナは魔法の制御に集中していた。
両手の間に、いつものように聖なる光が集まっていく。
しかし、次の瞬間だった。
光の奥から、別の色をした魔力がにじみ出した。
黒に近い、深い紫色。
それは聖なる光を打ち消すことなく、まるで互いを受け入れるように、セレナの手の中で渦を巻いた。
「……え?」
セレナ自身も、何が起きているのか分からなかった。
魔力はさらに強まり、聖なる光と闇の魔力が同時に輝きを放つ。
訓練場にいた司祭たちの笑顔が、消えた。
「その魔力は……!」
一人の司祭が後ずさる。
「闇の魔法だと……?」
別の司祭は、信じられないものを見るようにセレナを見つめていた。
「聖なる魔法と闇の魔法を、同時に扱っているのか……!」
セレナは慌てて魔力を抑えようとした。
「ち、違うの! 私、何も悪いことは……!」
だが、司祭たちの表情は変わらなかった。
先ほどまで彼女を褒めていた者たちが、まるで恐ろしい怪物でも見るかのように距離を取っていく。
「近づけるな!」
「何かの異常ではないのか?」
「このままでは危険だ……!」
「待ってください! セレナは何もしていません!」
クラリスが間に入ろうとした。
けれど、司祭たちの視線はセレナから離れなかった。
セレナは震える手を見つめた。
自分の魔法は、誰かを助けるためのものだった。
なのに、どうして。
「……私、みんなを幸せにしたかっただけなのに」
小さな声は、誰にも届かなかった。
それから、セレナに対する周囲の態度は少しずつ変わっていった。
訓練の内容は制限され、司祭たちは彼女を警戒するようになった。
かつて「未来の聖女」と呼んだ口から、今度は「危険な存在」という言葉が漏れる。
セレナには、その理由が分からなかった。
聖なる魔法を使うことも、闇の魔法を使うことも、彼女にとっては同じ自分の力だった。
それなのに、片方の力が現れただけで、周囲のすべてが変わってしまったのだ。
クラリスだけは、変わらずセレナのそばにいた。
「私は怖くなんかないよ、セレナ」
「……本当に?」
「うん。だって、セレナはセレナでしょ?」
その言葉に、セレナは涙をこらえながら笑った。
そのときの彼女は、まだ信じていた。
いつか自分の力を理解してもらえる日が来ると。
しかし、教団の強硬派が定めた価値観は、幼い少女の願いを受け入れようとはしなかった。
*
セレナには、両親との記憶があった。
教団に保護されるよりも前の、遠い日の記憶。
小さな村で、父と母と三人で暮らしていた頃のことだ。
父は闇の魔法を使い、母は聖なる魔法を使う
二人の力は正反対のものだと、周囲から言われることもあった。
それでも、両親が互いの力を否定することはなかった。
母が聖なる魔法で怪我人の傷を癒やせば、父は闇の魔法で不安に苦しむ村人の心を落ち着かせた。
眠れない者の心を静め、深い悲しみを抱えた者の苦痛を和らげる。
父の闇の魔法は、誰かを傷つけるためだけの力ではなかった。
村人たちは、二人を頼りにしていた。
「お父さん、どうしてお母さんと違う魔法なの?」
幼いセレナが尋ねたことがあった。
父は少し考えたあと、彼女の頭を優しくなでた。
「魔法が違うからって、心まで違うわけじゃないんだよ」
「心?」
「そうだ。大切なのは、その力を何のために使うかだ。人を傷つけるために使うこともできる。でも、誰かを守るために使うことだってできる」
隣にいた母が、穏やかに微笑んだ。
「お父さんの言うとおりよ。違うところがあるからこそ、助け合えることもあるの」
「じゃあ、お父さんとお母さんは、ずっと一緒なの?」
「ああ、もちろんだ」
父は母の手を取り、二人で笑った。
その光景は、セレナの心に深く刻まれていた。
聖と闇。
異なる二つの力が、同じ場所にあってもいい。
幼いセレナにとって、それは当たり前のことだった。
しかし、その平穏な日々は突然終わりを告げる。
ある日、村が盗賊の一団に襲われたのだ。
怒号が響き、家々から煙が上がる。
外から聞こえる悲鳴に、セレナは怯えて父の服をつかんだ。
「お父さん……?」
父と母は顔を見合わせた。
そして、二人はセレナを家の中にある小さな地下室へと連れていった。
「セレナ、よく聞くんだ」
父は彼女の肩に手を置き、まっすぐに目を見つめた。
「ここに隠れていなさい。何があっても、俺たちが戻ってくるまで出てはいけないよ」
「でも……」
「大丈夫すぐに戻ってくるよ、お父さんとお母さんが、みんなを守ってくるから」
母もセレナを抱きしめた。
「怖くても、ここで待っていてね。あなたは何も悪くない。だから、必ず生きるのよ」
「お母さん……」
「愛しているわ、セレナ」
二人は最後にもう一度、彼女を強く抱きしめた。
そして地下室の扉を閉じた。
暗闇の中に一人残されたセレナは、膝を抱えて震えていた。
外から、魔法がぶつかり合う音が聞こえる。
父の声。
母の声。
それから、聞いたこともない怒声と、何かが崩れる轟音。
セレナは両手で耳をふさいだ。
やがて、音は少しずつ遠ざかっていった。
どれほどの時間が過ぎたのか、分からなかった。
静寂が訪れたあとも、セレナは動けなかった。
父と母が戻ってくると信じていた。
けれど、いくら待っても、二人の足音は聞こえなかった。
やがて、恐る恐る地下室の扉を開けたセレナは、目の前の光景に言葉を失った。
家は荒らされ、外には煙が立ち込めていた。
村のあちこちで火が燃え、見慣れた風景は無残な姿に変わっていた。
そして、家の近くに倒れていたのは、父と母だった。
「……お父さん?」
返事はない。
「お母さん……?」
返事はなかった。
セレナは二人のもとへ駆け寄り、小さな手で何度も体を揺すった。
「ねえ、起きてよ……。戻ってくるって言ったよね…お願い……」
どれだけ呼びかけても、二人が目を開けることはなかった。
「いや……。いやああああっ!」
幼い少女の叫びが、焼け落ちていく村に響いた。
その日、セレナは両親を失った。
そして、自分の帰る場所も失った。
*
村に聖剣教団の一団が到着したのは、それから間もなくのことだった。
盗賊の襲撃を知り、救援に駆けつけたのだ。
教団の騎士たちは、燃え残った家々を調べ、生存者を探した。
その中で、両親のそばにうずくまる少女を見つけた。
「まだ生きている子供がいたぞ!」
セレナは保護され、教団の施設へと連れていかれた。
両親を失った彼女には、ほかに頼れる者はいなかった。
こうして、セレナは教団の孤児保護施設で暮らすことになった。
彼女の出自や両親について、教団の記録には詳しい情報が残されなかった。
ただ一人の孤児として、新しい生活が始まったのだ。
セレナは、両親が自分に教えてくれたことを忘れなかった。
魔法は、使い方次第で誰かを守れる。
力が違っても、人は助け合える。
だからこそ、彼女は聖なる魔法を学び、人を助けることに喜びを見いだした。
闇の魔法が現れたときも、それを悪いものだとは思わなかった。
父の力を知っていたからだ。
だが、教団の強硬派の司祭たちは違った。
闇の魔法は邪悪なもの。
聖なる力と共存することなど、認められるはずがない。
その教義を信じる者たちにとって、セレナの存在そのものが受け入れがたいものだった。
やがて、彼女の処遇をめぐり、教団内部で対立が生じる。
穏健派のルシアンは、セレナの力だけを理由に処分することへ反対した、ましてやセレナは子供だ。
だが、強硬派のバルドは聞き入れなかったのだ。
セレナが聖なる魔法と闇の魔法を同時に扱えるという事実は、教団の教義を揺るがしかねないと、思ったからだ。
彼らは、セレナを生かしておくべきではないと判断した。
しかも、それは教団全体で正式に決定されたことではなかった。
バルドの意向を受けた者たちが、独断で動き始めたのだ。
*
その日、セレナは強硬派の息のかかった二人の兵士に呼び出された。
「セレナ、少し来てくれないか?司祭様が呼んでいる」
「わかりました」
「お前の今後について、司祭様が話があるそうだ」
兵士たちは、いつもと変わらない口調だった。
セレナは不安を覚えながらも、逆らうことはできなかった。
教団の司祭の指示には従わなければならない。
そう教えられてきたからだ。
施設を離れ、人気のない場所へと向かう途中、セレナは何度も後ろを振り返った。
胸騒ぎがした。
何かがおかしい。
そのとき、二人の兵士の会話が耳に入った。
「……ここまで来れば、誰にも見られないな」
「余計なことはするな。命令どおりに始末すれば俺たちは騎士になれる」
セレナの足が止まった。
「……え?」
二人が振り返る。
その顔には、もう隠すつもりのない冷酷さが浮かんでいた。兵士達は剣を抜いた
「聞かれたか、悪く思わないでくれ」
「待って……。私、何もしていない……!」
セレナは後ずさった。
「お願い……。殺さないで……!」
その瞬間、兵士たちの背後から、黒い影が飛び出した。
鋭い一撃。
兵士の一人が声を上げる間もなく倒れ、もう一人も反撃する暇を与えられず地面に崩れ落ちた。
セレナは何が起きたのか分からず、立ち尽くしていた。
黒い覆面をつけた人物が、彼女の前に立っていた。
「……大丈夫か」
若い男の声だった。
「あなたは……?」
「今は説明している時間がない。ここから逃げるぞ」
覆面の男――レオンは、周囲を警戒しながらセレナに手を差し出した。
彼は穏健派から密かに救出を依頼されていた。
強硬派から、命令を受けた兵士たちがセレナを処分しようとしていることを知り、彼女を助けるために動いたのだ。
倒れた兵士の一人が、かすかに身じろぎした。
覆面が外れかけたレオンの顔を、その目が捉える。
「……レ、オン……?」
その声を聞いたレオンは、一瞬だけ動きを止めた。
だが、すぐに剣をふりおとした。
彼は現場を盗賊の襲撃に見せかけるよう手を加え、身代わりで用意した施設で病死した少女の遺体を置いてセレナを連れてその場を離れた。
その後、セレナを待っていたのは、もう一人の騎士だった。
レオンより年上の、若い騎士である。
彼はセレナを馬に乗せ、教団の目が届きにくい隣町まで送り届けた。
町の外れで馬を止めると、騎士は小さな袋を差し出した。
「これを持っていけ。多くはないが、しばらくは足しになるはずだ」
セレナは袋を受け取った。
「……どうして、私を助けてくれるんですか?」
騎士は少しだけ目を伏せた。
「お前は何も悪くないからだ」
「でも、教団の人たちは……」
「全員が同じ考えじゃない。だが、今のお前がここにいれば、また命を狙われる」
騎士はセレナをまっすぐに見た。
「俺たちができるのはここまでだ。嬢ちゃんは何も悪くない。ここからは、生きるのも死ぬのも嬢ちゃん次第だ。必ず生き残れよ」
セレナは唇をかみしめた。
何か言わなければと思った。
ありがとう、と。
助けてくれてありがとう、と。
けれど、言葉が喉につかえて出てこなかった。
騎士はそれ以上何も言わず、馬を返した。
やがて、その背中は町の向こうへ消えていった。
セレナは一人、取り残された。
クラリスにも、別れを告げることはできなかった。
彼女に会えば、逃亡を知られてしまうかもしれない。
それに、クラリスまで巻き込むわけにはいかなかった。
セレナは袋を握りしめ、町の出口へと歩き出した。
振り返ることはできなかった。
振り返れば、足が止まってしまいそうだったから。
*
セレナは、人目を避けながら旅を続けた。
教団に、自分が生きていると悟られてはならない。
そうしなければ、再び追っ手が差し向けられるかもしれない。
彼女は人通りの多い街道を避け、森の中や、整備されていない細い道を選んで歩いた。
町に入るときは、できるだけ目立たないようにした。
長く留まることも、人と親しくなることも避けた。
誰かに優しく声をかけられても、すぐに心を開くことはできなかった。
その人が教団とつながっているかもしれない。
何気ない会話から、自分の居場所が知られてしまうかもしれない。
そう考えると、誰かを頼ることが恐ろしくなった。
夜になれば、森の陰や使われなくなった小屋で眠った。
物音がするたびに目を覚まし、追っ手が来たのではないかと身構えた。
まともに食事を取れない日もあった。
わずかな所持金は、少しずつ減っていく。
それでも、セレナは歩き続けた。なるべ く教団の目の届かない所に行かなくて は、ならない、アテはない。
生きていなければならない。
両親が最後に願ってくれたこと。
騎士がかけてくれた言葉。
それらを無駄にしたくなかった。
けれど、幼い少女の体力には限界があった。
ある日、森を抜けた先の街道を歩いていたセレナは、急に足元がふらつくのを感じた。
「……あれ……?」
視界が揺れる。
何日も十分な食事を取れていなかった。
眠りも足りていない。
体はとうに限界を超えていた。
セレナは近くの木に手をつこうとしたが、指先が幹に届くことはなかった。
膝から崩れ落ち、地面に倒れ込む。
「……まだ……歩か、なきゃ……」
かすれた声が漏れた。
ここで倒れたら、誰かに見つかるかもしれない。
教団に知られてしまうかもしれない。
そう思っても、もう体は動かなかった。
ぼやけていく視界の中で、セレナは遠い日の記憶を思い出していた。
父の笑顔。
母の温もり。
そして、クラリスの明るい声。
――セレナはセレナでしょ?
そう言ってくれた、たった一人の親友。
「……クラリス……」
その名を小さく呼び、セレナは目を閉じた。
意識が、ゆっくりと闇へ沈んでいく。
*
街道を歩いていた一人の剣士が、道端に倒れている少女に気づいた。
「……おい。大丈夫か?」
返事はない。
剣士は周囲を見回してから、少女のそばに膝をついた。
顔色は悪く、呼吸も弱い。
長い間、まともに食事を取っていないのだろう。
「こんなところで、何があった……」
少女の体をそっと支え、意識があるか確かめる。
だが、彼女は目を開けなかった。
剣士は小さく息を吐いた。
武者修行の旅の途中だった。
急いで向かわなければならない場所があるわけでもない。
目の前で倒れている少女を見捨てる理由など、どこにもなかった。
「……もう大丈夫だ。心配するな」
聞こえているかどうかも分からない少女に、剣士はそう告げた。
そして、彼女を慎重に抱き上げた。
その剣士の名は、ゼイン。
後に剣聖と呼ばれることになる男だった。
ゼインは、少女を抱えたまま歩き出した。
彼女がどこから来たのか、なぜ一人で旅をしていたのか、まだ何も知らない。
ただ一つ、目の前の命を救わなければならない。
そう思っただけだった。
セレナはまだ知らない。
自分を恐れず、力を理由に裁くこともなく、ただ一人の少女として救ってくれる人間が現れたことを。
そして、この出会いが、彼女の未来を大きく変えることになるのを。
闇に追われた少女の旅は、ここから再び動き始めようとしていた。
第十四章 完




