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ずっと普通だった幼馴染と、今日から恋人ごっこを始めます  作者: Atelier Lotus


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第98話 綺麗ですね

 休日。


 縁之丞は、弓香に招かれて天音家を訪れていた。


 立派な門をくぐり。


 弓香に案内されながら、広い屋敷の中を進んでいく。


 長い廊下の先。


 母屋から少し離れた場所に、大きな弓道場が建っていた。


「こちらです」


 弓香が扉を開く。


 縁之丞は中へ足を踏み入れ。


 思わず立ち止まった。


「……広い」


 磨き上げられた床。


 木の香りが漂う道場。


 整然と並ぶ射位。


 その先には、手入れの行き届いた的場が広がっている。


 個人の屋敷にある稽古場とは思えないほど、立派な造りだった。


「天音家が、代々受け継いできた道場です」


 弓香が穏やかに微笑む。


「門下の者も、こちらで稽古をしております」


「弓香さんも、ここで?」


「はい」


 弓香は道場の奥へ視線を向ける。


「幼い頃から、毎日のように」


 その表情には。


 懐かしさと、僅かな誇らしさが浮かんでいた。


     ◇


「少々、お待ちください」


 弓香は着替えるため、一度道場を離れた。


 縁之丞は、その間に壁へ並べられた弓を見る。


 長さも。


 太さも。


 僅かに違っている。


 どれも丁寧に手入れされ。


 長い年月、大切に使われてきたことが分かった。


 しばらくして。


 静かな足音が近づいてくる。


「お待たせいたしました」


 振り返ると。


 白い道着に、濃紺の袴を身につけた弓香が立っていた。


 長い黒髪は、邪魔にならないよう高い位置でまとめられている。


 着物姿の時とは、また違う。


 華やかさよりも。


 研ぎ澄まされた、凛とした美しさがあった。


 縁之丞は一瞬。


 その姿に見とれた。


 けれど。


 胸が高鳴るより先に。


 視線は、弓香が手にしている弓へ向かっていた。


「その弓」


 縁之丞は首を傾げる。


「他のものより、少し大きく見えます」


「よくお気づきになりましたね」


 弓香は嬉しそうに弓を見る。


「私のために作っていただいたものです」


「専用なんですか?」


「はい」


 一般的な弓よりも、僅かに太い。


 見た目だけでも。


 張りの強さが伝わってくるようだった。


「通常のものより、かなり強く作られております」


「普通の方では」


「十分に引き絞ることも、難しいそうです」


「そんなにですか」


「よろしければ、お試しになりますか?」


「いいんですか?」


「もちろんです」


 弓香から差し出された弓を。


 縁之丞は、両手で慎重に受け取った。


 持っただけなら。


 想像していたほど重くはない。


 霧島家でも、弓の基礎は教わっている。


 足を開き。


 姿勢を整え。


 弦へ指を掛ける。


「……っ」


 力を込める。


 弦は動いた。


 しかし。


 途中まで引いたところで、ぴたりと止まる。


 さらに力を込めても。


 ほとんど動かなかった。


「固っ……」


 腕だけでなく。


 背中や肩にも力を入れる。


 それでも。


 十分に引き絞ることはできない。


 縁之丞は諦めて力を抜き。


 ゆっくりと弦を戻した。


「これは無理ですよ」


 苦笑しながら弓を返す。


 弓香は、それを優しく受け取った。


「私も、最初は扱えませんでした」


「そうなんですか?」


「はい」


 今の弓香からは。


 引けなかった時期があったとは想像しにくい。


「初めて持った時は」


 弓香は自分の弓を見つめる。


「縁之丞さんよりも、引くことができませんでした」


「それが、今では普通に?」


「普通かどうかは分かりませんが」


 弓香は少し微笑む。


「毎日、鍛えましたから」


「どれくらい掛かったんですか?」


「十分に引けるようになるまで、二年ほど」


「二年……」


「初めの頃は」


 弓香は自分の左手へ視線を落とす。


「何度も手を痛めました」


「指の皮が破れ」


「腕が上がらなくなった日もあります」


「それでも、やめなかったんですね」


「はい」


 弓香は迷わず頷く。


「いつか、この弓を使いこなしたいと思いましたから」


 生まれつき。


 何でも簡単にできたわけではない。


 強いから、強い弓を与えられたのでもない。


 扱えない弓を前に。


 何度も失敗し。


 それでも。


 毎日、鍛錬を積み重ねてきた。


 弓香の強さは。


 才能だけで作られたものではなかった。


     ◇


「では」


 弓香が射位へ向かう。


「一射、ご覧いただけますか?」


「お願いします」


 縁之丞は、邪魔にならない位置まで下がった。


 弓香が射位へ立つ。


 静かに足を開く。


 下半身を定め。


 背筋を伸ばす。


 弓を構える前から。


 空気が変わったように感じられた。


 先ほどまで。


 穏やかに言葉を交わしていた女性が。


 目の前の一射だけへ。


 意識のすべてを集中させていく。


 弓を起こす。


 息を整え。


 ゆっくりと弦を引き絞る。


 先ほど。


 縁之丞が、どれだけ力を入れても引けなかった弓。


 それを。


 弓香は、何の抵抗もないかのように引いていく。


 細い腕の。


 どこにそれほどの力があるのだろう。


 そう思うほど。


 指先にも。


 弓にも。


 一切の震えがなかった。


 肩には余計な力がなく。


 呼吸も乱れない。


 弓香の身体と弓が。


 一つの形になっていた。


 道場が静まり返る。


 縁之丞も。


 呼吸をすることさえ忘れそうになった。


 次の瞬間。


 弦が鳴る。


 乾いた音が、道場へ響いた。


 放たれた矢は。


 迷いなく、真っ直ぐに的へ向かい。


 その中央へ突き刺さった。


 遅れて。


 的を射抜いた音が響く。


 弓香は、すぐには構えを解かなかった。


 矢を放った後も。


 その姿勢は、少しも崩れていない。


 最後まで。


 一つの射として完成されていた。


「綺麗ですね」


 縁之丞の口から。


 自然と言葉が零れた。


 弓香が、ゆっくりと振り返る。


「射が、ですか?」


「はい」


 縁之丞は迷わず頷く。


「弓を引くところから」


「矢を放った後まで」


「何一つ無駄がなくて」


 言葉で上手く表せない。


 けれど。


 見たままの気持ちを伝える。


「すごく綺麗でした」


 その言葉に。


 弓香は少しだけ目を見開いた。


 美しいと褒められることは。


 今までにも、何度もあった。


 着物姿を。


 髪を。


 整った顔立ちを。


 けれど。


 何年も掛けて磨き上げた射を。


 これほど真っ直ぐに褒められたことはなかった。


「ありがとうございます」


 弓香の頬が。


 ほんの僅かに緩んだ。


 それは。


 令嬢として見せる、整えられた微笑みではない。


 武人としての自分を認められた。


 純粋な喜びから生まれた笑顔だった。


     ◇


「今度は、縁之丞さんです」


「俺もですか?」


「せっかく道場まで来られたのですから」


 弓香は、縁之丞にも扱える弓を選び。


 手渡した。


「こちらでしたら、問題なく引けると思います」


「お願いします」


 縁之丞は射位へ立つ。


 昔に教わったことを思い出しながら。


 足を開いた。


「右足を、もう少し外へ」


「こうですか?」


「はい」


 弓香は、縁之丞の足元を確かめる。


「重心が僅かに前へ傾いております」


「後ろへ?」


「ほんの少しだけ」


 言われたとおりに身体を動かす。


「そうです」


 次に。


 弓へ矢をつがえる。


 構え。


 ゆっくりと引く。


「肩へ力が入りすぎています」


「難しいですね」


「力で引こうとしないでください」


 弓香が縁之丞のすぐ隣へ立つ。


「背中を使います」


 そう言って。


 縁之丞の肩へ、そっと手を添えた。


「こちらの力を抜いて」


「肘を、もう少し後ろへ」


 弓香の指が。


 腕の位置を僅かに直す。


 二人の距離は近い。


 肩が触れそうなほど。


 すぐ隣に。


 美しい年上の女性が立っている。


 それでも。


 縁之丞の鼓動は。


 不思議なほど、落ち着いていた。


 弓香に触れられても。


 恥ずかしいとは思わない。


 意識が乱れることもなく。


 ただ。


 教えられたことを理解しようと、弓へ集中できていた。


 以前。


 本屋で本子が顔を近づけてきた時は。


 少し距離が縮まっただけで。


 鼓動が、やけに速くなった。


 まともに顔を見られないほど。


 意識してしまった。


 今は。


 それがない。


 弓香が魅力的でないわけではない。


 むしろ。


 美しく。


 強く。


 尊敬できる女性だった。


 ただ。


 胸の奥に生まれる感情が。


 あの時とは、どこか違っていた。


 縁之丞自身は。


 まだ、その意味を深く考えなかった。


「では、放してください」


「はい」


 縁之丞は呼吸を整え。


 指を離した。


 矢が飛ぶ。


 中央からは離れていたものの。


 どうにか、的の端へ突き刺さった。


「当たった」


「お見事です」


 弓香が嬉しそうに微笑む。


「基礎を学ばれていたことが、よく分かります」


「弓香さんに教えてもらったからですよ」


「少しお伝えしただけです」


 弓香は、的へ刺さった矢を見る。


「筋がよろしいと思います」


 素直に褒められ。


 縁之丞も嬉しくなった。


 けれど。


 同時に。


 頭の中へ、ある人の顔が浮かぶ。


(本子にも見せたかったな)


 あいつなら。


 的の端へ当たっただけなのに、大げさに喜ぶだろうか。


 それとも。


『真ん中じゃないじゃん』


 と、遠慮なく笑うだろうか。


 どちらでもいい。


 ただ。


 今の一射を。


 本子にも見てほしいと思った。


     ◇


 帰る頃には。


 夕日が、道場を橙色に染めていた。


 縁之丞は弓香へ礼を言い。


 二人で道場を後にする。


 弓香は。


 間違いなく魅力的な女性だった。


 美しく。


 強く。


 誇り高い。


 努力を惜しまず。


 積み重ねてきた技術を、自分の力として身につけている。


 心から尊敬できる。


 そう思う。


 それでも。


 弓香に射を褒められ。


 嬉しいと感じた、その瞬間。


 最初に頭へ浮かんだのは。


 今、隣を歩いている弓香ではなく。


 幼い頃から。


 何かがあれば、最初に見せてきた。


 鬼灯本子だった。

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