第97話 素敵だと思います
騒動の後。
二人は、近くにあった落ち着いた喫茶店へ入った。
窓際の席へ向かい合って座る。
縁之丞の前にはコーヒー。
弓香の前には紅茶が置かれた。
店内には穏やかな音楽が流れ。
先ほどの騒ぎが、遠い出来事のように感じられる。
「先ほどは」
弓香が静かに頭を下げた。
「お見苦しいところをお見せしました」
縁之丞は首を横に振る。
「見苦しくはなかったです」
「そうでしょうか」
「無駄に殴ったりしてませんでしたから」
弓香は少し驚いたように、縁之丞を見る。
「怒っているようにも見えませんでしたし」
「必要な分だけ動いて、相手を止めた」
縁之丞は、先ほどの光景を思い返す。
一切の迷いがなく。
それでいて、相手を必要以上に傷つけることもなかった。
「全部、ちゃんと制御されていて」
縁之丞は素直に言った。
「綺麗でした」
その言葉に。
弓香は何も答えなかった。
紅茶へ伸ばしかけた指が、僅かに止まる。
やがて。
「……そのように言われたのは、初めてです」
ぽつりと。
独り言のように呟いた。
◇
「先日の顔合わせでも、少しお話しいたしましたが」
弓香は紅茶へ視線を落とす。
「私はこれまで、何度か縁談のお話をいただいております」
「はい」
「ですが」
弓香は少しだけ間を置いた。
「皆様、私の武道について知ると」
「似たようなことをおっしゃいました」
表情は穏やかなまま。
声も変わらない。
「女が男より強いのは、可愛げがない」
「結婚した後は、武道をやめてほしい」
「夫となる男性を立てるためにも、力は隠すべきだ」
「令嬢なのだから、大人しくしていればいい」
一つひとつの言葉を。
何度も聞かされてきたのだろう。
怒りも。
恨みも口にしない。
淡々と語っている。
けれど。
傷ついていないはずがなかった。
「皆様が、私を困らせようとしておっしゃったわけではないと思います」
弓香は静かに微笑む。
「結婚するのであれば」
「夫となる方へ合わせることも、必要なのでしょう」
「でも」
縁之丞は思わず口を挟んだ。
「武道は、天音さんがずっと続けてきたものですよね」
「はい」
「それを全部やめろと言われて、平気だったんですか?」
弓香は、すぐには答えなかった。
紅茶の表面へ視線を落としたまま。
静かに口を開く。
「平気では、ありませんでした」
初めて。
弓香の声が、ほんの僅かに揺れた。
「幼い頃から、毎日続けてきました」
「辛いと思った日もあります」
「逃げたいと思ったことも」
「一度や二度ではありません」
それでも。
やめなかった。
積み重ねてきた。
「私にとって武道は」
「天音家の娘として身につけるべきものでもありますが」
弓香は自分の手を見る。
「同時に」
「私自身が、誇りに思っているものでもあります」
縁之丞は何も言わず。
続きを待った。
「ですが」
弓香は穏やかな笑顔を浮かべる。
「それを大切にすればするほど」
「一人の女性としては、可愛げのない人間になってしまうのかもしれません」
冗談めかした言葉だった。
けれど。
その笑顔は、少しだけ寂しそうだった。
◇
「縁之丞さんは」
弓香は静かに顔を上げる。
「力のある女性には、引いてしまいましたか?」
「どうしてですか?」
縁之丞は思わず聞き返した。
「男性は」
弓香は言葉を選びながら答える。
「自分より強い女性を、好まないことも多いので」
「少なくとも」
「これまでお会いした方々は、そうでした」
その言葉に。
縁之丞は迷わず首を横へ振った。
「俺は、そうは思いません」
「本当ですか?」
「はい」
縁之丞は真っ直ぐ弓香を見る。
「素敵だと思います」
弓香が目を見開いた。
「強いから、というだけじゃありません」
縁之丞は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「天音さんは力があるのに」
「必要以上には使いませんでした」
「殴ることもできたと思います」
「もっと痛めつけることだって」
「その気になれば、できましたよね」
「……はい」
「でも、しなかった」
相手の動きを止めるだけ。
必要以上に傷つけない。
そのために。
強さだけではなく、技術を磨いてきたのだろう。
「相手を傷つけないように」
「自分の力を、きちんと制御している」
縁之丞は少し笑う。
「そういうところが」
「素敵だと思いました」
弓香は何も言えなかった。
ただ。
真っ直ぐに縁之丞を見つめている。
容姿を褒められたことは、何度もあった。
家柄を評価されたことも。
令嬢としての振る舞いを、称賛されたこともある。
けれど。
自分が磨き続けてきた強さを。
その使い方まで見た上で。
素敵だと言われたことは、一度もなかった。
「ありがとうございます」
やがて。
弓香は、噛み締めるように答えた。
◇
紅茶を口へ運ぶ弓香を見ながら。
縁之丞は、ふと本子のことを思い出す。
本子も。
幼い頃から、鬼灯家の技術を教え込まれてきた。
背後へ立っても。
気配を消したまま近づいても。
縁之丞が気づけないほどの技術。
それを。
本子は誇示したことがない。
時々、悪戯には使うけれど。
自分が特別なことをしているとは思っていない。
鬼灯家は昔から。
霧島家を陰から支えてきた一族だった。
力があっても。
必要のない時には使わない。
誰かへ見せつけようともしない。
(少し似てるな)
弓香と本子。
性格も。
雰囲気も。
まるで違う。
それでも。
身につけた力を誇るのではなく。
必要な時にだけ使うところは。
どこか似ているように思えた。
けれど。
縁談の相手と過ごしている時に。
別の女性の話を出すのは失礼だろう。
縁之丞は、その考えを口にしなかった。
◇
「そういえば」
しばらくして。
弓香が柔らかく微笑んだ。
「縁之丞さんは」
「弓の基礎も学ばれたと、おっしゃっていましたね」
「はい」
「家で少し教わっただけですけど」
「今も引かれるのですか?」
「最近は、ほとんど」
「剣道の方が中心なので」
「そうでしたか」
弓香は少し考える。
それから。
僅かに緊張したように、背筋を伸ばした。
「よろしければ」
「はい」
「今度」
弓香は丁寧に頭を下げる。
「天音家の弓道場へ、いらっしゃいませんか?」
縁之丞は少し驚いた。
「俺が行ってもいいんですか?」
「もちろんです」
「天音家の道場へ、他家の方をお招きすることは多くありませんが」
弓香は縁之丞を見つめる。
「あなたになら」
「私の射を見ていただきたいです」
その声には。
先ほどまでの落ち着きとは違う。
僅かな照れが含まれていた。
自分が最も得意とするもの。
長い時間をかけて磨いてきたもの。
それを。
縁之丞に見てほしいと思っている。
「ぜひ、お願いします」
縁之丞が答えると。
弓香の表情が、ほっとしたように和らいだ。
「ありがとうございます」
弓香は穏やかに微笑む。
その笑顔は。
これまでの顔合わせでは。
誰にも見せたことのないほど、柔らかかった。
縁之丞もまた。
弓香と話す時間を。
素直に楽しいと感じていた。




