第96話 自分の身は自分で
数日後。
縁之丞は弓香と二人で街を歩いていた。
最初の顔合わせの後。
弓香から「もう少しお話ししてみたいのですが、お時間をいただけませんか」と連絡があり、縁之丞も断る理由はなかった。
昼間の駅前。
縁之丞は、顔合わせの日と同じ濃紺のスーツ姿だった。
一方の弓香は、淡い藤色の着物を上品に着こなしている。
艶やかな濡烏の黒髪をまとめ、落ち着いた和装姿で歩くその姿は、街ゆく人が思わず振り返るほど美しかった。
「こちらのお店はいかがでしょう?」
弓香が一軒の喫茶店を指差す。
「人気のお店だと伺いました」
「詳しいんですね」
「以前、友人に教えていただきました」
自然な足取りで先を歩く弓香に、縁之丞はその後ろを歩く。
店を選ぶのも。
道を案内するのも。
どれも弓香が自然にこなしていた。
会話が途切れても焦らず、静かな時間さえ心地よく受け入れている。
本子と一緒にいる時とは違う。
縁之丞が、リードされる側だった。
「年下の方と出かけるのは、初めてです」
弓香が穏やかに言う。
「俺も、年上の女性と二人で出かけるのは初めてです」
「では」
弓香は優しく微笑む。
「お互いに初めてですわね」
「そうですね」
その笑顔につられて、縁之丞も少し笑った。
◇
食事を終えた帰り道。
人通りの少ない通りへ入った時だった。
「ねえ、お姉さん」
二人の若い男が近づいてくる。
「めっちゃ綺麗じゃん」
「そんな男より、俺たちと遊ぼうよ」
縁之丞は一歩前へ出た。
「やめておいた方がいいですよ」
しかし。
弓香が静かに手を伸ばし、縁之丞を制した。
「ありがとうございます」
その声は穏やかだった。
「ですが」
弓香は男たちへ向き直る。
「自分の身は、自分で守れます」
男の一人が笑う。
「何それ」
「面白いじゃん」
そう言って。
弓香の腕へ手を伸ばした。
次の瞬間だった。
「あっ」
男の体勢が崩れる。
弓香は相手の手首を取っただけだった。
ほんの僅かに身体を捻る。
それだけで関節が極まり、男は膝をついていた。
「い、痛っ!」
もう一人が慌てて掴みかかる。
弓香は半歩だけ身体を開いた。
相手の力を受け流し、そのまま重心を崩す。
男は何が起きたのか分からないまま地面へ倒れ込んだ。
「な、何だこいつ……!」
二人とも立ち上がれない。
弓香は手首を極めたまま、静かに尋ねる。
「このまま腕を折っても、よろしくて?」
その声には怒りも威圧もない。
ただ事実を確認するような、穏やかな口調だった。
「す、すみません!」
「もうしません!」
二人は慌てて立ち上がり、そのまま逃げていった。
◇
弓香は着物の袖を静かに整え、何事もなかったように歩き出す。
縁之丞も、その隣へ並んだ。
「俺、必要なかったですね」
「お気持ちだけで十分です」
弓香は微笑む。
「前へ出てくださったこと、とても嬉しかったですよ」
「止める間もありませんでした」
「少し強くしすぎたでしょうか?」
「折ってないなら、大丈夫じゃないですか?」
「以前より加減はできました」
「以前は折ったんですよね」
「ええ」
弓香は悪びれる様子もなく頷く。
「あの頃よりは成長したと思います」
「成長の基準が怖いですね」
縁之丞が苦笑すると。
弓香も小さく笑った。
「申し訳ありません」
「ですが、できる限り傷つけたくはありませんので」
「だから関節だけ?」
「はい」
「相手が諦めれば、それで十分です」
縁之丞は隣を歩く弓香を見る。
着物姿でも歩きにくそうな様子は一切ない。
一歩一歩が静かで、美しい。
その所作には、幼い頃から積み重ねてきた鍛錬が自然と表れていた。
強さを誇る様子もない。
自分を守るために必要だから身につけた。
ただ、それだけなのだろう。
縁之丞は思う。
弓香の強さを、怖いとは思わなかった。
むしろ。
必要以上に傷つけることなく。
相手を完全に制御する、その動きを。
美しいと思っていた。




