第95話 薔薇のような人
日曜日。
縁之丞は、両親とともに市内の料亭を訪れていた。
濃紺のスーツに袖を通し、慣れない革靴で廊下を歩く。
制服とは違う窮屈さに。
縁之丞は、何度目か分からない息を小さく吐いた。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ」
隣を歩く楓が、楽しそうに笑う。
「してない」
「さっきから、ずっとネクタイを触っているけど?」
指摘されて。
縁之丞はネクタイから手を離した。
「一度会って、話をするだけだ」
清之丞が穏やかに言う。
「合わないと思えば、断って構わない」
「分かってるよ」
そう答えながらも。
縁之丞の身体から、力が抜けることはなかった。
許嫁の話がなくなった直後に持ち込まれた、新しい縁談。
まだ気持ちの整理すらついていない。
それでも。
今日ここへ来ることを、自分で受け入れたのだ。
まずは相手と話してみる。
今は、それでいい。
◇
案内された個室には、すでに相手方の両親が待っていた。
「初めまして」
穏やかな笑みを浮かべた男性が立ち上がる。
「天音武流です。本日はよろしくお願いいたします」
「霧島清之丞です」
二人は丁寧に頭を下げた。
続いて。
母親同士も挨拶を交わす。
「妻の戈美です」
「天音戈美と申します」
「霧島楓です。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
武流は黒の紋付羽織袴。
戈美は、落ち着いた色合いの着物を上品に着こなしている。
一方の霧島家は。
清之丞も楓も、縁之丞も洋装だった。
同じ武士の家系でありながら。
天音家は今も、古くからの伝統を色濃く残しているらしい。
武流は穏やかな顔つきの男性だった。
対して。
戈美は物静かでありながら、その眼差しに厳しさが宿っている。
品定めをされているわけではない。
そう分かっていても。
縁之丞は自然と背筋を伸ばした。
その時。
障子が静かに開いた。
「遅くなり、申し訳ございません」
澄んだ声とともに。
一人の女性が部屋へ入ってくる。
深紅の着物。
艶やかな濡烏の黒髪。
整った目鼻立ち。
真っ直ぐに伸びた背筋。
「娘の弓香です」
武流の紹介を受け。
女性は縁之丞たちへ、丁寧に頭を下げる。
「天音弓香と申します。本日はよろしくお願いいたします」
一目で分かるほど。
美しい女性だった。
けれど。
縁之丞が最初に目を奪われたのは、その容姿ではない。
歩幅。
足の運び。
重心。
呼吸。
着物の裾を乱すことなく座るまでの動きに。
一切の無駄がなかった。
静かで。
優雅で。
それでいて。
どこから近づいても、すぐに対応されるような隙のなさがある。
(強い)
剣を交えたわけでもない。
構えを見たわけでもない。
それでも。
縁之丞の本能は、そう告げていた。
恐らく。
自分よりも、遥かに。
◇
食事が始まると。
最初は両家の親たちが中心になって話を進めた。
霧島家と天音家。
どちらも武士を祖先に持ち。
現在まで家の教えや武術を受け継いできた一族だった。
清之丞と武流には共通の知人も多いらしく。
会話は思っていたよりも穏やかに進んでいく。
だが。
縁之丞と弓香の間には。
まだ、どこか固い空気が残っていた。
弓香は食事の所作まで美しかった。
箸を持つ指先。
椀を置く動き。
何をしても乱れがない。
時折、目が合えば。
弓香は静かに微笑む。
縁之丞も小さく頭を下げる。
会話らしい会話は。
ほとんどできないまま、食事は終わった。
「それでは」
武流が席を立つ。
「少し、若いお二人だけでお話しされてはいかがでしょう」
「そうですね」
清之丞も頷いた。
両親たちは、示し合わせたように個室を出ていく。
障子が閉まる。
部屋には。
縁之丞と弓香だけが残された。
◇
静かな時間が流れる。
庭から聞こえる、僅かな水音。
遠くで鳴く鳥の声。
縁之丞は何か話さなければと思いながらも。
最初の言葉が見つからなかった。
先に口を開いたのは。
弓香だった。
「私を、怖いと思われましたか?」
「え?」
予想していなかった問いに。
縁之丞は思わず聞き返す。
弓香は穏やかな表情を崩さない。
「先ほどから、随分と緊張されているようでしたので」
「ああ……」
縁之丞は少し考える。
確かに。
弓香を見て、身体へ力が入った。
だが。
それは、恐怖とは少し違う。
「怖いというより」
「はい」
「隙がない人だと思いました」
弓香が僅かに首を傾げる。
「隙がない?」
「立ち方や歩き方を見れば分かります」
縁之丞は、弓香の姿勢へ目を向ける。
「武道をされていますよね」
その瞬間。
弓香が初めて、はっきりと驚いた表情を見せた。
「……分かるのですか?」
「何となくですけど」
正確に何をしているのかまでは分からない。
ただ。
長い間、身体へ染み込ませてきた動きであることは伝わってきた。
「これまでお会いした方々は」
弓香は少しだけ目を伏せる。
「私の容姿や家柄」
「白耀家とのご縁についてばかり、お話しされました」
「武道をしていると見抜かれたのは、初めてです」
縁之丞は少し照れくさくなり。
頬をかいた。
「俺も、剣道をやっているので」
「なるほど」
弓香は納得したように頷く。
「ご自身も鍛錬をされているから、気づかれたのですね」
「多分」
先ほどまで張り詰めていた空気が。
少しだけ柔らかくなった。
◇
「天音家は」
弓香は静かに話し始める。
「古来より、代々白耀家に仕えてきた武士の家系です」
「白耀家をお護りするため」
「幼い頃から、一通りの武術を学んでおります」
「何をされているんですか?」
「最も得意としているのは、弓道です」
弓香は自分の指先へ目を向ける。
「他には、合気道や柔術」
「剣術なども修めております」
「そんなに」
縁之丞は驚いた。
一つの武道を続けるだけでも、決して簡単ではない。
それを。
幼い頃から何種類も身につけてきたという。
「どれも、幼い頃から?」
「はい」
「厳しくありませんでしたか?」
「厳しかったと思います」
弓香は少し考えてから答える。
「ですが、天音家に生まれた以上」
「必要なことだと思っておりましたので」
当然のことのように語る。
しかし。
そこまで身につけるために。
どれほどの鍛錬を重ねてきたのだろう。
縁之丞には、簡単に想像できなかった。
「霧島家も、元は武士の家系です」
今度は縁之丞が話す。
「俺は剣道を続けています」
「家では剣術や、弓の基礎も習いました」
「そうでしたか」
弓香の表情が少し和らぐ。
「では、共通する部分が多いのですね」
「そうですね」
「弓も引かれるのですか?」
「基礎だけです」
「多分、天音さんには全然敵わないと思います」
「勝ち負けを競うものではありませんよ」
「それはそうですけど」
弓香の言葉は真面目だった。
けれど。
どこか少しだけ、楽しそうにも聞こえた。
気づけば。
二人の会話は自然と続いていた。
◇
「実は」
話が一段落したところで。
弓香が少し困ったように微笑む。
「以前にも、何度か顔合わせをしたことがあります」
「そうなんですか」
「ですが」
弓香は僅かに視線を落とした。
「あまり、良い思い出ではありません」
「何かあったんですか?」
「私の話よりも」
「容姿ばかりを気にされる方が多くて」
褒められること自体が嫌だったわけではないのだろう。
ただ。
それ以外の自分を、見てもらえなかった。
そんな響きがあった。
「中には」
弓香は穏やかな口調のまま続ける。
「勝手に身体へ触れようとされた方もおりました」
縁之丞は眉をひそめた。
「それは……」
「その方の腕を取ったところ」
弓香は少し申し訳なさそうに言う。
「折れてしまいまして」
縁之丞は思わず聞き返した。
「折ったんですか?」
「思わず」
「思わずで折れます?」
「加減が間に合いませんでした」
「どんな取り方をしたんですか」
「少し、関節を極めただけです」
「少しで折れたんですか?」
「はい」
あまりにも真面目な顔で答えられ。
縁之丞は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
「その後」
弓香は寂しそうに微笑む。
「随分と怖がられてしまいました」
「当然ですよね」
その言葉には。
諦めに近いものが滲んでいた。
どうせ。
今回も同じなのだろう。
そう思っているように見えた。
縁之丞は首を横に振る。
「俺は、そうは思いません」
弓香が顔を上げる。
「許可もなく触ろうとした相手が悪いでしょう」
「でも、腕を折ってしまいました」
「自分の身を守った結果なら、仕方ないと思います」
「怖くはありませんか?」
「折られたくはないですけど」
縁之丞は苦笑する。
「俺は、勝手に触ったりしませんから」
静寂が流れる。
弓香は少しだけ目を見開き。
縁之丞を見つめていた。
そんなふうに言われたことは。
一度もなかった。
「……ありがとうございます」
その言葉とともに。
弓香は、顔合わせが始まってから初めて。
心から。
柔らかく微笑んだ。
凛とした美しさを崩さないまま。
冷たく見えていた表情が、僅かにほどける。
まるで。
固く閉じていた蕾が開き。
深紅の薔薇が、静かに咲いたような笑顔だった。
縁之丞もまた。
天音弓香という女性を。
想像していたより、ずっと話しやすい人だと感じていた。




