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ずっと普通だった幼馴染と、今日から恋人ごっこを始めます  作者: Atelier Lotus


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第99話 天音家の挨拶

 稽古を終えた後。


 弓香と縁之丞は、弓道場から屋敷へ続く長い廊下を並んで歩いていた。


 慣れない弓を引いた腕には。


 まだ、心地よい疲労が残っている。


「明日は、少し筋肉痛になるかもしれませんね」


 弓香が穏やかに言う。


「やっぱりですか」


「普段の剣道とは、使う筋肉が異なりますので」


「明日、竹刀を振れるかな」


「無理はなさらないでください」


「弓香さんに言われると、説得力がありますね」


「私も、無理をした経験がありますから」


 弓香は少しだけ困ったように笑った。


 そんな会話をしながら歩いていると。


 廊下の向こうから。


 三人の男性が、こちらへ向かってきた。


 三人とも。


 弓香と同じように、隙のない足取りだった。


「お兄様方」


 弓香が立ち止まり。


 丁寧に頭を下げる。


「これから、お稽古でございますか?」


「ああ」


 先頭を歩いていた男性が、穏やかに頷いた。


「三人で少し身体を動かすところだ」


 長身で。


 まるで一本の槍のように、真っ直ぐな立ち姿の男。


 天音家の長男。


 天音槍士。


 名のとおり。


 槍術を最も得意としている。


 その隣には。


 静かで落ち着いた雰囲気を纏う次男。


 天音刀也。


 腰に刀を差しているわけでもないのに。


 立っているだけで、鋭い刃物を思わせる空気があった。


 そして。


 最後に立っているのは。


 三男の天音剣吾。


 兄二人よりも僅かに若く。


 鋭い目つきで、縁之丞を見ていた。


 三人とも。


 弓香とよく似た、整った顔立ちをしている。


 だが。


 弓香へ向ける表情だけは。


 驚くほど柔らかかった。


「今日の稽古は終わったのか?」


 槍士が尋ねる。


「はい」


「縁之丞さんに、弓をお教えしておりました」


「そうか」


 槍士は頷く。


「手を痛めてはいないか?」


「大丈夫です」


「疲れていないか?」


 刀也も、すぐに続ける。


「無理をする必要はないぞ」


「いつもの稽古よりも、軽いくらいです」


「水分は取ったか?」


 剣吾まで真剣な顔で尋ねた。


「いただきました」


 弓香は慣れた様子で、一つひとつ答えていく。


 そのやり取りを見ながら。


 縁之丞は、何となく理解した。


(相当、過保護だな)


「こちらが」


 弓香は、縁之丞へ手を向ける。


「先日お話しした、霧島縁之丞さんです」


「本日は、弓道場までお招きいただきありがとうございました」


 縁之丞は丁寧に頭を下げた。


「ああ」


 槍士が短く答える。


「話は聞いている」


 刀也も頷く。


「弓香が、自分から道場へ招いたそうだな」


「……」


 剣吾は何も言わない。


 ただ。


 縁之丞を上から下まで、静かに観察していた。


 三人の視線が。


 先ほど弓香へ向けていたものとは、明らかに違う。


 険しい。


 というより。


 敵を見る目に近かった。


(何だろう)


 縁之丞は、背中へ冷たいものを感じた。


(すごく嫌な予感がする)


     ◇


「申し訳ありません」


 廊下を少し進んだところで。


 弓香が足を止めた。


「弓を一本、片付け忘れてしまいました」


「手伝いましょうか?」


「いいえ」


 弓香は首を横に振る。


「すぐに戻りますので、こちらでお待ちください」


「分かりました」


 弓香は三人の兄へ目を向ける。


「お兄様方」


「縁之丞さんを、お願いいたします」


「ああ」


 槍士が穏やかに頷いた。


「任せておけ」


「すぐに戻ってまいります」


 弓香は頭を下げ。


 来た道を引き返していった。


 その背中が。


 廊下の角へ消える。


 静寂。


 そして。


 三人の兄たちが。


 同時に縁之丞へ顔を向けた。


「え?」


 一歩。


 槍士が距離を詰める。


 反対側からは、刀也。


 背後には、剣吾。


 気づけば。


 縁之丞は三人に囲まれていた。


「弓香に何かしたら」


 槍士が静かに告げる。


「殺すぞ」


「……はい?」


 縁之丞は聞き間違いかと思った。


 しかし。


 刀也も、真顔で続ける。


「泣かせても殺す」


「傷つけても殺す」


 剣吾が、さらに一歩近づいた。


「悲しませても殺す」


「はい」


「無理をさせても殺す」


「はい」


「勝手に身体へ触れても殺す」


「それはしません」


「二人きりになっても殺す」


 縁之丞は思わず眉を寄せた。


「最後は無理では?」


「何がだ」


 剣吾が真顔で聞き返す。


「今日、二人で稽古してたんですけど」


「……」


 三人が黙った。


「それに」


 縁之丞は恐る恐る続ける。


「近づかなかったら、弓も教えてもらえませんし」


「……一理ある」


 刀也が小さく頷く。


「納得しないでください、兄上」


 剣吾が刀也へ鋭い視線を向ける。


「ともかく」


 槍士が話を戻す。


「弓香は、我々にとって大切な妹だ」


「幼い頃から」


 刀也も静かに言う。


「誰よりも努力してきた」


「辛くても、弱音を吐かない」


 剣吾が腕を組む。


「だから、俺たちが気づくしかない」


 三人の表情は真剣だった。


 言葉は怖い。


 だが。


 弓香を心から大切に思っていることだけは。


 十分に伝わってきた。


「分かりました」


 縁之丞は真面目に頷く。


「傷つけるつもりはありません」


 三人は。


 しばらく縁之丞の顔を見つめた。


「……目は嘘をついていないな」


 槍士が言う。


「姿勢も悪くない」


 刀也が続ける。


「ただ」


 剣吾は最後まで険しい表情を崩さない。


「信用したわけではない」


「はい」


「少しでも妙なことをしたら」


「殺すんですよね?」


「分かっているならいい」


(よくないだろ)


 縁之丞は心の中で呟いた。


 その時。


 廊下の向こうから。


 静かな足音が近づいてきた。


「お待たせいたしました」


 弓香の声が聞こえる。


 次の瞬間。


 三人は縁之丞から素早く離れた。


 槍士は腕を組み。


 刀也は庭を眺め。


 剣吾は何事もなかったように、天井を見上げる。


「どうかなさいましたか?」


 戻ってきた弓香が、首を傾げる。


「いや」


 槍士が穏やかに答える。


「霧島殿と、少し話をしていただけだ」


「そうでしたか」


「ああ」


「なかなか、見込みのある青年だ」


 縁之丞は槍士を見る。


 つい先ほど。


 殺すと言われたばかりだった。


「では、我々は稽古へ向かう」


 刀也が言う。


「弓香」


「無理はするなよ」


「はい」


「帰ったら、今日は何をしたか聞かせてくれ」


 剣吾が付け加える。


「分かりました」


「では」


 槍士が縁之丞へ視線を向ける。


「頑張れよ」


「何をですか?」


「すべてだ」


「……はい」


 三人は。


 弓香には優しい笑顔を向け。


 縁之丞へは、最後にもう一度だけ鋭い視線を送る。


 そして。


 何事もなかったように、道場へ向かって歩いていった。


     ◇


「あの」


 三人の姿が見えなくなった後。


 縁之丞は弓香へ声を掛けた。


「弓香さん」


「はい」


「さっき」


 縁之丞は少し迷ったものの。


 正直に伝えることにした。


「お兄さんたちから、殺すって言われたんですけど」


 弓香は目を瞬く。


 それから。


 少し考えるように、首を傾げた。


「どなたにでしょう?」


「三人全員です」


「まあ」


「『まあ』で終わるんですか?」


 弓香は口元へ手を当て。


 少しだけ困ったように微笑んだ。


「申し訳ありません」


「兄たちなりの、挨拶のようなものですわ」


「天音家の挨拶、怖すぎませんか?」


「昔から、少しばかり過保護なのです」


「少しばかり?」


「はい」


 弓香は迷いなく頷く。


「私には、かなりに見えましたけど」


「本人たちは、普通だと思っております」


「それが一番怖いです」


 弓香は堪えきれないように。


 くすりと笑った。


「幼い頃から」


 弓香は兄たちが去った方向を見る。


「私が稽古で怪我をすれば、三人ともすぐに駆けつけてくださいました」


「落ち込んでいる時は」


「何も聞かず、側にいてくださいました」


「私が初めて強い弓を扱えた日も」


「自分のことのように、喜んでくださったのです」


 少し困ってはいる。


 けれど。


 弓香の声は、どこか嬉しそうだった。


「優しいお兄さんたちなんですね」


「はい」


 弓香は迷わず頷く。


「とても」


「殺すって言われましたけど」


「それを除けば」


「除けないと思います」


 縁之丞が言うと。


 弓香はまた、小さく笑った。


     ◇


「そういえば」


 弓香は思い出したように言う。


「兄たちは、昔から条件を決めております」


「条件?」


「私と結婚する男性についてです」


 縁之丞は、少しだけ身構えた。


「何て言ってるんですか?」


「自分たち三人よりも強い男性でなければ」


 弓香は穏やかに答える。


「私との結婚は認めないそうです」


「……三人全員より?」


「はい」


「槍士さんと、刀也さんと、剣吾さん全員?」


「はい」


「無理では?」


 弓香は上品に微笑む。


「冗談です」


 縁之丞は、ほっと息を吐く。


「ですよね」


「半分ほどは」


「半分は本気なんですね」


「ええ」


「やっぱり無理では?」


「兄たちより強い男性は」


 弓香は少し考える。


「あまり多くはないでしょうね」


「いないとは言わないんですね」


「世の中は広いですから」


 あまりにも真面目な顔で答えられ。


 縁之丞は、思わず笑ってしまった。


 弓香も。


 つられるように、柔らかな笑顔を浮かべる。


「ですが」


 弓香は少しだけ照れくさそうに続けた。


「私自身は」


「夫となる方へ、兄たちより強いことを求めておりません」


「そうなんですか?」


「はい」


「力だけで、人の価値が決まるわけではありませんから」


 弓香らしい答えだった。


「それに」


 弓香は僅かに目を細める。


「兄たちが認めるまで待っていたら」


「いつまでも結婚できないかもしれません」


「確かに」


 二人は顔を見合わせ。


 同時に笑った。


     ◇


 天音家を出た後。


 二人は、屋敷の近くにある土産物店へ立ち寄った。


 古い町並みに溶け込む。


 小さな和風の店だった。


 店内には。


 和柄の小物や。


 地元の菓子。


 木彫りの置物などが、所狭しと並んでいる。


「可愛らしいですね」


 弓香が、小さな巾着を手に取る。


 淡い花柄が描かれた。


 上品な品だった。


「女性への贈り物にも良さそうです」


「確かに」


「お母様へのお土産はいかがですか?」


「母さんなら、こういうの好きそうです」


 縁之丞は楓の顔を思い浮かべ。


 巾着を一つ選んだ。


 清之丞には、何がいいだろう。


 菓子でも買って帰ろうか。


 そんなことを考えながら。


 店内をゆっくりと見て回る。


 すると。


 棚の隅に。


 妙な置物が置かれていた。


「……何これ」


 縁之丞は思わず足を止める。


 木で作られた猫の置物。


 耳は左右で大きさが違い。


 目は半分閉じている。


 口元は。


 何とも言えない、間の抜けた笑みを浮かべていた。


 可愛いとは。


 少し言い難い。


 けれど。


 見れば見るほど。


 妙な愛嬌がある。


(本子、こういうの好きそうだな)


 自然と。


 本子の顔が浮かんだ。


 見せれば。


 間違いなく笑う。


 もしかすると。


『縁之丞に似てる』


 などと言い出すかもしれない。


「気になりますか?」


 いつの間にか。


 弓香が、隣へ来ていた。


「ちょっと変な置物で」


 縁之丞は、猫を弓香にも見せる。


「確かに」


 弓香は猫の顔を眺め。


 くすりと笑った。


「何とも、不思議なお顔ですね」


「見てると、だんだん面白くなりません?」


「はい」


「少しだけ、愛着も湧いてきます」


「ですよね」


 二人で並び。


 しばらく、猫の置物を眺める。


「どなたかへの、お土産ですか?」


 弓香が尋ねた。


「まだ、決めてません」


 そう答えながら。


 縁之丞の中では。


 すでに、渡したい相手が決まっていた。


     ◇


 弓香との時間は。


 素直に楽しかった。


 武道という共通の話題があり。


 話していて落ち着く。


 冗談を言えば。


 上品に笑ってくれる。


 美しく。


 強く。


 家族からも大切にされている。


 知れば知るほど。


 魅力的な女性だと思った。


 それなのに。


 面白いものを見つけた時。


 最初に見せたいと思った相手は。


(本子なら、絶対に笑うだろうな)


 今。


 隣を歩いている弓香ではない。


 幼い頃から。


 くだらないものを見つけるたび。


 一緒に笑ってきた。


 鬼灯本子だった。

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