第100話 好きな方
それからも。
縁之丞は、何度か弓香と街へ出かけた。
一緒に食事をし。
武道の話をし。
店を見て回り。
他愛もない会話を交わす。
最初は少し堅かった弓香も。
回数を重ねるうちに、以前より柔らかな笑顔を見せるようになった。
縁之丞も。
弓香と過ごす時間を、素直に楽しいと感じていた。
けれど。
新しい料理を見つければ。
(本子、こういうの好きそうだな)
変わった雑貨を手に取れば。
(あいつなら、何て言うだろう)
弓香に何かを褒められれば。
(本子にも見てもらいたかったな)
そんな考えが。
何度も、頭をよぎった。
意識して思い出しているわけではない。
忘れようとしても、浮かんでくるわけでもない。
ただ。
何かを見つけるたび。
何かを感じるたび。
ごく自然に。
縁之丞の中へ、本子が現れた。
◇
その日も。
二人は食事を終えた後。
夕日に染まる川沿いを、並んで歩いていた。
穏やかな風が吹き。
弓香の長い黒髪を、僅かに揺らす。
会話が途切れても。
二人の間に、気まずい空気はなかった。
しばらく静かに歩いた後。
弓香が口を開く。
「縁之丞さん」
「はい」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何ですか?」
弓香は足を止めなかった。
前を向いたまま。
穏やかな声で尋ねる。
「好きな方が、いらっしゃるのでしょう?」
縁之丞は思わず立ち止まった。
少し遅れて。
弓香も足を止め、振り返る。
「……どうして、そう思ったんですか?」
弓香は柔らかく微笑んだ。
「私と過ごしている間」
「何度も、その方を思い浮かべておられましたから」
「顔に出ていましたか?」
「いいえ」
弓香は首を横に振る。
「視線の動きや」
「何かをご覧になった後、少し考え込まれる時の間で分かりました」
「そこまで分かるものなんですね」
縁之丞は苦笑する。
「武道を続けておりますので」
「人の動きを見る癖が、ついているのかもしれません」
「なるほど……」
縁之丞は肩をすくめた。
「隠し事はできそうにないですね」
「そのつもりで見ていたわけではありませんよ」
弓香がくすりと笑う。
「ただ」
その笑顔が。
ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。
「あなたが、誰かを思い浮かべている時だけ」
「少し、表情が柔らかくなっておりましたので」
◇
「でも」
縁之丞は、川の向こうへ沈んでいく夕日を見る。
「まだ、好きかどうかは分からないんです」
「そうなのですか?」
「はい」
幼い頃から。
当たり前のように、隣にいた。
毎朝、一緒に学校へ行き。
くだらない話をして。
何かがあれば、最初に知らせてきた。
近すぎて。
それが恋なのかどうか。
縁之丞自身にも、分からなかった。
「ただの幼馴染なのか」
「それ以上なのか」
「考えれば考えるほど、分からなくなって」
弓香は黙って聞いていた。
そして。
少し考えてから、静かに尋ねる。
「では」
「その方が、別の男性を選ばれても平気ですか?」
「嫌です」
考えるよりも先に。
言葉が口をついて出た。
縁之丞自身が。
自分の答えに、最も驚いていた。
「……そうですか」
「はい」
今度は。
迷うことなく続ける。
「その人が、いなくなるのも嫌です」
「何かあれば、最初に話したいと思います」
「面白いものを見つけたら、見せたい」
「嬉しいことがあれば、一緒に喜んでほしい」
「隣にいるのが」
縁之丞は、胸の内にあるものを確かめるように言った。
「当たり前になっているんです」
その当たり前がなくなることを。
想像したくなかった。
弓香は何も言わず。
ただ。
静かに縁之丞の言葉を受け止めていた。
◇
「縁之丞さん」
やがて。
弓香は柔らかな声で言った。
「あなたは」
「私を、容姿や家柄だけで見ませんでした」
最初に気づいたのは。
着物でも。
髪でも。
整った顔立ちでもなかった。
弓香の足運びと。
その身体へ染みついた、武人としての技術だった。
「力のある女性を恐れず」
「私が積み重ねてきた武道を」
「心から褒めてくださいました」
弓香は、自分の手へ視線を落とす。
「これまで」
「令嬢としての私を褒めてくださる方は、何人もおりました」
「ですが」
「武人としての私を認めてくださった方は」
「あなたが初めてです」
縁之丞は黙って聞く。
「あなたと過ごした時間は」
弓香は顔を上げた。
「本当に、楽しいものでした」
その言葉に。
嘘はなかった。
弓香は少しだけ。
悪戯っぽく笑う。
「そこまで」
「あなたのような良い殿方に想われているなんて」
「その方が、少し羨ましいですわね」
「申し訳ありません」
縁之丞は頭を下げた。
けれど。
弓香は穏やかに首を横へ振る。
「謝らないでください」
「ですが」
「天音さんは、俺と会うために――」
「私が、そうしたかったのです」
弓香は静かに言葉を重ねる。
「私も」
「あなたを、好ましく思っております」
縁之丞は顔を上げた。
弓香は逃げることなく。
真っ直ぐに縁之丞を見ていた。
「武道に真摯に向き合い」
「力を持つ者を、偏見なく見てくださる」
「言葉も飾らず」
「思ったことを、真っ直ぐに伝えてくださる」
弓香は僅かに目を細める。
「もし」
「あなたのお心に、その方がいなければ」
「私は、このご縁を受けたいと思っておりました」
少しだけ風が吹く。
弓香の黒髪が。
静かに揺れた。
「だからこそ」
その声には。
寂しさが滲んでいた。
それでも。
弓香は、穏やかな笑顔を崩さない。
「中途半端なお気持ちで」
「私を選んでいただきたくはありません」
◇
「あなたが、本当に隣にいてほしいと願う方は」
弓香は優しく微笑む。
「私ではありません」
否定することはできなかった。
弓香といる時間は楽しかった。
美しいと思った。
強さも。
積み重ねてきた努力も。
その生き方も、心から尊敬している。
それでも。
何かを見つけた時に。
最初に顔を浮かべるのは、本子だった。
「その方には」
弓香は続ける。
「きちんと、お気持ちを伝えた方がよろしいですよ」
「でも」
縁之丞は僅かに俯く。
「まだ、自分でも分かっていません」
「好きなのかどうかも」
「分からないまま、伝えていいんでしょうか」
「すべてを理解してからでなければ」
「気持ちを伝えてはいけないのでしょうか?」
弓香の問いに。
縁之丞は顔を上げる。
「少なくとも」
弓香は静かに言った。
「その方を失いたくないというお気持ちは」
「もう、分かっておられるのでしょう?」
「……はい」
「でしたら」
「まずは、そのことを伝えるだけでもよいのではありませんか?」
弓香の言葉は。
縁之丞の胸へ、静かに届いた。
◇
「天音さん」
「はい」
縁之丞は。
今度は逃げずに、弓香を見る。
「この縁談を」
「お断りさせてください」
弓香は目を伏せた。
ほんの僅かな間。
沈黙が流れる。
やがて。
弓香は顔を上げ。
柔らかく微笑んだ。
「はい」
「承知いたしました」
「本当に、申し訳ありません」
「ですから」
弓香は少し困ったように笑う。
「謝らないでください」
「私も」
胸元へ、そっと手を添える。
「自分の心へ、嘘をつきたくはありませんから」
好ましく思っている。
だから、選ばれたかった。
けれど。
他の誰かを想ったまま選ばれることだけは。
受け入れたくなかった。
それが。
天音弓香という女性の誇りだった。
◇
別れ際。
弓香は、いつもと変わらない姿勢で。
縁之丞へ丁寧に頭を下げた。
「今日まで」
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
縁之丞も頭を下げる。
「弓香さんと出会えて、本当に良かったです」
「私もです」
弓香は笑った。
少しだけ寂しく。
それでも。
最後まで、凛とした笑顔だった。
最後まで。
天音弓香は、美しかった。
強く。
誇り高く。
相手の心を尊重しながら。
自分の心にも、嘘をつかない女性だった。
縁之丞は。
弓香を心から尊敬していた。
出会えたことを。
嬉しく思っていた。
それでも。
隣にいてほしいと願った人は。
弓香ではなかった。
何かを見つけた時。
最初に顔を浮かべ。
何もなくても。
ただ隣にいてほしいと思う人。
その人の名前を。
縁之丞はもう。
心の中で、分かっていた。




