第101話 市之瀬匠
縁之丞が天音弓香と顔合わせをしていた、同じ日。
本子もまた。
両親とともに、駅前の高級ホテルを訪れていた。
磨き上げられた大理石の床。
高い天井から下がる、大きな照明。
広々としたロビーには、抽象的な彫刻や絵画が飾られている。
普段は足を踏み入れることのない空間に、本子は少しだけ緊張していた。
「そんなに固くならなくても大丈夫よ」
隣を歩く彩葉が微笑む。
「分かってるけど」
本子は小さく息を吐いた。
「相手、二十六歳なんでしょ?」
「そうね」
「十歳も上なんだけど」
「今日は結婚を決める日じゃない」
隼人が落ち着いた声で言う。
「一度会って、話をするだけだ」
「それは分かってるけどさ」
十六歳の高校生と。
二十六歳の医師。
並べて考えるだけでも、住んでいる世界が違うように感じる。
ロビーの奥には、すでに三人の男女が待っていた。
眼鏡を掛けた、知的な雰囲気の男性。
その隣に立つ、上品な女性。
そして。
二人より少し前に立つ、背の高い青年。
整った顔立ち。
清潔感のある髪形。
濃紺のスーツを自然に着こなし、穏やかな微笑みを浮かべている。
市之瀬匠。
二十六歳。
アルカディア製薬の重役を父に持ち、現在は大学病院の外科に勤務している専攻医。
「鬼灯さんですね」
最初に声を掛けたのは、父親だった。
「市之瀬宗一郎です。本日はありがとうございます」
「鬼灯隼人です。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
父親同士が挨拶を交わす。
「妻の文乃です」
「市之瀬文乃と申します」
「鬼灯彩葉です」
母親同士も、穏やかに頭を下げた。
最後に。
匠が本子へ向き直る。
「初めまして。市之瀬匠です」
「鬼灯本子です。初めまして」
視線が合う。
落ち着いた眼差しだった。
品定めをするような雰囲気はなく。
ただ、真っ直ぐに本子を見ていた。
◇
両家は、ホテル上階にあるレストランの個室へ移動した。
大きな窓の向こうには、街並みが広がっている。
最初は両親を交えながら、互いの家や仕事について話した。
市之瀬宗一郎は、アルカディア製薬で研究開発部門を統括しているらしい。
難しそうな肩書きだったが。
「新しい薬を生み出す人たちが、働きやすい環境を整える仕事です」
宗一郎は、本子にも分かるように簡潔に説明した。
文乃は美術や音楽に詳しく、現在も大学で芸術史の講義を受け持っているという。
「趣味が高じて、仕事になってしまいました」
文乃は上品に笑う。
知的な家族。
それが、本子の抱いた第一印象だった。
食事が一段落したところで。
宗一郎が静かに口を開く。
「せっかくですから、少し若いお二人だけでお話しされてはいかがでしょう」
「そうですね」
隼人も頷いた。
両親たちは席を外し。
個室には、本子と匠だけが残った。
途端に。
本子の背筋へ力が入る。
何を話せばいいのだろう。
学校の話。
仕事の話。
それとも、結婚について聞かれるのだろうか。
そんな不安を見抜いたように。
匠が先に口を開いた。
「最初に、一つだけお伝えしてもよろしいですか?」
「はい」
「僕と鬼灯さんには、十歳の年齢差があります」
匠の声は穏やかだった。
「あなたはまだ学生ですし、今日お会いしたからといって、すぐにお返事を求めるつもりはありません」
本子は目を瞬く。
「今日のところは」
匠は柔らかく微笑んだ。
「縁談の相手としてではなく、まずは一人の人間としてお話しできればと思っています」
「……ありがとうございます」
胸の奥にあった緊張が、少しだけ解ける。
「正直、十歳も上の人と何を話せばいいのか分からなくて」
「僕も、十歳年下の方と二人で話すのは初めてです」
「市之瀬さんも緊張してるんですか?」
「ええ。それなりには」
「全然そう見えませんけど」
「見えないようにしておりますので」
匠が冗談めかして答える。
本子が少し笑うと。
匠も安心したように笑った。
◇
食事の後。
二人はホテルのロビーへ戻った。
両親たちはまだ話を続けているらしく、少し自由に館内を見て回ることになった。
匠は、ロビーに飾られた人体を模した彫刻の前で足を止める。
「こういう作品は、お好きですか?」
「正直、よく分からないです」
本子は遠慮なく答えた。
「何を表してるのかも分からないし」
「僕にも、正解は分かりません」
「市之瀬さんでも?」
「芸術に正解はありませんから」
匠は彫刻を見上げる。
「人の身体は、一つの完成された芸術だと思っています」
「芸術、ですか?」
「ええ」
匠は自分の手を見つめる。
「骨や筋肉、血管、神経」
「すべてが複雑に組み合わさって、一人の人間を動かしている」
「どれか一つが欠けても、同じようには動きません」
本子は黙って話を聞く。
「だからこそ」
匠は穏やかに続ける。
「それを治す仕事には、技術だけではなく、美しさも必要だと思っています」
「手術にも、美しさがあるんですか?」
「あります」
迷いのない答えだった。
「無駄のない動き」
「組織を必要以上に傷つけない正確さ」
「傷痕をできる限り小さくする工夫」
「患者さんの身体へ残るものだからこそ、綺麗な仕事をしたいと思っています」
本子には、医学のことは分からない。
けれど。
匠が自分の仕事を大切にしていることは伝わった。
「市之瀬さんって、お医者さんの仕事が好きなんですね」
「はい」
匠は少し照れたように笑った。
「大変なことも多いですが」
「好きだから続けられているのだと思います」
医学。
芸術。
音楽。
本子が知らない世界の話。
それでも匠は、難しい言葉を使わず。
本子の表情を確かめながら、ゆっくりと話してくれた。
聞いているだけで。
純粋に楽しかった。
◇
「それで、母が好きな画家が――」
匠の話へ耳を傾けながら、本子は横を向いたまま歩いていた。
「鬼灯さん」
「はい?」
「前を」
「前?」
顔を戻すと。
目の前には、館内案内板が立っていた。
「うわっ」
本子は慌てて足を止める。
額が触れる寸前だった。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
匠は笑わず、心配そうに本子の顔をのぞき込む。
その落ち着いた反応が、かえって恥ずかしい。
「話に夢中になってました」
「僕が一方的に話しすぎましたね」
「違います」
本子はすぐに否定した。
「私、昔からよくぶつかりそうになるんです」
「そうなのですか?」
「考え事してたり、誰かと話してたりすると」
「では、歩く時は僕が前を確認しておきます」
「子供じゃないんですけど」
「失礼しました」
匠が真面目な顔で頭を下げる。
「でも、ちょっとだけお願いします」
本子が小さな声で付け加えると。
匠は楽しそうに笑った。
◇
二人で個室へ戻り。
再び席へ着いた後。
本子は膝の上へ置こうとしたナプキンを、手元から滑らせてしまった。
「あっ」
床へ落ちるより先に。
匠が手を伸ばして受け止める。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
本子は少し気まずそうに受け取った。
「私、今日ちょっと失敗しすぎじゃないですか?」
「緊張されているのでは?」
「さっきよりは、してないです」
「では、普段から?」
「そこは聞かないでください」
本子は恥ずかしそうに顔を背ける。
匠は口元を緩めた。
「秘密にしておきます」
「お願いします」
「ご両親にも?」
「絶対に」
「承知しました」
「笑ってません?」
「笑っておりません」
「口元が笑ってます」
「気のせいです」
本子も耐えきれずに笑う。
匠も、穏やかに笑った。
最初にあった堅苦しさは。
いつの間にか、ほとんどなくなっていた。
◇
顔合わせを終え。
ホテルの入口で別れる時。
「今日はありがとうございました」
匠が丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ」
本子も頭を下げた。
「お話、面白かったです」
「それは良かった」
匠は穏やかに微笑む。
「また、お話しする機会をいただければ嬉しいです」
「はい」
本子も自然に頷いていた。
飾らずに笑い。
時折、少し抜けたところを見せる本子を。
匠は、好ましく思い始めていた。
本子もまた。
市之瀬匠を。
素敵な人だと感じていた。




