第102話 完成された芸術
顔合わせから、一週間後。
本子は市之瀬匠と二人で、市内の美術館を訪れていた。
もちろん。
二人だけで出かけることについては、両家の了承を得ている。
今日は、国内外の彫刻や絵画を集めた特別展が開かれていた。
休日ということもあり、館内には多くの人が訪れている。
「美術館って、ほとんど来たことないんですよね」
受付でもらった案内冊子を眺めながら、本子が言う。
「学校の行事くらいですか?」
「はい」
「静かに絵を見て、よく分からないまま帰るところだと思ってました」
「なかなか率直な感想ですね」
匠は怒ることなく、楽しそうに微笑んだ。
「ですが、分からないままでも構わないと思います」
「そうなんですか?」
「美術には、必ず理解しなければならない正解があるわけではありませんから」
二人は並んで、最初の展示室へ入った。
◇
最初に飾られていたのは、大きな風景画だった。
夕日に染まる港町。
海の上には、いくつもの小舟が浮かんでいる。
「この絵は、百年以上前に描かれたものです」
匠が静かに話し始める。
「写真が今ほど身近ではなかった時代、画家にとって絵を描くことは、その瞬間を残す方法でもありました」
「じゃあ、昔の写真みたいなものですか?」
「その役割もあったと思います」
匠は絵へ視線を向けたまま頷く。
「ですが、写真とは違って」
「画家が何を美しいと感じたのかも、絵の中に残ります」
「実際より、空が赤いかもしれない」
「本当はなかった船を、描き加えたかもしれない」
「見たままではなく、心に映った景色を残したとも考えられます」
本子は、改めて絵を見つめた。
最初は、ただの夕焼けにしか見えなかった。
けれど。
そう言われてみれば。
空の赤色は、少し不自然なほど鮮やかだった。
「この人には、こんなふうに見えてたんですね」
「ええ」
「そう考えると、少し面白くなりませんか?」
「ちょっとだけ」
本子が答えると。
匠は満足そうに笑った。
◇
次の展示室には、数多くの彫刻が並んでいた。
中央には、人間の上半身を模した白い彫像が置かれている。
布をまとっただけの、簡素な姿。
それなのに。
肩や腕の筋肉。
首筋のわずかな傾き。
皮膚の下に骨があることまで感じられるほど、精巧に作られていた。
「すごいですね」
本子は彫像の周囲をゆっくり歩く。
「石なのに、柔らかそうに見えます」
「彫刻家は、石の中にある形を見つけて掘り出すのだ、と表現することがあります」
「最初から中に人がいるってことですか?」
「実際にいるわけではありませんが」
匠は少し笑う。
「完成した姿を思い描き、余計な部分だけを削っていく、ということです」
「削りすぎたら、戻せませんよね」
「ええ」
「だからこそ、一度の判断が重要になります」
匠は、彫像の腕へ視線を向ける。
「外科手術も、必要な部分だけへ手を加えるという点では、彫刻に似ていると思っています」
「切るのに、作ることと似てるんですか?」
「似ている部分はあります」
匠の表情が、少しだけ変わった。
顔合わせの時と同じ。
仕事について話す時に見せる、静かな情熱。
「手術だからといって、身体のすべてへ手を加えるわけではありません」
「余計な部分を傷つけず」
「必要な場所を見極め」
「必要な分だけ、正確に触れる」
「彫刻家が一つ削る場所を間違えれば、作品の形が変わるように」
「外科医の一つの動きが、患者さんの身体へ大きな影響を与えることもあります」
本子は、無意識に息を止めていた。
匠の声は穏やかだった。
難しい言葉も使っていない。
けれど。
その一言一言から。
人の身体へ触れることに対する責任が伝わってくる。
「怖くないんですか?」
本子が尋ねる。
「手術するの」
匠はすぐには答えなかった。
少し考えてから、静かに口を開く。
「怖いですよ」
「そうなんですか?」
「怖くなくなってはいけないと思っています」
意外な答えだった。
「自分の判断が、誰かの人生へ関わる仕事です」
「慣れて、何も感じなくなる方が怖い」
「だから、怖さを抱えたまま」
「その上で、できる限り正確に手を動かします」
匠は彫像を見つめる。
「余計な部分を傷つけず、必要な部分だけへ触れる」
「そこに、美しさがあると思っています」
本子は、匠の横顔を見た。
知識があるから、すごいのではない。
医師だから、格好いいのでもない。
自分の仕事が持つ責任から逃げず。
それでも、人を治すことを美しいと信じている。
その在り方を。
本子は心から尊敬した。
◇
「こちらの作品は――」
匠は次の絵画の前でも、丁寧に説明してくれた。
描かれた時代。
当時使われていた画材。
明るい色の下へ、別の色が重ねられていること。
作者が何を伝えようとしたのか。
けれど。
知識を押しつけるような話し方ではない。
「鬼灯さんは、どう見えますか?」
必ず、本子の感じ方も聞いてくれる。
「寂しそうです」
「どの辺りが?」
「女の人は笑ってるけど、周りに誰もいないから」
「なるほど」
匠は絵を見つめ直す。
「僕は、何かを待っているように見えました」
「待ってる?」
「遠くを見ていますから」
「では、寂しいのではなく」
「これから誰かが来るのかもしれませんね」
同じ絵を見ても。
感じることは違う。
どちらが正しいわけでもない。
そのことが、本子には新鮮だった。
「美術館って、もっと堅苦しい場所だと思ってました」
「少し印象が変わりましたか?」
「はい」
本子は素直に頷く。
「市之瀬さんと来たからかもしれませんけど」
匠は少し目を見開いた後。
嬉しそうに微笑んだ。
「そう言っていただけると、案内した甲斐があります」
◇
それからも。
匠は一つの絵の前で立ち止まり、熱心に話し続けた。
光の描き方。
影の使い方。
人物の視線が持つ意味。
本子も最初は、興味深く聞いていた。
だが。
ふと館内の時計を見る。
「市之瀬さん」
「はい。この背景に描かれている建物なのですが――」
「市之瀬さん」
「当時の都市設計を知る上でも――」
「予約してた喫茶店、大丈夫ですか?」
匠の動きが止まった。
「……喫茶店?」
「一時に予約したって言ってませんでした?」
匠は腕時計を見る。
時刻は、十二時五十分。
喫茶店は美術館の反対側にある。
「急ぎましょう」
匠は何事もなかったように歩き出した。
「忘れてましたよね?」
「忘れてはいません」
「今、喫茶店って聞き返しましたよね?」
「絵画へ集中していただけです」
「それを忘れてたって言うんじゃないですか?」
「違いについては、後ほど検討します」
「認めないんですね」
本子は呆れながらも、思わず笑ってしまう。
完璧に見えるのに。
好きなことへ夢中になると、時間まで見えなくなる。
そんなところは。
少しだけ放っておけないと思った。
◇
美術館を出る頃には。
午後の日差しが、少しだけ傾き始めていた。
「本日は、ありがとうございました」
匠が丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ」
「美術館、楽しかったです」
「本当ですか?」
「はい」
本子は笑う。
「今度来た時は、一人でも少しくらい分かる気がします」
「分かろうとしなくても構いません」
匠は穏やかに答える。
「鬼灯さんが何を感じたか」
「それだけ覚えていれば、十分だと思います」
最後まで。
匠は自分の知識を、本子へ押しつけることはなかった。
「鬼灯さん」
「はい」
「また、お会いしていただけますか?」
匠は本子の返事を急かさない。
「もちろん、断っていただいても構いません」
本子は少し考える。
気を遣ったわけではない。
両親に勧められたからでもない。
匠と過ごす時間を。
本当に楽しいと感じていた。
「また、お願いします」
「ありがとうございます」
匠は安心したように微笑んだ。
◇
帰りの電車。
本子は窓の外を眺めながら、今日見たものを思い返す。
夕日に染まった港町。
石から掘り出されたような、人間の身体。
笑いながら遠くを見つめる女性。
手術と彫刻が似ているという話。
知らないことばかりだった。
もっと聞いてみたいと思った。
そして。
この話を、誰かにしたいと思った。
(縁之丞、何て言うかな)
最初に顔を浮かべたのは。
今日、一緒に過ごした市之瀬匠ではなく。
幼い頃から隣にいる。
霧島縁之丞だった。




